プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

登記欣也

2016-05-05 20:10:37 | 日記
1978年

近鉄がドラフト会議で1位指名した神戸製鋼の登記欣也投手(26)=172㌢、74㌔、右投げ右打ち=の入団が四日、決定した。同日夕、近鉄の中島スカウト部長と河西スカウトは神戸市内のホテルで同投手と神戸製鋼の清水総監督に会い、三度目の入団交渉を行った。近鉄側が掲示した契約金三千万円、年棒三百六十万円(いずれも推定)の条件に登記側が合意、その場で仮契約を完了した。八日または九日に正式契約のうえ入団発表の運びとなる。ドラフト一位指名選手の入団決定は大洋・高本、阪急・関口に次いで三人目。近鉄のドラフト指名選手では初めて。同投手は愛媛県・帝京五高時代の四十四年、選抜大会に出場、卒業後は神戸製鋼のエースとして活躍している。昨年の都市対抗では、同社が中心となった神戸市の優勝の立役者となり、大会優秀選手に選ばれた。上背はないが、絶妙のコントロールを誇り、変化球を巧みに操る。決め球はパームボール。近鉄では即戦力の中つぎ、救援投手として期待している。

登記投手の話 プロでやる気持ちは固まっていたから、仮契約が済んで今はすっきりした気分だ。
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梅沢義勝

2016-05-05 19:38:58 | 日記
1977年

華やかなフットライトを浴びた松本、小松両投手と違い、なじみは薄い。「鬼怒」という地名からは、栃木県の鬼怒川温泉が思い出される。ところが学校は鬼怒川のずっと下流、茨城県の結城市にある。隠れた大器を確かめようとしたスカウトが、間違って栃木県の方に行ってしまったというエピソードもある。梅沢のワンマンチームの悲しさ、晴れ舞台こそ踏めなかったが、その実力はほとんどの球団が認めている。右の本格派で180㌢、75㌔の申し分ない体格。「球威だけでなく、コントロールもいい」(中日・塚越スカウト)という話に加え「打球に対する身のこなしが抜群。送りバントなんかほとんどやらせたことがない」という地元高野連関係者の話から先天的なセンスの良さがうかがえる。「できたらプロで力を試してみたい」という梅沢は、四十九年江川ブームで目立たなかった藤田(南宇和ー南海)のような実力者である。
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田中孝尚

2016-05-05 19:10:57 | 日記
1982年

ドラフト2位指名の佐賀商・田中孝尚捕手(18)=181㌢、83㌔、右投げ、右打ち=と十三日、同校で両親、黒木校長、田中部長、板谷監督の立ち合いで正式契約を交した。契約金三千万円、年棒三百万円(いずれも推定)。同捕手は今年夏の甲子園大会で、大会第一号ホームランを打った強打者。新谷投手が青森・木造高をノーヒット・ノーランに退けた時の女房役。田中は「長距離バッターになりたい。キャッチャーにこだわらず外野でも喜んでやる。不安だらけだが、一生懸命頑張る」と抱負を語った。山本スカウトは「田中君の魅力はバッティング。三年後当たりにはチームの四番を打ってほしい」と期待を述べていた。正式入団発表は二十二日、球団事務所で行われる予定。
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八木政義

2016-05-05 18:29:38 | 日記
1987年

阪急から3位指名された銚子商の八木政義投手(18)。県内を代表する豪球右腕は、ちょうど六時間目の授業中で、担当の先生から指名を聞いた。「在京のセ・リーグが希望だったので、阪急はちょっと・・・」と戸惑いの表情を見せながらも、もともとプロ希望。住友金属鹿島に就職は内定しているが、「交渉には前向きに応じるつもりです。最終的には監督や両親と話し合って決めますが・・・」。篠塚(巨人)、宇野(中日)などこれまで数多くの名選手を送り込んでいる銚子商だが、阪急からの指名は初めて。それだけに斎藤一之監督も「意外な感じがした。でも、予想通りの3位指名だし、あとは本人の選択しだい。相談にも乗って一番いい結論を出していきたい」。海の近く、銚子市外川町の出身で、漁業の父親英雄さん(52)と母親喜美子さん(51)の間に生まれた四人兄姉の末っ子。野球を始めたのは高神小四年からで、銚子二中、銚子商と進み二年からエース。179㌢、73㌔の右腕から繰り出す豪速球が武器。三年の時の防御率は0・97と抜群。奪三振も一試合平均10個。しかも、これまでの試合はほとんど速球一本やり。それだけに「まだ、未完成品。将来性は十分だと思う」(斎藤監督)無口だが、がんばり屋で、三年の公式戦が終った後も毎日、ランニングを欠かさず続け、主将として後輩の面倒もみてきた。簿記や珠算で三級の検定を持つなど、成績も抜群。「目標は全盛期の江川投手」と話す八木君。高校ではベスト4が最高ともう一つ成績に恵まれなかったが、プロで大輪の花を咲かせるか。
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中山孝一

2016-05-05 17:58:29 | 日記
1980年「阪神時代」
・今春、米国テンピ・キャンプで中山は名をあげた。相手は地元の学生チームではあったが、3試合に登板し2勝。「あのときは、たまたまナックルを投げるというので珍しがられ新聞記事になっただけのこと。私の決め球はあくまでも速球。ナックルなんて添えものにすぎない」その速球が公式戦シーズンに入ると冴えをなくした。二軍戦、ここまでわずか4試合に登板したにすぎず、8月の近鉄戦では先発の遠藤をリリーフして5回からマウンドに上がったが四球、安打、四球と続きたちまち降板。いいところなしだった。「今年は自信があった。昨年のようなことは絶対にないと思っていた。だからタイガースのユニフォームを着たのだったが・・」
昨年はヤクルトにいた。南海時代に壊した肩が依然として悪く、二軍でも出番がない状態だった。1シーズンでヤクルトをクビになるが、南海時代世話になった野村克也氏が救いの手を差しのべてくれた。彼はテストを受けタイガース入りした。
「ウエスタンリーグのゲームは数えるほどしか残っていない。自分の存在をアピールする機会もないままシーズンが終わってしまうと思うと気が気ではない」ふっと口をつぐみ、それからぽつんといった。「プロのユニフォームを着れるのも、今年が最後かもしれない・・。」
かって彼には栄光の日々があった。南海時代の1974年から76年まで3年連続二けた勝利。この頃、速球派の変則モーションが特徴の中山はスポーツ紙を盛んに賑わせていたものだった。彼が入団したのが1969年。野村が南海の監督に就任した年だった。入団当時「素人みたいな投球モーションだ」と罵声を浴びたこともある。だが、野村監督は彼の良さを十分に引き出してくれた。監督自らマスクを被っているのだから当然かもしれないが、とにかく彼は野村と二人三脚で投手街道を歩んできた。が、1977年、春のオープン戦で思わぬアクシデントに見舞われた。彼は先発していた。その5回、突然肩がギクンッと鳴った。彼はそれに耐え、その後の2,3ゲームにも続けて登板した。その無理がたたった。ついにボールが1メートルも投げられなくなり当然、ファーム落ちする。翌年もファーム暮らしが続いた。やがて恩師・野村が南海を去り、彼もヤクルトへトレードされた。「ヤクルト時代は惨めだった。まるで投げさせてもらえなかった」。某コーチには「肩が痛むのは、そんな素人みたいなフォームで放っているからだ」といわれ投球フォームの矯正を迫られた。あげくには「こんな投手、誰が獲ってきたんだ」と大きな声でいってるのまで耳にした。やがてタイガース入りした彼は猛然とウエートリフティングをやりだした。「肩を壊して以来、ろくに投げていない。そのため筋肉が衰えている。なんとか肩の筋肉をつけたいと思いウエートリフティングをやり出した」その甲斐あって肩にも大分筋肉がついてきた。次は投げ込みだが、「ヤクルトではメニューが決まっており自主的なトレーニングが制限されたが、その点タイガースは有り難い。思う存分、自分の練習にあてられる」上には南海時代の彼をよく知る藤江投手コーチが変則モーションの復活を温かく見守ってくれている。
「今年クビになればすべてがパーだが、クビさえつながれば来シーズンこそは・・絶対に自信がある」
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小林茂生

2016-05-05 17:56:17 | 日記
1987年

今年のドラフト会議でロッテオリオンズに4位指名された横芝敬愛高校の小林茂生投手(18)は十六日、山武郡横芝町栗山の同校小会議室で行われた球団側との入団交渉で仮契約を済ませ、入団を正式に発表した。入団交渉には小林投手をはじめ、父親の大七さん(43)、母親のきくのさん(44)、田島静香同校野球部長、伊藤昇宏同監督が出席。ロッテ球団の飯塚スカウトと約1時間の交渉の末、正式に入団を決めた。入団決定後、小林投手は「ドラフトにかからないと思っていた」「小さいころからプロでやりたい希望をもっていたので悩んだ末決めた」と、日体大進学をあきらめてプロ入りを決めた進境を語った。プロ入り後は「打たれても(ランナーを出しても)点をやらないような投手になりたい」と緊張した中にも高校生らしく、さわやかな決意を述べた。父親大七さんも「プロ入りする以上やりしかない」とキッパリ。迷惑をかけた人の分まで頑張ってほしいーとわが子を励ました。また小林投手を育てあげた伊藤監督は「ボールは速いし、バッティングもいい。素材はいいのだから変化球を覚えれば大成する」と、小林投手への期待の大きさをほのめかした。小林投手は身長182㌢、78㌔、決め球は時速135、6は出るというストレート。小学校三年生のころから野球をはじめ、中学時代は捕手。高校に入ってから投手に変わり、二年生の秋から主戦投手を務めていた。小林投手の契約金は約三千万円、年棒は三百六十万円(いずれも推定)。背番号は「52」。球団側はダイナミックな投法、高校生離れしたボールの速さなどを高く評価したーとしている。
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中山孝一

2016-05-05 16:25:25 | 日記
1966年

チーム結成依頼8年目、チーム力はことしが最も充実し、エース中山のできいかんではAクラスの一角にある。エース中山は180㌢の長身から投げおろす直球がキメダマ。二年生のときからマウンドを守り、プレート度胸もよく、バネが強いのでスピードがある。これまで一試合平均約十個前後三振を奪い、打っても五番とチームの中心。


千葉工商の中山が今大会初のノーヒット・ノーランの記録を打ち立てた。立ち上がりはやや調子を欠いたが、二回以後はスピードのある速球を左右に散らし、鋭く落ちるカーブを決めダマに、東商打線を寄せ付けなかった。

中山孝一投手の話 立ち上がりは調子が悪く三回からようやく落ち着いてきた。きょうは速球がよく、ノーヒット・ノーランは五回ごろから意識した。まだ試合は長いので一戦一戦大事に投げた。


代表校好捕の筆頭にあがっていた成東から13三振を奪って三安打完封。自らの無失点記録を三試合、三十四イニングに伸ばした中山孝一投手こそ、千葉工商の原動力となった。これまで一回戦で東金商との対戦ではノーヒットノーランの記録をつくり、成東を破って千葉工商の野球部の名を高めたのも中山なら今大会の数少ないスターであった。この日のピッチングは三回戦まで見せた落ちるカーブを決めだまとする重いスピードのある投球。対戦相手の成東はこれも今大会の屈指の好投手といわれた千葉工の渡辺から二本の本塁打を放ったほどしぶい打線だった。しかし、中山はスピードにのった変化球で打者を寄せつけず、二回と五回に二死満塁と攻められたが得意のカーブで切って取りわずか三安打で押えてしまった。試合後、中山は「きょうはこれまでになく調子が良かった。とにかく勝とうという気持ちでなく、ベストを尽くせばいいと思った。ただ押える自信はありました」とナインのなかでも色白の顔で笑った。大和田中時代は二塁と投手をやっていたが千葉商工にはいってから投手を本格的にはじめ頭角を現したのは昨年秋から。180㌢70㌔の体を持つというがあまり大きく見えない。それでいてバネのきいた上手投げからの速球はかなり速い。野球部結成して5年余り同校野球部をベスト4まで残したのは好投手中山の力が大きい。代表決定戦ではベストを尽くすだけという中山は千葉郡八千代町八千代新田一一六、農業、輝一さんの末っ子で三男。
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川島正幸

2016-05-05 16:20:12 | 日記
1984年
・左の大砲と期待されていた川島正幸外野手「25歳」が11月19日、突然の任意引退を発表した。プロ7年目の今シーズンは1軍出場チャンスこそなかったが、イースタンでは8ホーマー、32打点をマーク。韓国プロ野球・ロッテジャイアンツから再三にわたり入団を要請されていた折りの任意引退。果たしてその真相とは・・
実は川島が自ら任意引退を申し出たのは家の事情からだった。川島の実家は長野県駒ヶ根市で旅館業と段ボール包装業を営んでいるが、今度新たにパチンコ店を経営することになり、男一人の長男である川島は「人手が足りないので、どうしてもボクの力が必要なんです。25歳と区切りの年でもあるので、ふんぎりをつけました」。しばらくはダンボール包装業をしながら、日曜日にはパチンコ店を手伝う無休の日々が続くが、「将来、事業を拡張するというユメがありますから。ボクの場合、ユメのある引退だと思っています」と目を輝かせる。が、野球界と離れることを決意するまでは、何度も足踏みした。南海とのトレード話が噂にのぼり、韓国一に輝いたロッテ・ジャイアンツの土居臨時コーチからは、熱心な韓国球界入りの要請を受けた。「もう一度やってみようと考え直そうと思ったこともありました。でも、ここらが潮時だと思いました。昨年、西武の東尾さんから初ホーマーを打ちましたしネ。今度は新しい人生に挑戦しょうって強く感じたんです」韓国球界入りを断り、青年実業家の道を選んだのだった。普通なら、引退してから後の仕事をどうするかに悩む選手が多いだけに「ボクは恵まれています」という。川島の突然の引退は、希望に満ちた引退というべきだろう。
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