1967年
阪神タイガースは十八日午後一時から大阪市梅田の阪神本社六階会議室で、春の選抜高校野球の優勝投手、津久見高校吉良修一投手(18)=右投げ、右打ち、180㌢、75㌔=の入団を発表した。吉良投手は、選抜高校野球大会に初出場した津久見高のエースとして、優勝戦までの4試合を一人で投げ抜き、武器であるドロップを駆使してみごと全国優勝を成し遂げたもので、西鉄入りした河原(大分商)とともに右の本格派投手として高校球界の双へきといわれた。阪神ではさきの新人選択会議で第二位にランクして交渉権を獲得したが、甲子園球場を本拠地とする阪神に、甲子園大会の優勝投手が入団するのは、三十五年の金子(西条高)いらい七年ぶりである。
吉良投手は母親房子さん(44)に付き添われ、戸沢代表の立ち会いで入団発表の席に姿を見せた。青春のシンボルが顔いっぱいに吹き出し、メガネの奥の目が絶えず笑っていた。報道陣の質問にもハキハキ答えるあたり、いかにも名門校出身らしい折り目正しさ、報道陣との応対は、すでに選抜大会で優勝したときに経験ずみとはいえ、高校生ばなれした落ち着きようだった。吉良投手自身は、日本石油への就職が内定していたが、「家庭の事情とプロでやってみたいという気持からプロ入りに踏み切りました」ちお説明。小学校二年のとき父親重義さんをなくし、母親の手一つで育てられたが「意志の強い子です」(母親房子さんの話)というとおり、シンの強さをのぞかせていた。吉良投手の名を全国に高めた選抜大会では、4試合で奪った三振は51、対高知との優勝では延長十二回を投げて三振16個を奪っている。その試合で、一死三塁に走者を置いたピンチで、打者がスクイズすることがわかっていながら真っ向から勝負して投げ勝ち、試合後「ボクのドロップはスクイズできないと自信を持っていた」と自信満々で語ったことは有名。投手になったのは中学三年のときからだが、中学二年の新人戦には、盲腸を手術してから十五日めに遊撃手として試合に出場したというエピソードもある。野球の強い学校ということで、高校は一人で下宿して校区外の津久見高に進学。二年生の秋の九州大会大分県予選では、臼杵商を相手にノーヒットノーラン試合を演じた。
阪神タイガースは十八日午後一時から大阪市梅田の阪神本社六階会議室で、春の選抜高校野球の優勝投手、津久見高校吉良修一投手(18)=右投げ、右打ち、180㌢、75㌔=の入団を発表した。吉良投手は、選抜高校野球大会に初出場した津久見高のエースとして、優勝戦までの4試合を一人で投げ抜き、武器であるドロップを駆使してみごと全国優勝を成し遂げたもので、西鉄入りした河原(大分商)とともに右の本格派投手として高校球界の双へきといわれた。阪神ではさきの新人選択会議で第二位にランクして交渉権を獲得したが、甲子園球場を本拠地とする阪神に、甲子園大会の優勝投手が入団するのは、三十五年の金子(西条高)いらい七年ぶりである。
吉良投手は母親房子さん(44)に付き添われ、戸沢代表の立ち会いで入団発表の席に姿を見せた。青春のシンボルが顔いっぱいに吹き出し、メガネの奥の目が絶えず笑っていた。報道陣の質問にもハキハキ答えるあたり、いかにも名門校出身らしい折り目正しさ、報道陣との応対は、すでに選抜大会で優勝したときに経験ずみとはいえ、高校生ばなれした落ち着きようだった。吉良投手自身は、日本石油への就職が内定していたが、「家庭の事情とプロでやってみたいという気持からプロ入りに踏み切りました」ちお説明。小学校二年のとき父親重義さんをなくし、母親の手一つで育てられたが「意志の強い子です」(母親房子さんの話)というとおり、シンの強さをのぞかせていた。吉良投手の名を全国に高めた選抜大会では、4試合で奪った三振は51、対高知との優勝では延長十二回を投げて三振16個を奪っている。その試合で、一死三塁に走者を置いたピンチで、打者がスクイズすることがわかっていながら真っ向から勝負して投げ勝ち、試合後「ボクのドロップはスクイズできないと自信を持っていた」と自信満々で語ったことは有名。投手になったのは中学三年のときからだが、中学二年の新人戦には、盲腸を手術してから十五日めに遊撃手として試合に出場したというエピソードもある。野球の強い学校ということで、高校は一人で下宿して校区外の津久見高に進学。二年生の秋の九州大会大分県予選では、臼杵商を相手にノーヒットノーラン試合を演じた。