プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

藤本和宏

2016-07-17 22:35:11 | 日記
1971年

選手食堂に用意されたノーヒット・ノーランを祝うシャンパンの乾杯。青白い顔面にけいれんがはしっていた藤本に赤みがさしたのは、乾杯を終わって報道陣にかこまれたときだった。「いやあ・・勝った。やった」藤本はどなるようにいった。これまで四年間のプロ生活で初勝利をあげたのがことし六月十八日の対大洋戦。これまででも普通のプロ選手と違って藤本には何度もこの世界から足を洗わなければならないピンチがあった。「六回ごろからみんなにいわれたので、七回を終わって記録を意識した」中日にはプロ入り初完封(九回戦)を含めて三勝目。相性がいいことも藤本の気分を柔らげたようだ。「ストレートも速かった。カーブも切れた」藤本は一気にしゃべりまくる。「西鉄時代はさっぱりだったのに、ことしは見違えるようだね」にテレならがこういう。「西鉄時代は遊んでいたからね。もし、あのまま西鉄にいたら、いまの自分はなかっただろう」もしいたらだが、藤本にはもしはなかったはずだ。西鉄にいたいと思っても、一昨年西鉄を自由契約になっている。簡単にいえば、首になった選手。「こんな投手をどうして・・・」この日の藤本の快挙をみれば、だれもがそう思うに違いない。西鉄が藤本をあきらめた理由は、右ヒザに水がたまるという持病があったからだが、それは決定的理由でなく、なんといっても私生活の乱れだ。四十一年山口県光市にある聖光高からノンプロ八幡製鉄工場に入社。一年後西鉄に入団した。第二回目のドラフトからもれた選手だが、西鉄は高校時代からその素質に目をつけ、他球団の目をぬすんで、いやがる藤本を強引にひっぱった。覆面投手西鉄はさかんに藤本を売り込み、地元の新聞は秘密兵器を響きたてた。西鉄も期待した。だからその年、左の井上善投手(広島)を巨人にトレードしている。この覆面投手は、マウンドでは覆面をかぶろうとしない。生来ののんびり屋。練習ぎらい。コーチがやかましくいえば持病という特権をふりまわしてさぼる。覆面をかぶったのはどうも夜の中州だったようだ。球団に首をいい渡されたときの捨てゼリフは「バーテンでもやりますよ」一言いって去った。西鉄時代には「オレの使い方を上はわかっていない。オレは投げれば投げるほどよくなるタイプだ」と監督(現ヤクルト、中西ヘッド・コーチ)を批判する。おてんとうさんと米のメシがついてまわらないことを知ったのは、西鉄を首になって実家に帰って父親安平さんに勘当同様たたき出されてからだ。大きな口をたたいたが、バーテンをやる勇気もなかった。結局、生きる道は野球しかない。重松コーチ(現ヤクルト・スカウト)に頭を下げて広島に紹介されテストを受けたのが一昨年暮れ。根本監督がカーブの切れにほれこんで入団させたわけだが、広島にはいってからも、すぐなまけぐせが頭をもちあげた。だからエピソードはあとをたたない。広島にきてからこれまで三度もドロボウにはいられている。あす着る洋服もないひどい目にあっても「肥満体のオレの背広を着れるわけがない」とあわてない。藤本が野球に身を入れるようになったのは、ことしのキャンプで首脳陣にどやされてからだ。昨年、ウエスタン・リーグで12勝4敗と最多勝投手になっているが、おやじには勘当される。警察には戸締りをよくしろとそのたびにこごとをいわれる。これで5勝目。根本監督は「やっと心技とも本物になった」とその成長を喜ぶ。自由契約選手から、一変してプロ野球史上三十一人目のノーヒット・ノーラン男になった。「これでおやじにも胸を張って会える」この日、父親安平さんはネット裏で藤本の快挙に目がしらを押えていた。
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藤本和宏

2016-07-17 21:26:05 | 日記
1971年

夢のような記録が目の前にせまってきた。八回まで塁にだした走者は、一回表の一死から四球で歩かせた島谷ひとり。胸をしめつけられる緊張感とたたかいながら藤本は九回のマウンドに立った。胸の鼓動が一球ごとに高まってくる。スタンドも両軍ベンチもひっそりと息をのんで記録にいどむ藤本の左腕だけが焦点になった。重苦しいふん囲気の中で先頭の高木守が中飛を打ち上げてあと二人。顔をこわばらせながら、藤本は必死で投げた。ねばる代打江島に1-3から歩かれて、つぎは二人目の代打新宅との勝負だ。記録は、運が味方しなければできないという。この夜の藤本はたしかにツキがあった。新宅の打球は藤本の気合に負けて平凡な左邪飛。だが勘違いした江島が二塁ベースを大きくまわっていた。左翼から遊撃、そして一塁の衣笠へすばやくボールがまわっての幕切れ。スタンドからテープが舞い、ナインがどっと走り寄ったマウンドで、藤本はこらえきれないうれしさを爆発させてとび上がった。夢の記録の伏線は二回の水沼のホームランだったのかもしれない。山本浩の死球をはさんで衣笠と国貞が右前にたたいて無死満塁。ここで、ホームランは一年に一本か二本という水沼が左翼席へ今季セ・リーグ八本目の満塁ホーマー。0-2から真ん中高めをフル・スイングでたたいた水沼のはなれワザにあと押しされて藤本のピッチングはリズムにのった。六回まで毎回三振。余裕たっぷりに投げるストレートがスピードにのって低めに走った。バックは三回にも衣笠の四球から山本浩、国貞が打ちまくってあと押しをつづける。速球をピシリときめて大きなカーブ。かた思えば胸もとへの鋭いシュート。七、八回をあっさり三人ずつで片づけた藤本は、最後まで中日打線を手玉にとって寄せつけなかった。

根本監督「すばらしいピッチングだった。技術的には、軸足の伸びが一定してくずれなかったのがいい。まるでバッテリーの野球みたいだった」

水沼捕手「なんといってもコントロールがよかった。球もよく走っていたし伸びていた。みごとなできだった」
木俣選手「藤本はストレート一本でぐいぐい押してきた。速かったし、手元で非常によく伸びていた。それにうまくコーナーに散らしていたし、完全に力負けした」
大島選手「ボールはそれほど速いとは思わなかったし、伸びもなかった。しかし、うまいコーナーワークにやられてしまった」
高木守選手「ストレートもよく走っていたし、カーブがとくによかった。手が出なかったよ」
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山林明雄

2016-07-17 20:55:45 | 日記
1971年

大洋がドラフト八位で指名した福井工大・山林明雄投手(22)=1㍍76、72㌔、左投左打=の入団が十七日決まった。この日午後一時から高松スカウトは福井県福井市の福井グランドホテルで、本人と父親・友明氏と話し合い、契約金四百万円、年棒百二十万円(いずれも推定)で決まった。同投手は大学二年のとき、中部地区代表として神宮大会に出場し、右翼席中段に2ホーマーしており、大洋は投手よりその豪快なバッティングに目をつけキャンプは投手、バッターの両方をやらせ、将来は中心打者に育てようとしている。
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長井繁夫

2016-07-17 19:12:36 | 日記
1971年

「本当にどうなっちゃったんだろう。自分でもさっぱりわからんですよ」ヤクルト・長井繁夫内野手(23)は照れくさそうに笑ってクビをかしげた。北海道シリーズで三割二分六厘はチームで二番目。帰京後の二試合が八打数六安打。バットを振ればヒットになるような大当たりに本人もいささか気味がわるいほどなのだ。「定規ではかったようなヒットを打つ。あれは長井の特技だよ」と田口二軍監督。北海道で十七安打したが、左へ飛んだのはわずかに二本。あとは一、二塁間をライナーで抜き、右翼手の前ではずむという決まりきったコースだった。たてつづけに自分の前にはじかれた巨人の右翼・萩原は「オレのところへねらい打ちしやがる。同級生でもかんべんできん」と右翼からものすごい一塁送球をやって危うくライト・ゴロになりかけたこともあった。PL学園の三塁、四番打者から中大に進み、四年のときは二塁で三番。四番は萩原だった。昨年ドラフト三位で入団したが、一軍には十三試合に出て一安打。ことしは代走で一度だけ登場している。「前半戦、萩原が一軍でバリバリやったときはちょっとあせったですよ。自分も早く一軍へ上がってがんばらにゃならん・・・」ことし三月結婚した洋子夫人(20)と東京・中目黒のアパート住まい。来年一月には二世も誕生する。これまでプレーに欲がないといわれてきた態度が変わってきた。大当たりも結婚が大きな原因らしい。規則正しい生活が数字になってあらわれている。「毎年、夏になるとホオはこけ、目もくぼんで体重は70㌔を切るんだが、ことしは76㌔睡眠もたっぷりとります」武山で特訓を受けて帰っても、毎日30分の素振りを欠かさない。まわりが暑さでへばる時期にきて、この体力と努力が頭をもたげてきたのだ。もちろん技術面での進歩もある。「左足にかかりすぎていた重心が右から左にスムーズに移動するようになった。ボールの読みもいい。バッティングだけなら安心して一軍へ出せる」小渕コーチは太鼓判を押すが、課題は守備。「グローブさばきがわるいせいか、ポロッがあるんだ。もう少し守りを鍛えて・・・」という田口監督の方針で、このところの長井へのノックの雨は一段ときびしい。
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三橋豊夫

2016-07-17 18:31:16 | 日記
1971年

たった一行の新聞記事がファームの選手にとって宝物のように見えるときがある。セ・リーグ現役選手登録公示 ヤクルト投手 三橋豊夫 八月二十五日、はじめて現役選手の登録をされ、一軍へのパスポートを獲得した。「びっくりした。一年間ファームで鍛えてからと思っていたのに・・・。でもこれで両親に新聞を見てくれって、いばっていえるな」夢ごごちだったという。西井、井原、山下とファーム仲間がどんどん一軍にあがり「なにくそ・・・」と思っていたやさきだったから。しかし現実はあまくなかった。二十八日の対広島戦で影武者に使われただけ。投げるどころのはなしではない。慣れない周囲に気をつかい、いささかゲンナリしていた。ところが首脳陣の真意がわかるとそんな自分が恥ずかしくなった。「あいつは数少ない左の本格派投手だ。今すぐ使うのは無理かもしれないが、少しでも一軍の雰囲気に慣らそう」(田口二軍監督)決して忘れてるわけではなく、逆に期待が大きいからこそ、励ましの意味をこめて一軍に上げたのである。未完の大器高校時代からこの言葉はついてまわった。鴻巣高校は野球で無名の学校といっていい、いつでも埼玉県予選であっさり敗退、三橋の名前は中央には知られてなかった。しかし1㍍82の長身から投げおろす速球、三振か四球という豪快なピッチングは地元では注目を浴び、日通浦和入り。そこでも大器の片りんを認められ、ドラフト二位でヤクルトに入団した。「野球界のためにも左の本格派として大成させたい。球威といい、からだといい、それだけのものを持っている」巽コーチは素質にほれこんでいる。しかし欠点も多い。下半身がつっぱり、上体だけで投げてしまうフォーム。どこへいくかわからないコントロールの悪さ。「毎日走るだけですよ」三橋の口からついぼやきが出るほど巽コーチは走りに走らせた。制球をつけるために変化球は投げさせずストレートばかりの練習を課した。現在でもストレートとカーブだけしか投げさせていない。二十七日のイースタン、対東映戦ではタマが走らず調子はよくなかったが、悪いなりに四回を無得点に押え5勝目をあげるなど、ある程度のまとまりもみせてきた。実績はないのに素質を見込まれ常にさきもの買いされてきた男。しかしいつまでも未完では許されない。「来年をみてください。多勢の報道陣に囲まれてみせますよ」人カゲのない炎天下の武山球場で三橋の自信はふくらみつつある。
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小金丸満

2016-07-17 16:44:44 | 日記
1971年

「勝ち負けは二のつぎ。素質のある選手をどんどん一軍へ送り出す役目に徹したい」こういって、大沢監督と入れ替わりにロッテの二軍監督に就任した濃人監督が、ファームを指揮して四十日余りたった現在、最も期待をかけているのが小金丸内野手だ。「魅力のある選手は、なにか人にはない要素があるものだが、小金丸も人なみはずれた馬力という大きな特徴を持っている」と濃人監督は芽を細める。「監督さんはそんなことをいってますか。腕相撲をやってもそんなに強い方じゃないんですがね」と本人は首をひねるが、濃人監督は単なるクソじからでなく小金丸の持っているバッティング・パワーに注目しているのだろう。八月下旬に中国九州路を転戦した巨人相手の六試合で、湯口、松原、島野という巨人のあすをになう投手から、それぞれホームランを奪って、その力を実証している。ノンプロ電電四国時代は中距離打者だった。二年前、同じ電電四国のエース前田康がドラフト一位、小金丸は二位でロッテ入り、当時74㌔だった体重がいまは79㌔、体重とともに馬力も増した。「カッカと燃えるいい性質」(濃人監督)でもあり、プロの水に合った素質を持っていることはたしかだ。守備は遊撃を除いて内野のどこでも無難にこなす。公式戦でも守備要員として何度か出場している。問題はバッティングの確実さだ。「まだ馬力だけで打っている。ボール打ちが多く、うまみに欠ける。ホームランか三振かというのでは、優勝を争うウチでは一軍定着はむずかしい」と濃人監督はいう。一軍への道がいかにきびしいか。「一年目は無我夢中でやったが二年目のことしはのんびりムードにひたったところがあった」と反省も忘れない。それだけに夏場なまけた毎夜のバット・スイングを復活させ、巨人戦での3ホーマーでよびもどした自信はなにものにもかえがたかったようだ。「来年にかける」ときっぱりいった。オフになったら、故郷の福岡に帰って走りまくる計画を早々とたてている。「走るのなんか好きじゃない。だからなおさら走らなくては・・・」その決意をどこまで貫き通せるだろうか。
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問矢福雄

2016-07-17 11:07:13 | 日記
1971年

愛称ベーブ。1㍍82、84㌔の巨体、金太郎さんのような風ぼうがホームラン王ベーブ・ルースを思わせるのだろう。ロッテ・問矢福雄一塁手兼外野手である。前半戦を終わって8ホーマー、29打点。両部門でイースタン・リーグのトップに立つ。ベーブの名に恥じないただいま二冠王だ。「いま調子はそんなによくないんです。一か月前ならどんな球でも打てる自信があった。いまはダメですね」ここ三試合で十三打数六安打、通算・369の高打率を残しながら弱気だ。六人兄弟の末っ子という性格からくるものだろうか。東京・二松学舎校からドラフト四位で入団して二年目。昨年は井石、石黒らの先輩にかくれてイースタンでも出場のチャンスは少なかったが、ことしはめざましい活躍ぶり。「昨年にくらべれば格段の進歩だ。ワキの甘いフォームさえ気をつければもっと打てる。いま伸びざかりだよ」と大沢二軍監督も目を細める。きっかけは今春のアメリカ・キャンプ。問矢はメンバーからはずされた。そのショックがやる気に火をつけた。シーズン・オフには体力をつけるため近所のボクシング・ジムに通った。「守るだけならオレの方がまし」(大沢監督)と酷評される守備、とくに肩を鍛えるためのウエート・トレーニングもやった。スイングが鋭く振切れるようになった。昨年はレフト方向へ流した打球がライナーで右へ抜ける。「バッティングだけなら一軍へ行くのは時間の問題だ。だがスタメンで出られない状態で一軍に上がるのは本人にとっていいかどうか。打ち込み不足で調子を狂わすことにもなりかねない」大沢監督は若い素材をもうしばらくファームで育てたい口ぶりだ。ほかのチームなら左の代打要員として重宝されるだろうが、アルトマン、ロペス、榎本、得津と左には不自由しないロッテでは左はむしろ一軍入りに不利な材料にもなりかねない。「たしかにもしほかのチームにいたら、なんて考えたこともあった。でもそんなことを思う自体が自分を甘やかしているんです。力さえつければどこのチームでも一軍に上がれるんですよ。ことしはファームで力をつけて、来年のアメリカ遠征にはぜひ参加したい」問矢はアメリカ行きをかけて後半戦を迎える。
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金田義倫

2016-07-17 10:30:51 | 日記
1971年

スポーツ欄の片スミに三日、小さなニュースが載った。よほど注意してみなければ見落としそうな記事だった。阪急・金田義倫投手、二十六歳。任意引退選手扱いの公示である。プロ入り八年目、一軍の試合でとうとう自分の名前をスコアボードでみることができなかった。ウエスタン・リーグでも一昨年六月中旬にマウンドに立ったのが最後。八年の歳月が流れ、その大半がはなやかな舞台に立つ人のカゲになって過ぎた。人はバッティング投手といい、その言葉の中に軽視したようなひびきがにおう。酷な表現をすれば練習台といえるかもしれない。しかし、この金田をはじめ野呂瀬、保谷といったカゲの男たちが占めるウエートを見すごしてはならない。チーム打率二割七分台をキープし、両リーグ随一を誇る打線に点火する仕事は試合前の三十分。約二百球の中に「きょうのゲームで打ちまくってほしい」という思を思わせて投げるのだ。ことし福本からはじまる打線がひきしまっているのは、ポジション争いの激烈さが選手の緊張を引き出していることにある。エイデア、山口、住友が殺到している二塁をはじめ、少しでも気を抜けばベンチに追いやられる。このあたりの呼吸は西本用兵の巧さだが、金田の胸をゆさぶってくる新しい傾向は試合前の練習ではっきりみえるという。「多くなった注文」は目の色を変える打者陣の自覚ではないかといった。「真っすぐばかりの要求、予告なしにいろんな球種をほうってくれともいわれる。ひとりひとりがテーマを持って練習に取り組む姿勢だと思うんです。技術的なことはわからないが、昨年までこんなにも注文がありませんでしたから・・・」京都・峰山高から「お山の大将のような気分」で入団したときの金田は上手からの本格派だった。3連覇のスタートを切った四十二年、投法が下手投げに変った。「ひょっとしたらこれで芽がでるかもしれないと思った」という金田の期待を裏に西本監督のまったく違った大きな思惑がひそんでいた。当時、阪急打線の泣きどころは下手投げコンプレックスで皆川(南海)若生(西鉄)坂井、佐藤元(東京=現ロッテ)佐々木(近鉄)にコロコロひねられた。そのかたき役に金田が登場し、それが運命づけられていたようにカゲの男としての歩みが始まるのだ。「下から投げるやつはかなわんと随分みんなにいやがられましたね。でもあの年に優勝できて、少しでも役に立ったのかなあと思ったものです。いまはウチの打線も下手投げを苦手としないし、ボクも去年からまた投法をもとにもどしました」打ちまくってほしいと願いながら連日の登板、故障も許されない。ひとり欠けるとファームからひとりの補充。犠牲者が出ては、という心配が自らのからだの調整につながる。「初優勝のときはスタンドで見ていました。うれしさより、ああ、向こうで大騒ぎをしているな」ぐらいの気持ちだったのが、大きなよろこびに変化してきたそうだ。一昨年、祝勝会の席で「ご苦労さんやったな」と西本監督に手を握られた感激が忘れられない。二年ぶりに報われる日がまた近づいてきた。任意引退扱いという寂しさをふり払い、球団職員(スコアラー)になっても「力のつづくかぎり打線のために・・・」と金田は練習のマウンドに歩む。表裏一体、阪急打線の強さの断片をここにみる。
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阿部成宏

2016-07-17 10:04:02 | 日記
1971年

打率・392(十四日現在)二十試合連続安打を更新中。イースタン・リーグの首位打者阿部外野手(巨人)は、はじめからトップに立ち、ゴールに飛び込むのは確実だ。四十九試合に出てヒットのなかったのがわずかに六試合。ここ六試合は連続二安打という記録もつづけてアベレージは四割にもとどこうという勢いだ。「野球がこれほど楽しいものだとは思わなかった。いまほんとに最高です」といいきる阿部にとってプロ入り七年目につかんだ野球問題である。昭和四十年、岩手・花巻商から投手として大洋に入団。公式戦には四十四年に二度登板したが、わずか1回2/3で五安打、二ホーマーされ、防御率45・00という成績でしかなかった。昨年五月、投手に見切りをつけ野手に転向。一塁手を中心にイースタンで五十六試合に出て打率・229.そして年末のトレード会議にリストアップされ、バッティング投手として巨人にひっぱられた。が、キャンプで投より打のセンスを買われた。「大洋時代のバッティングは自己流で力いっぱい振りまわすだけだった。巨人にはいってコーチのアドバイスを受け、小さくてムダのないスイングに変えたのがいい結果を生んだんですね。投手じゃなくはじめっかた野手でやってればよかったと思う」投手出身の肩と現在、27盗塁でリーグ記録の33に迫る足がある。この素材が「抜け目のないほどきびしい」(阿部)巨人のムードに刺激され、頭をもたげてきたのだろう。三年前に結婚した恵子夫人、二つになった哲子(あきこ)ちゃんとの生活もかかっている。淡口、大北らことしのルーキーが口をそろえて「阿部さんほどまじめな人は少ない」と舌を巻くほどのひたむきさ。シーズンを通じて打率・360を割ることのなかった好成績はこうした背景での努力が実を結んだものだ。バント・ヒットや巧みに野手の頭上を抜くバッティングを川上監督も高く評価する。「あとは自信だけだ。代打要員というより先発で出てチャンス・メーカーとしての素質がある」阿部が一軍に登場するのはそう遠くない。
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