プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

渋谷洋一

2016-05-01 23:40:45 | 日記
1967年

渋谷洋一外野手(18)=三重高、右投げ右打ち、1㍍78、75㌔

俊足好打の大型外野手。中学時代に陸上で百㍍11秒8、走り幅とび6㍍18の県中学の記録の持ち主。ことしのセンバツ大会後の東海大会の予選決勝で三打席連続ホーマーを記録した。三年間の通算打率が3割1分5厘、12ホーマーを打っている。「チームに早く慣れてがんばりたい。それからちょっと三振の数が多いので、その点を勉強してシュアーなバッターになりたいと考えています」。
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西田隆広

2016-05-01 23:35:34 | 日記
1975年

がむしゃらに一年間やってみたい。守備には自信がある。ノンプロでは45試合で打率3割1分、本塁打7本の四番打者だった。重松スカウトは「守りは申し分ない。打撃は右方向が多く、ややパワー不足の感があるが、内角球はホームランにする。プロの水になれれば、打つ方でも伸びるだろう」と言っている。
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橋本勝隆

2016-05-01 22:31:37 | 日記
1966年

中日ドラゴンズは二十日名古屋市中区栄町の球団事務所で、中央精版印刷の左腕、橋本勝隆投手(22)=1㍍74、68㌔=と正式契約を行い、同日午後中日球場で同投手の入団を発表した。橋本投手は三十九年高松高から中大に進学したが家庭の事情で一年で中退、その後中央精版印刷のエースとして軟式野球界で活躍していた選手。速球とドロップが武器で、高松高当時PL学園を相手に16奪三振を奪ったのをはじめ昨年秋、後楽園球場で行われた東京都実業団大会では東京電力を相手に延長二十四回を投げぬき22三振を奪って優勝の立て役者となった。
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岡正光

2016-05-01 22:09:34 | 日記
1968年

「第一位に指名されるなんてこんなに光栄なことはない。猛練習を積んで、一日でもはやく公式戦で投げたい。そして大洋の優勝に貢献したい」-岡正光。福島・保原高のエースは、胸を張ってこう抱負を述べた。昭和四十年のことである。「素質もあるし、いい根性を持っている。将来はきっと大洋の投手陣を背負ってくれるだろう」。ドラフト会議で岡投手を第一位に指名、そして契約し、入団発表を行う球団幹部は、岡をこのように評した。だが、岡にとって大洋のエースは夢だった。十一月三十日、コミッショナー委員会に提出された大洋の「第一次保留選手名簿」に彼の名前はなかった。自由契約選手の名のもとに、クビになったのである。プロ在籍三年間、一度も晴れの公式戦のマウンドを味わうことができなかった。もっぱら二軍暮らしで、ことしのイースタン・リーグでは一試合しか投げていない。それも1回1/3でノックアウト。敗戦投手で、その防御率は13・50。「プロの水はそんなに甘いものではなかった」。彼はこの言葉を残して、プロ球界からサヨナラをする。「福島へ帰って何か職をさがす」そうだ。
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佐々木宏一郎・平林二郎・細川安雄・杉山知隆・深沢修一・田村政雄

2016-05-01 18:03:45 | 日記
佐々木宏一郎・平林二郎・細川安雄・杉山知隆・深沢修一・田村政雄

1981年

新しい仕事について第二の人生に踏み出している人もいる。二十年連続勝ち星をあげ、四十五年には完全試合を達成した佐々木(南海)は大阪市南区でスナック経営者へ転身した。守備と足が売り物だった平林(阪急)は郷里愛知県でアパートの経営に、二軍の四番打者だった細川(阪急)は傍系会社のホテルマンに転向した。杉山(日本ハム)は清水市に帰って食料品店の主人に、深沢(広島)は山梨の実家の旅館、田村(南海)も和歌山の実家の酒屋の手伝いをするそうだ。
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藤原真・小坂敏彦・横山晴久

2016-05-01 16:54:52 | 日記
1976年

「今春、日本ハムのキャンプで、三人は相部屋だった。あの時は互いに今年こそ、の気持ちだったが・・。そろって辞めるようになるとはねェ」。十二月初めに任意引退となった時、三人はこの共通性を不思議に感じた、という。共通性は・・・。第一に、東京六大学時代の華々しい活躍ぶり。横山は四十四年秋から、法大が四連覇した時の立役者。ベストナインに三度も選ばれた。藤原、小坂も優勝投手の栄誉に輝き、六大学ファンを熱狂させた。小坂は、谷沢(中日)、小田、千藤(日本ハム)荒川(元ヤクルト)らの強打線をバックに、安田(ヤクルト)を抑えてエースとして投げまくった。「たまたま運が良かっただけ」(藤原)というが、スターを欲するプロ野球界は、当然三人をドラフト一位で指名した。藤原は四十二年のドラフトでは南海をけったが、翌年はサンケイ(現ヤクルト)の指名を受けて入団した。小坂は四十五年に巨人入り、横山も四十七年東映(現日本ハム)へ。だが、プロの世界は厳しい。一番先輩の藤原は、一年目の九勝が最高で、あとは「大学時代に痛めたヒジが治らず、春先はいつも棒に振って」鳴かず飛ばず。今年は一勝も出来ず、通算二十三勝四十八敗。小坂も巨人時代に七勝したが、移籍後三年間勝ち星なし。今年後期、久々に二勝して通算九勝八敗。横山にいたっては、入団四年目の昨年、やっと初勝利をあげただけで終わった。期待されながらこの成績ー「いま思うと、プロ入り初キャンプに、卒業試験のため入るのが遅れ、それを取り戻そうと無理をした。それで肩の故障。期待されていたことが、重荷になった」と横山。「自分なりにがんばったが・・・」というのは小坂。結局、三人とも「第二の人生を歩むならいまが潮時」と、シーズン中に引退を考えていたそうだ。過去が華やかだけに、いま辞めるのに悔いはないのだろうか。藤原は低い声でこう答える。「ファームをみると、まだオレの方が、という気はある。百勝したかったし。でも、いまは子どものころから夢みてきたことが、すべて終わった感じだ」と。「それより、大事なのは今後の人生だ。過去の感傷になんかひたっていられない」と、将来の生活に激しい意欲を燃やしている。藤原は、奥さんの実家の衣料会社に、来年四月から勤める。小坂は一月に米国へ出発、語学の勉強をする。横山は、一月から運輸会社へ出勤。三人とも「いままで会社勤めの経験がないので・・・」と不安を感じながらも、一方では、野球で鍛えた「ガッツがあるさ」と、希望を持っている。小坂は「アメリカでは、絶対に英語をものにして、通訳兼コーチとして、再び球界のお役に立ちたい」と張り切っている。「元プロ野球選手」という肩書から、とかく色眼鏡で見られがちだが、そこは「気にしないで、人間関係などに利用出来るところは利用する。とにかく、自分の周囲から野球の話が出なくなった時こそ、個人の仕事ぶりが認められる時だ。そこまでやり抜くつもり」と、三人を代表して藤原がいい切った。
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藤田訓弘

2016-05-01 14:26:10 | 日記
1973年

「この給料では生活ができない」といってやめたのは阪神の藤田訓弘捕手(26)。九年前に広島商から南海へ入団、そして阪神に移って五年目。この間、公式戦にはほとんど出ず、二軍暮らしが続いていた。それでも「好きで仕方ない野球なので、退団など全く考えていなかった」。ところが、十二月初めの契約更改で示された金額は現状維持(推定年棒百二十万円)。今シーズンは15試合に出て16打数2安打、アップの材料ではないが、藤田訓は「諸物価がこれだけ値上がりしていたらダウンと同じですよ。せめてこの値上がり分だけでも考えてくれたら・・・。正直にいって、この給料で食べてはいけるが、先行き暗い球界では」とあっさり見切りをつけた。高給を取っているように思われがちのプロ球界だが、それはごく一部の選手。「ぎりぎりの生活をしている選手も多い。そこをいま少し考えて欲しい」。インフレの荒波は球界にも打ち寄せている。
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森園孝一

2016-05-01 14:03:45 | 日記
1971年

ことしの二月、社会人野球の向山建設をやめ晴れて東映の一員になった。契約金はゼロ。だが森園は二年目の来年こそ、がんばって給料を上げてもらうつもりだった。ところが九日、京橋の球団事務所に呼ばれると田沢代表からはクビの宣言。「ショックでした。一年生なんでまさかと思っていたが・・・」と森園。合宿所の荷物をまとめ郷里の北九州へ。「就職先はだいたい決まりかけています」というがその顔には二十二歳の若さがなかった。
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