プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

祓川正敏

2016-05-25 21:07:32 | 日記
1959年

祓川が南海に入団したのは32年。だからことしで三年目。入団当初は「この名前はなんてよむのかな」といわれたものだが、いまはパ・リーグのファンなら「ハライカワ」と読むのに苦労しない。それだけファンの耳に、目に接する機会が多いーつまり売り出し中というわけ。現在は7試合に登板。4勝1敗の好成績。1㍍75、75㌔の身体はいまのプロ野球ではあまり大きいほうでもなく、投球もまた決してハデではない。スリークォーターから投げる内容は直球、スライダー、シュート、カーブ、落ちる球の五種類だが、このうち落ちる球は意識せずに落ちている。祓川の球は金彦ほどの重さはなく、また変化の大きさもないが、ピッチングがよくまとまっているといえる。といって決してコーナーワークだけにたよる投手ではない。調子のよいときは真っ向から押すだけの球速と力を備えている。スタミナの点はまだ完投が一度だけで、本人もよくわからないらしいが「最初からその回、その回を力いっぱい投げていく。それでいてヘタバルことはなかった」というから体力的にはタフなのだろう。問題は制球力である。過去7試合の登板中5試合までが先発という具合で、ちょうど金彦とは対照的な使われ方だが、そのうち完投勝利は四月二十六日の対阪急戦だけ。つづく三十日の対近鉄戦でも八回まで3安打に封じ、連続完投勝利を思わせながら、九回先頭の関根を四球に歩かせたため、皆川の救援を受けている。このときは1-0と接近したスコアという背景で、大事をとったのだが、これというのも祓川が急激にそれも四球からつぶれるという欠点を知っていたからだ。34イニングス投げて被安打が27、奪三振23、与四死球15、自責点15という数字をみれば、四球をもとに一気にくずれる祓川の欠点がよくわかる。とにかく祓川が入団いらい自分のピッチングで一番苦しんだのは、調子の波が大きいことだった。これを「毎日同じピッチングをしていたのでは改まらない。やはりその時、その場での調子に合わせたピッチングを練習していかないとダメだ」と気づいて二年間そのことに努力した。結果はかなり波の小さいピッチングができるようになったが、制球力だけはどうにもならない。その原因はどうやら投げ方にあるようだ。もともと祓川の投げ方はサイドスロー、それをオーバーハンドに変えて、球も速くなりスムーズに投げられるようになったのだが、「疲れてくるといつの間にかサイドに近づいてくる」という。これがたんに制球を狂わしているのだろう。この場合本人がすぐ意識して球のはなし、腰の回転をかえればいいのだが、そんあ器用さはもち合せていない。またそれと気づかずに、同じ腰の回転、手先の使い方をすれば、腕の角度は違っているのだから、コントロールが悪くなるのは当たり前、結局腕の振りをしっかり自分のものにする必要があるわけだ。こんご安定した投球に成長するか否かは、この自己のフォームをしっかりつかみ固定させることにかかっているといえる。

ー自分の投球に自信をもったのは。
祓川 やはり阪急戦で完投したときだが入団いらいはじめての完投勝利ですからね。
ー先発、救援どちらが好きか。
祓川 先発のほうがよい。まだ経験不足だし、制球力も十分でないから勝っているときの救援はちょっと荷が重い。
ー自信をもっている球は。
祓川 スピードボールだが、最近はスライダーにも自信がもてるようになった。
ー球の配合は自分で考えるのか。
祓川 すべて野村さんのサインどおり投げている。
ー投げていて堅くなるか。
祓川 昨年はほとんどアガっていたが、ことしはそうでもない。少し余裕が出てきたのでしょう。
ーこんごの課題は。
祓川 制球力を自分のものにすること。これさえつかめば、かなりやれると思います。
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金彦仁重

2016-05-25 20:29:40 | 日記
1959年

ペナントレースに入って金彦の活躍は目覚ましい。プロ入り四年目とはいえ過去三年間はほとんど二軍で過ごしていたのが、今シーズンデビューいらい4勝0敗の成績もりっぱだが、金彦の場合はチームにとって勝ち星以上に貴重な存在になりつつある。というのは試合数32の三分の一を超える19試合に登板。しかもその内訳が先発3、救援10である。さらに救援してその責を全うしなかったのは二度だけで、八度は救援完投である。南海の投手陣を見渡したとき十分完投できるのは杉浦ぐらいのもの。他は七回以後に必ず疲労が出てあぶない橋を渡る型の投手。そうなると当然三回程度をピタリと押えられる救援投手が必要なわけだが、金彦はこの継投をみごとに果たしている。これが実に貴重なのだ。もともとこうした役割は経験の乏しい新人投手にはむずかしいことだが、金彦は経験の不足を若い力で補っている。1㍍78、75㌔という大きさに加えて腕っぷしがまた無類の強さ、オープン戦で巨人別所投手から、公式戦でも四月二十六日阪急の柴田投手からいずれも左翼上段にぶち込む本塁打をたたいているほどだ。だから投げる球にも力があり、重い。速いことも速いがスピードよりこの力と重さが金彦の身上といってよい。それにいま一つ球の出てくる場所がかかわっているのも強味のようだ。金彦はもともと上手投げの投手。これが入団した年にヒジと肩を痛めて投げられなくなってスリークォーターに変わった。ところが最近はこの腕がぐっと下がって肩の高さまで落ち、横手投げに近くなっている。本人は「人にいわれてはじめて腕の下がりに気づいた」そうだが「うちのバッターの人に聞いてみると、そのほうが打ちにくいというので、そのままにしている」という。ステップも宅和の全盛時代に似ている。当然球は右打者の背中のほうから出てくることになって、打者は知らず知らずのうちに腰を早く開いてしまう。球が重くて速ければ、よけい腰を入れたバッティングを要求されるのだが、その逆にならざるをえない。しかしこの投げ方は上体や肩、腕にムリがくるし、下半身の弱りや腰の回転が悪いと外角に球が決まらない。このため本人もできるだけ上から投げるようにしまたインステップを改めようと努力したらしい。だが「これをやると球が素直になってしまう」ので多少変形でも当分いまのままでやっていくことに決心したようだ。ピッチングの内容は直球と大きく曲がり落ちるカーブ。それにシュート。見ているとグーっと沈む球もあるが、これは「少し上から投げるシュートが沈む」とのこと。学生時代はフォークボールを投げていたそうだが「やはり力で投げるのが本当」と考えなおしていまは投げていない。制球力はいまのところまずまず。多少誤ったコースに投げても、力があるためそう大ケガをしていないということもあるが、41回1/3を投げて8四球だからコントロールでくずれることは少ない。しかし本人は過去無制球のゆえに一軍の試合はおろか打撃練習の投手にも使ってもらえなかった。そういった不安にいまでもときたま脅かされて「つねに四球を出さないよう」心がけているそうだ。ともかく41回1/3を投げて、防御率1・93という数字はりっぱである。
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村山泰延

2016-05-25 19:57:08 | 日記
1959年

肩の故障も完治し、開幕当初から張り切っていたが、ひとつの壁にぶつかった感じで伸び悩み、公式戦には四月二十四日の対大毎戦にわずか一度登板しただけである。その村山が、このほどフォームを変えて新しくスタートしようとして注目を引いている。すなわち従来のスリークォーターだったのを、アンダースローに切替え、南海の杉浦ばりのピッチングをしようとしているわけだ。二十三日午後平和台で行われた対阪急二軍戦に先発し、敗戦投手にこそなったが、すでにこれまでに見られなかった独特の球質が見られ、このフォームを完全に自分のものにしたときの村山には、相当の期待がかけられるのではなかろうか。下手投げに変えて出直そうとする村山投手に動機、抱負などを聞いてみよう。

ーフォームを変えたのはいつごろから?
村山 たしか今月の六日だったと思う。南海戦が終ったときからです。下から投げはじめて十八日ぐらいになりますかね・・・。
ー動機は?
村山 上から投げていたが、一度肩をこわすとどうしても自信がなくなる。これまで自分でもいろいろ悩んできたが、監督さんが思い切って下から投げてみたら・・・と言われたので、アンダースローに切り替えることにした。
ーこれまで下から投げた経験は?
村山 これが初めてです。とにかく慣れぬフォームだから、多く投げるとヒジがジンジンと張ったような気がする。腰の回転や筋肉の使いどころが、上から投げるのと下からとでは全然違うだろう。横腹が痛い。下半身のささえもより以上に必要なので、足も早く疲れ、全身がだるい感じだ。
ースリークォーターのピッチングに比べてみた場合どうか?
村山 変えた以上はなんとかしてこのフォームをマスターしたい。
ーこれからの課題は?
村山 第一に早くフォームを安定させることだ。現在は意識して投げる間はいいが、ちょっと油断すると、すぐもとのフォームに戻ってしまう。もうひとつは変化球だ。下から投げてもコントロールは自分で思ったほど大きな狂いはなかった。カーブ、シュートなど小さく鋭く変化する球も合わせてマスターしたい。
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