プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

村上公康

2016-05-04 22:49:42 | 日記
1966年

捕手陣の強化をめざす西鉄ライオンズは、さきに交渉権を得ていたノンプロ日本楽器の村上公康捕手(21)と入団交渉を進めていたが、このほど正式に契約したむね四日に発表した。同選手は愛媛県西条高から立大に進み、二年で中退。昨年日本楽器に入社した。高校時代には三十七年夏の甲子園大会に出場。準決勝で伊藤投手(現駒大)の久留米商に3-0で敗れている。日本楽器では昨年・288、ことしは・323の打率を残し、二年間の通算は3割ちょっと。ことしは打率、打点、本塁打ともチーム最高をマークしている。身長174㌢、体重71㌔とからだこど大きくないが、パンチ力もあり、キャッチング、スローイングもいい。選択会議でも、近鉄、阪急がリスト・アップしていた。右投げ右打ち。背番号10。なお同選手は十五日、六日ごろ来福、練習に参加する予定。
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坂井勝二

2016-05-04 17:20:05 | 日記
1977年「日本ハム退団直後」
・坂井の年齢は、この3月で39歳になる。なるほど18年間投げつづけてきての39歳だから、限界といえばそうなのかもしれない。だから、球団が坂井の任意引退の理由として「本人が肉体的限界を理由に退団を申し出たので・・」という説明も一応もっともなのだが、果たして本人が本当にそう思っているのか、どうか。
現役時代の坂井をよく知る担当記者はいう「年齢を感じさせない若々しい肉体が自慢だった男が、肉体的限界を理由にしてやめるものか。やめたのではなく、やめさせられたのだよ」では何故やめさせられたのか、複雑なそのあたりの事情を語りたがらない坂井は、話のかわりにこういう「貯えといってもべつにないが、当分、そう半年か1年はブラブラ遊んで暮らすよ。野球?もうイヤだね」その気になれば、キャリアからいってもコーチ、解説者にもなれる男なのに、もう野球から身を引きたいというところに複雑な引退劇がうかがえる。坂井が大洋から日本ハムに移ったのは一昨年の事「過去に実績のある選手の最後の踏ん張り、最後の花が咲くのを期待している」として、ロッテ時代にいっしょだった大沢監督が引っぱったのだった。このままなら2人の信頼関係はいまだ続いただろうが、期待通りの投球ができない坂井を見限り始めた監督と、使われ方に不満の出た坂井との間にファーム落ちを契機に不穏なムードが生じていた。ましてや三原球団社長は坂井の入団に際し「ただでもいらん」といっていたぐらいだから、結果はどうなるか明白だった。
「いまは何もいいたくない」と坂井が黙して語らないから真相は定かではないが、肉体的限界が理由で自ら望んだ退団でないことだけは確かだ。2,3勝しか期待できないのに年俸700万は高いと、25パーセント減を提示されれば、やめたくもなるだろう。もともと坂井の野球人生には悲運がついてまわる。そのひとつが投手の栄光の記録ノーヒットノーランを逃したことだ。この記録を9回に入って逃したケースは15例あるが、東京オリオンズ時代の1967年の東映戦に先発した坂井は9回を終えても無安打無得点ピッチング。ところが味方も無得点だから延長10回も投げ続け、ここで東映打線につかまり敗戦投手。これだけでなく当時のオリオンズ打線はいったん火を噴くとすざましいが、沈黙すると別人のようにおとなしかった。そして坂井が好投すると必ずといっていいほど打線が沈黙したものだ。「でも、べつに気にもしなかった。いちいち気にしてたらやっていけないもの」
ポーカーフェイスを崩さず投げ続けた坂井。が、悲運といわれながらもこの頃が一番充実した野球人生ではなかったろうか。福岡・田川中央高ー専修大を経て1959年当時の大毎オリオンズに入団。4年目に初の二ケタ「11勝」から14、25、10,11,13,16勝と勝ち星を重ねものにしたエースの座。「情熱の人」といわれた永田オーナーに可愛がられたのがロッテになるまでの坂井の楽しい思い出だった。1970年には平岡一郎投手との交換トレードで大洋に移籍。すると前年は6勝に終わった坂井は絶妙なコントロールを駆使し再び10勝投手にカムバック。が、悲劇はどこまでもつきまとう。例の球界を揺るがした「黒い霧事件」に巻き込まれ坂井は無期限出場停止の処分を受けた。さらに人を驚かせたのは無類の酒豪。ビールにウィスキーに日本酒をどんぶりに一緒に注いでも飲んでもビクともしない。宵越しの金は持たないといった感じで若い選手を引き連れて飲み歩く、豪快な遊びっぷりは有名で、こんなところが人に誤解されたのかもしれない。謹慎処分が解けてからの坂井は「クイック・インタバル投法」で再浮上してきた。ちぎっては投げ、ちぎっては投げの間合いの短い投法はバッテリー間のノーサインの呼吸を合わせねばならないが、打者に配給を読む間を与えさせず若い打者などはキリキリ舞い、大成功だった。特に坂井を真似た中日・松本投手との投げ合いにになると常に1時間台の試合が期待できるとあって締め切りに追われる、ネット裏マスコミには大好評ったものだ。こうして18年間の思いを残し坂井は球界から去っていく。「せめて最後だけは華やかに送ってあげよう」と日本ハム球団が「引退始球式」をプランしている。その「始球」が第二の人生のバラ色の出発となってほしいものだ。
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柳田俊郎

2016-05-04 17:19:06 | 日記
1966年

九州学院の柳田俊郎外野手(18)=熊本市大江町=の西鉄入団が正式に決まり、一日熊本市の自宅で契約書に調印した。調印式は同日午前十時から同選手の後見人柳田宗平氏(同市新町)の立ち会いで西鉄深見スカウトとの間で行われた。柳田選手は身長177㌢、体重75㌔。高校一年のときから俊足、好打の大型外野手として有望視されていた。二年生から九学の中堅手として出場。公式戦の打率は二年のときが三割三分七厘、三年が四割七分六厘とつねに三割以上をマークしている。

柳田選手の話 西鉄は地元球団でもあり、チームカラーがすきだ。西鉄にはさいわいに高倉選手などいい先輩が健在なので、じゅうぶん指導してもらい、一日も早くプロの水になれ、公式戦に出場したい。現在は本妙寺の階段(約七百段)をランニングして足腰を鍛えている。

柳田宗平さんの話 兄が昨年六学死亡していらい後見人の立ち場にあるが、正式に契約が決まりホッとしている。俊郎のことは深見スカウトに一任した。一日も早く出場できるようがんばってほしい。
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氏家雅之

2016-05-04 14:03:38 | 日記
1975年

かつての尾崎将司(元西鉄)のように、プロ・ゴルファーへの転向組が多いのも、生活していく上での方便を求めるためだ。すでにもう四人が名乗りをあげている。中でも「転向」の決心が早かったのは、中日の氏家雅之投手(23)、四十五年、愛知県の高校からドラフト一位で入団。これも一軍に出場することなく引退。失意の胸中を示すかのように「他人には居所を知らせないでほしい」といい置いて、十一月二十三日から家を出ている。「息子はいま、静岡県のあるゴルフ練習場に住み込んでいます。もう一度勝負してみたい、といって・・・・・。サラリーマンになったら、と勧めても聞きませんでした。一人前になるまでは、家にも帰らないといっています」。母親(46)の言葉だった。氏家投手のほかには、中日ー近鉄に計七年在籍して自由契約となった川口孝秀投手(25)が、これまで一度も握ったことがないクラブを振る。
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