プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鵜飼克雄

2016-05-21 23:33:29 | 日記
1977年「広島時代」
・昨年、日ハムから移籍した左腕の鵜飼が11月20日付けで退団した。カープではたった1年だけとあって球団は、もう1シーズン状態をみたかったようだが、肝心の本人が「自信がまるでない」の一点張り。仕方なく任意引退にしたわけ。鵜飼は四国電力からドラフト1位で日ハム入り、左腕の本格派として期待されたが、腰痛に悩まされ芽が出ず、プロ生活4年間でわずか1勝4敗に終わった。今シーズンは、ハナから二軍暮らしで最後まで一軍のマウンドを踏めなかった。肩を痛めたのが原因とされており、しかもすでに30歳。「体が痛むと意欲まで希薄になってしまって。これからの人生は長いのだし、どこかで区切りをつけなくてはいけないのだから」と表向きはサバサバした感じだが、思い通りの活躍ができなかったのだから、やはり心のどこかに悔いはあるだろう。「これから先、なにかの縁で野球を指導できるようにでもなれば・・・」の言葉に断ちがたい気持ちの裏が読める。当面は徳島にある実家の家業を継ぐらしいが、さてこの鵜飼に二度目の「野球人生」が訪れるか。
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松永美隆

2016-05-21 23:25:59 | 日記
1972年

阪神は十七日午後二時、大阪・梅田の阪神電鉄本社で、ドラフト三位指名の松永美隆投手(18)=宇部商、身長184㌢、体重81㌔、右投げ、右打ち=の入団を発表した。背番号は39。松永投手は甲子園のヒノキ舞台こそ踏んでいないが、昨年春の山口県大会では準決勝に進出している。同年夏の県予選の宇部工商戦では13三振を奪った本格派の速球投手。高校の公式戦防御率は0.80。コントロールに難があるが、阪神では大型の速球投手として期待している。
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池之上格

2016-05-21 23:20:54 | 日記
1972年

南海ホークスは十七日午後一時から、同球団事務所で、ドラフト三位に指名した池之上格投手(鶴丸高)=180㌢、72㌔、右投げ右打ち=の入団発表を行った。同投手は、全国でも屈指の進学名門高からのプロ入り、と注目されているが、実力のほうも「安定した速球主体の本格派」(石川スカウト)と高く評価されている。背番号は36。鶴丸高では国立大理科系コースに籍を置く秀才で、周囲は強く進学をすすめ、また早大、立大など大学野球部の激しい勧誘もあったが、これをきっぱりけったという。本人は「キザなようですが、生活をかけてやるプロのほうがやりがいがあると思った」といい、眼鏡越しに目を輝かせる。三年生になってからの通算成績は15勝3敗1分、防御率1.2で、春の九州大会ではみごと優勝している。「南海ホークスは、昨夏上京したとき、後楽園で見た。まだどうにか九回持つスタミナなので、うんと鍛えられて野村監督を相手に投げられるように早くなりたい」と力強く抱負を話し、その足で中モズの合宿所に向かった。
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鵜飼克雄

2016-05-21 22:38:37 | 日記
1974年

日本ハムがドラフト一位で指名した四国電力・鵜飼克雄投手(26)=178㌢、73㌔、左投げ左打ち=の入団発表が十六日、東京、六本木の球団事務所で行われた。発表には三原社長、中西監督、山根ピッチングコーチが同席したが、三原構想の補強のポイントだった鵜飼の入団に同社長もほっとした表情だった。鵜飼は中央球界ではあまり名も知られていないうえ、年齢もすでに二十六歳。意外とも思える一位指名だったが「なんとしても左の投手がほしい」という三原社長の補強方針からだった。だが、年齢的な不安もあって家族がプロ入りに反対、本人も「トシもいってるし、子供もできたばかり(生後二か月半の長男康之ちゃん)で、ずい分考えた」と、迷ったすえ、年が明けてからやっと入団を決意した。この間、瓜生スカウト部長が徳島市の実家に七度も足を運ぶという難航ぶりだった。球界でも珍しい子連れ新人の鵜飼は、高校(徳島商)時代は一塁手、大学入学後、投手に転向し、ノンプロ時代は四国電力のエース。胸元をつく速球と落差の大きいドロップが武器で「近鉄の鈴木と神部をたして二で割ったようなタイプ」(瓜生スカウト)という左の本格派。山崎、中原勇、小坂、保坂と左投手がパッとしない日本ハムでは文字どおり即戦力の期待をかけており、山根コーチも「最低10勝してもらわないことには投手陣の構想に狂いが出てくる」と言うほど。当の鵜飼は「迷いに迷った末、ひとつやってやろうという気になった。年齢的にも二、三年あとなどとは言っておれない」ということばの中にプロにかける意気込みをみせていた。なお、鵜飼の入団発表と同時に金田留とのトレード入団が決定していた野村投手(前ロッテ)の入団発表も同時に行われた。野村は「エースとしてやってきた金田に負けないようにがんばって、トレードは失敗だったと言われないようにしたい」と決意を新たにしていた。
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山下浩二

2016-05-21 21:43:02 | 日記
1974年

投手陣の補強に力を入れている阪急に待望の大物新人が入団した。阪急は十六日午後四時から大阪・北区の球団事務所でドラフト第二位指名の熊本二高・山下浩二投手(18)=181㌢、72㌔、右投げ右打ち=の入団を正式に発表した。発表の責には阪急側から山下重役、丸尾編成部長、上田監督、担当した山本スカウトが顔をそろえ山下側からは熊本二高の伊時野球部長と竹熊監督が立ち会った。山下投手は甲子園の経験がなく、中央にあまり知名度はないが、九州高校界では最近の三年間で最高のスピードを持った剛腕投手として注目され、速球の本格派としては、さきにドラフト一位で南海入りした藤田投手(南宇和高)を上回る素質を持っているといわれ、阪急としては米田二世として将来に大きな期待を寄せている。発表に立ち会った丸尾編成部長が「なで肩でワキも締まっており投手としての条件を備えた理想的な身体をしている。下半身を鍛えれば江川程度のスピードは保証できる」と大投手としての折り紙をつければ、上田監督も「いい体をしている。ひさびさに見る金のタマゴだ。将来は小さくまとめるようなことはせず、長続きするスケールの大きな投手に育てたい」と期待の新人を目の前にしてうれしそうだった。山下投手は二年の秋に行われた県大会の新人戦で速球一本でノーヒットノーラン、準ノーヒットノーランを各一回達成、一試合平均十七個の三振を奪う快投をみせ一躍注目された。

山下投手の話 阪急の試合は見たことないが、米田さんを目標にがんばりたい。ライバルはみんなです。
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太田黒誠二

2016-05-21 21:19:07 | 日記
1971年

中日は三十日、テスト生太田黒誠二捕手(24)=1㍍72、73㌔、右投げ右打ち、福岡工大出=と正式契約した。同捕手はさる五月、このほど退団した迫田投手とのトレードでロッテにいった小山捕手の穴埋めとしてテスト生として採用され、ファームで活躍してきたが、その努力が認められたもの。さる四十四年、福岡工大を卒業後、約一年間豊田市の共立工業に在社していた。晴れて選手契約をすませた同捕手は「これをきっかけにさらに努力したい」と喜びを語った。出身は福岡県筑紫郡春日町春原北町。
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岡田英樹

2016-05-21 20:52:30 | 日記
1973年

タフガイが自慢の岡田が、一月の自主トレでカゼのため、生まれて初めて寝込んだ。彼にとっては、これまでカゼなんか病気のうちにはいらなかった。「けがはもちろんのこと、病気なんかで寝たことなんか一度もなかったんです。よりによって入団したばかりの、一番大事なときにこんなことになって、自分が情けなくなった」と嘆いていた。テスト生で入団して、ちょうど心身とも極度の疲労状態にあるときに、ことし流行の香港カゼに襲われたのだ。この男ちと変わっている。知人は岡田のプロ入りに「本田技研」という一流会社に勤めていながら、何を好きこのんで、いつ首を切られるかもわからないテスト生にならなくたっていいだろうに・・・」と反対した。しかし、一度こうだと決めたらトコトンやり抜く性格の岡田は「自分がやり始めた道にプロがあるなら、一度はその道にはいってみたいと考えるのが男です」と胸を張る。テストを受けたときは、すでに会社をやめていた。背水の陣で臨んだのだ。太平洋への入団は、中学時代(城北中)の先輩である片岡捕手がいたからのようだが、実は「各球団の捕手陣を比較した場合、少しでも早くチャンスが回ってきそうなチームを選んだ」という。どんな小さなチャンスでもどん欲につかもうというファイトはこわいくらい。島原キャンプでは「目標を立てて練習する余裕は全くありません。ただ先輩に言われたことを全部吸収するつもりでがむしゃらにやってます」と謙虚。テスト生としての立場をわきまえ、もうひと回り大型選手へと、懸命のダッシュを続けている。人一倍努力家なので、今後が楽しみな選手の一人だ。
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金井正幸

2016-05-21 20:21:51 | 日記
1973年

中日ドラゴンズは一月三十一日午後三時から名古屋市中区栄、中日ビル内球団事務所で、ドラフト外で獲得交渉中だったノンプロ王子製紙春日井工場、金井正幸投手(21)=182㌢、70㌔、右投げ右打ち=と入団契約を完了、引き続き同四時から入団発表を行った。背番号は「56」。金井投手は熊本県玉名市出身、熊本工高では外野と投手。四十六年王子製紙に入社してから本格的に投手に転向、華々しいキャリアはないが、長身から繰り出すオーバーハンドのストレートに威力があり、昨年都市対抗の第二代表西川物産相手に3安打に抑える好投をしたことがある。
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鮫島康夫

2016-05-21 20:00:41 | 日記
1973年

念願のプロ野球テスト生として入団したが、スンナリはいったわけではない。昨年十一月、近鉄のテストに失敗、だが本人「あのときは雨が降っていて、まともなテストもしないで不合格となったのでくやしかった」。そこで十二月、太平洋クへ再度の挑戦とあいなって、見事合格というわけだ。「一次テストで八人の中に選ばれたとき、この中から三人なら選ばれる自信があった。でも電話で合格の知らせを受けたときは、これでやっと自分の実力が認められたかと思うと、むしょうにうれしくなった」という。「本当は一、二年ぐらいノンプロで、みっちり野球も勉強して、それからプロに進みたいと思っていたんです。そこで大学に野球のできる会社を紹介してくれるように頼んでおいたんです。ところが大学からは、卒業前の三月になっても音さたなしで、結局一年間を棒に振ってしまったというわけです」。鮫島はその一年間、昼間は母校の城西大でみっちり練習して、夜は土工やトラックの荷おろしをして生活費をかせいだ。夜の仕事に精を出しすぎて、野球がおろそかになったこともあった。テスト生仲間の岡田、坂本にライバル意識を燃やすのは当然。なかでも同じポジションの岡田には「大学時代に同じリーグ(首都圏リーグ)で試合をした仲間でもあるし、絶対負けたくないんです」はっきり言い切る。口数の少ないおとなしい性格だが内に秘めた闘志、ギラギラ光る目玉から薩摩隼人の心意気がうかがえる。島原キャンプで鮫島は伊藤コーチに「わきを締めて、高めの球をダイコンを切るようにひっぱたく練習をしろ」といわれ、必死で素振り練習に取り組んでいる。また「一日も早くプロの水に慣れるように努めています。どうせ二軍暮らしだとあきらめているので、二、三年は下積みをやるつもりで、じっくり実力をつけたい」と考え方もきびしい。踏まれても、踏まれても、なおはい上がる。雑草の根強さがプンプンにおってきた。
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片岡建

2016-05-21 19:41:39 | 日記
1970年

昨年秋のドラフト会議で東映が一位に指名したリッカーミシン、片岡建投手(24)=177㌢、77㌔、右投げ右打ち、神奈川大出。本社人事部勤務=の東映入団が正式に決定した。十三日午後二時半、東映、田沢代表が東京・銀座のリッカ―ミシン本社に西牟田野球部長(人事部長)と片岡投手をたずね、二度目の交渉を行った結果、東映側の掲示した条件(規定最高額、契約金一千万円、参か報酬月額15万円)を了承した。東映としては昨年暮れに十数回の交渉を行っており二年越しの交渉が実ったことになる。正式契約は十五日の予定。なお片岡投手は入団後合宿入り、初登板はオールスター戦後になる。

片岡投手の話 プロ野球はテレビでみてるが、どれだけやれるかわからない。ただ一生懸命やるだけだ。都市対抗予選が終ってからピッチングはしていないが、いつでも投げられる状態だ。ウイニングショットはカーブだが、もっと全体的にコントロールをつけたい。

東映・田沢代表の話 条件面ではこちらの誠意を示し、快く了承してもらえた。一日も早くユニホームを着て働いてもらいたい。契約と正式発表は一同日中になると思う。

横浜商ー神奈川大を経て四十四年リッカ―ミシン入社。神奈川大では五十嵐(近鉄)の一年後輩でエースとして活躍、リッカー入社後も巨人入りした吉村のあとをついでエースの座にすわる。ことし五月、名古屋、熱田球場で行われたベーブルース杯争奪戦では3勝をあげ、うち2完封の働きで初優勝の原動力となり最高殊勲選手に選ばれた。
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佐藤公博

2016-05-21 19:10:11 | 日記
1960年

阪急ブレーブスはこのほど北海道ノンプロ球界で鳴らした東洋高圧砂川野球部佐藤公博投手(24)の入団を決定した。同選手は年末に東圧を退社、来春一月十日ごろ正式に契約する予定。函館工高出身、1㍍77、77㌔、右投げ右打ち。同投手はノンプロ界屈指の好投手で、大毎から誘われていたが今秋阪急も目をつけ、藤井渉外課長が担当、勧誘に当っていた。たまたま同選手が元阪急にいた某選手のイトコに当ることがわかり、それから話はトントン拍子に進んだ。佐藤投手はいま阪急にいる安藤(元大昭和)に似たタイプで球威もあり、とくにカーブとシュートがよい。阪急入りが決定的になってからは丸尾渉外部長が北海道に出かけて決定した。プロでのかけひきさえマスターすれば、その力はプロでも十分通用すると関係者はみている。
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