1971年
選手食堂に用意されたノーヒット・ノーランを祝うシャンパンの乾杯。青白い顔面にけいれんがはしっていた藤本に赤みがさしたのは、乾杯を終わって報道陣にかこまれたときだった。「いやあ・・勝った。やった」藤本はどなるようにいった。これまで四年間のプロ生活で初勝利をあげたのがことし六月十八日の対大洋戦。これまででも普通のプロ選手と違って藤本には何度もこの世界から足を洗わなければならないピンチがあった。「六回ごろからみんなにいわれたので、七回を終わって記録を意識した」中日にはプロ入り初完封(九回戦)を含めて三勝目。相性がいいことも藤本の気分を柔らげたようだ。「ストレートも速かった。カーブも切れた」藤本は一気にしゃべりまくる。「西鉄時代はさっぱりだったのに、ことしは見違えるようだね」にテレならがこういう。「西鉄時代は遊んでいたからね。もし、あのまま西鉄にいたら、いまの自分はなかっただろう」もしいたらだが、藤本にはもしはなかったはずだ。西鉄にいたいと思っても、一昨年西鉄を自由契約になっている。簡単にいえば、首になった選手。「こんな投手をどうして・・・」この日の藤本の快挙をみれば、だれもがそう思うに違いない。西鉄が藤本をあきらめた理由は、右ヒザに水がたまるという持病があったからだが、それは決定的理由でなく、なんといっても私生活の乱れだ。四十一年山口県光市にある聖光高からノンプロ八幡製鉄工場に入社。一年後西鉄に入団した。第二回目のドラフトからもれた選手だが、西鉄は高校時代からその素質に目をつけ、他球団の目をぬすんで、いやがる藤本を強引にひっぱった。覆面投手西鉄はさかんに藤本を売り込み、地元の新聞は秘密兵器を響きたてた。西鉄も期待した。だからその年、左の井上善投手(広島)を巨人にトレードしている。この覆面投手は、マウンドでは覆面をかぶろうとしない。生来ののんびり屋。練習ぎらい。コーチがやかましくいえば持病という特権をふりまわしてさぼる。覆面をかぶったのはどうも夜の中州だったようだ。球団に首をいい渡されたときの捨てゼリフは「バーテンでもやりますよ」一言いって去った。西鉄時代には「オレの使い方を上はわかっていない。オレは投げれば投げるほどよくなるタイプだ」と監督(現ヤクルト、中西ヘッド・コーチ)を批判する。おてんとうさんと米のメシがついてまわらないことを知ったのは、西鉄を首になって実家に帰って父親安平さんに勘当同様たたき出されてからだ。大きな口をたたいたが、バーテンをやる勇気もなかった。結局、生きる道は野球しかない。重松コーチ(現ヤクルト・スカウト)に頭を下げて広島に紹介されテストを受けたのが一昨年暮れ。根本監督がカーブの切れにほれこんで入団させたわけだが、広島にはいってからも、すぐなまけぐせが頭をもちあげた。だからエピソードはあとをたたない。広島にきてからこれまで三度もドロボウにはいられている。あす着る洋服もないひどい目にあっても「肥満体のオレの背広を着れるわけがない」とあわてない。藤本が野球に身を入れるようになったのは、ことしのキャンプで首脳陣にどやされてからだ。昨年、ウエスタン・リーグで12勝4敗と最多勝投手になっているが、おやじには勘当される。警察には戸締りをよくしろとそのたびにこごとをいわれる。これで5勝目。根本監督は「やっと心技とも本物になった」とその成長を喜ぶ。自由契約選手から、一変してプロ野球史上三十一人目のノーヒット・ノーラン男になった。「これでおやじにも胸を張って会える」この日、父親安平さんはネット裏で藤本の快挙に目がしらを押えていた。
選手食堂に用意されたノーヒット・ノーランを祝うシャンパンの乾杯。青白い顔面にけいれんがはしっていた藤本に赤みがさしたのは、乾杯を終わって報道陣にかこまれたときだった。「いやあ・・勝った。やった」藤本はどなるようにいった。これまで四年間のプロ生活で初勝利をあげたのがことし六月十八日の対大洋戦。これまででも普通のプロ選手と違って藤本には何度もこの世界から足を洗わなければならないピンチがあった。「六回ごろからみんなにいわれたので、七回を終わって記録を意識した」中日にはプロ入り初完封(九回戦)を含めて三勝目。相性がいいことも藤本の気分を柔らげたようだ。「ストレートも速かった。カーブも切れた」藤本は一気にしゃべりまくる。「西鉄時代はさっぱりだったのに、ことしは見違えるようだね」にテレならがこういう。「西鉄時代は遊んでいたからね。もし、あのまま西鉄にいたら、いまの自分はなかっただろう」もしいたらだが、藤本にはもしはなかったはずだ。西鉄にいたいと思っても、一昨年西鉄を自由契約になっている。簡単にいえば、首になった選手。「こんな投手をどうして・・・」この日の藤本の快挙をみれば、だれもがそう思うに違いない。西鉄が藤本をあきらめた理由は、右ヒザに水がたまるという持病があったからだが、それは決定的理由でなく、なんといっても私生活の乱れだ。四十一年山口県光市にある聖光高からノンプロ八幡製鉄工場に入社。一年後西鉄に入団した。第二回目のドラフトからもれた選手だが、西鉄は高校時代からその素質に目をつけ、他球団の目をぬすんで、いやがる藤本を強引にひっぱった。覆面投手西鉄はさかんに藤本を売り込み、地元の新聞は秘密兵器を響きたてた。西鉄も期待した。だからその年、左の井上善投手(広島)を巨人にトレードしている。この覆面投手は、マウンドでは覆面をかぶろうとしない。生来ののんびり屋。練習ぎらい。コーチがやかましくいえば持病という特権をふりまわしてさぼる。覆面をかぶったのはどうも夜の中州だったようだ。球団に首をいい渡されたときの捨てゼリフは「バーテンでもやりますよ」一言いって去った。西鉄時代には「オレの使い方を上はわかっていない。オレは投げれば投げるほどよくなるタイプだ」と監督(現ヤクルト、中西ヘッド・コーチ)を批判する。おてんとうさんと米のメシがついてまわらないことを知ったのは、西鉄を首になって実家に帰って父親安平さんに勘当同様たたき出されてからだ。大きな口をたたいたが、バーテンをやる勇気もなかった。結局、生きる道は野球しかない。重松コーチ(現ヤクルト・スカウト)に頭を下げて広島に紹介されテストを受けたのが一昨年暮れ。根本監督がカーブの切れにほれこんで入団させたわけだが、広島にはいってからも、すぐなまけぐせが頭をもちあげた。だからエピソードはあとをたたない。広島にきてからこれまで三度もドロボウにはいられている。あす着る洋服もないひどい目にあっても「肥満体のオレの背広を着れるわけがない」とあわてない。藤本が野球に身を入れるようになったのは、ことしのキャンプで首脳陣にどやされてからだ。昨年、ウエスタン・リーグで12勝4敗と最多勝投手になっているが、おやじには勘当される。警察には戸締りをよくしろとそのたびにこごとをいわれる。これで5勝目。根本監督は「やっと心技とも本物になった」とその成長を喜ぶ。自由契約選手から、一変してプロ野球史上三十一人目のノーヒット・ノーラン男になった。「これでおやじにも胸を張って会える」この日、父親安平さんはネット裏で藤本の快挙に目がしらを押えていた。