プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

池島和彦

2016-07-13 23:05:25 | 日記
1969年

ふだんから無口な男だが、初舞台の負けはますます口を重くしてしまった。「どうして四回はあんなに打たれたのだろうか」ひとりごとのようにポツリとつぶやいたのは、試合が終わって相当時間がたってからだった。先発で八回投げ、許した安打はこの四回の三本だけ。しかもその三本ともが長打という不運で逆転負け。魔がさしたというのか、池島の頭にはこの四回が痛いほどくい込んでしまった。「決して気を抜いて投げたのではありません。高橋、三村に打たれた三塁打は、ストレートが外角高めにいってしまったのでしょうがないとしても、汐崎の逆転二塁打は内角低めのカーブ。ワン・バウンドになりそうなほど低かったのだし、打った方がうまいんですよ。普通の打者なら、あのコースは完全なボールだし、絶対振っていません」あいづちを打ってもらう人をさがすように、やっと顔をあげた。そしてあとはため息まじりに「2対1か」と何度も繰り返すばかり。そのことばの裏にはバックの援護の少なさを嘆くひびきがあった。今春明大から入社。真夏の試合は初体験。暑さ負けしたことも四回の波乱につながったのではないだろうか。池島自身は「それほど暑いとは思わなかった。しかし初めての経験なので、前半からとばしてしまうとスタミナ切れになるのではないかと心配だった。三回の裏にウチが先に点をとってくれたし、ちょっとベースを落とそうかなと思ったとたんにやられてしまった」暑さのことが頭をかすめたのは事実のようだ。昨秋のドラフト会議で巨人が指名。ことしの信越予選二試合を完投、許した安打はわずかの四本という好成績だったので、ネット裏には池島目当てのスカウトがズラリと顔をそろえた。しかし八月三十一日まで交渉権をもっている巨人をはじめほとんどの声は「この程度の力ではプロでは無理だろう」というものだった。昨年から池島を担当している巨人・沢田スカウトも「しかしとるかもしれませんよ」と断りを入れたあと、とびつけない理由をこう話した。「腰の開きが早いので上体がかぶさらない。そのため腕だけのピッチングになってしまい、スピードがのらない。それと大学時代は外角に切れるいいボールをもっていたが、投げ方が真上からスリークォーターに変ったため、そのボールがなくなってしまった」いま中日の切り札として活躍している星野仙を、明大時代からライバルとして成長してきた池島、今後の希望は「巨人へ入団して星野仙との投げ合い」だろうが、この日の状態では悲観的だった。1㍍81、71㌔、右投右打、明大出、モーター製造三課。
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小畑正治 登板日

2016-07-13 22:31:16 | 日記

小畑正治投手

1952年7月27日 ○ 6-3 対阪急戦
1953年5月1日 ● 5-1 対東急戦
   8月16日 ● 4-5 対西鉄戦
   8月31日 ● 1-5 対阪急戦
   9月13日 ○ 3-2 対毎日戦
   9月20日 ○ 6-5 対毎日戦
   10月4日 ○ 8-1 対近鉄戦
1954年3月29日 ○ 3-2 対毎日戦
   4月5日 ● 2-5 対高橋戦
   8月5日 ○ 6-4 対東映戦
   8月9日 ○ 5-4 対阪急戦
   8月15日 ● 4-6 対西鉄戦
   10月18日 ○ 7-3 対東映戦
1955年3月29日 ○ 8-4 対トンボ戦
   4月14日 ○ 2-1 対近鉄戦
   4月19日 ○ 6-3 対大映戦
   4月29日 ○ 6-5 対大映戦
   5月26日 △ 6-6 対西鉄戦
   5月31日 ● 0-3 対トンボ戦
   7月7日 ○ 5-4 対東映戦
   8月4日 ○ 7-4 対大映戦
   8月11日 ● 0-4 対阪急戦
   8月25日 ○ 5-1 対トンボ戦
   8月31日 ○ 2-0 対西鉄戦
   9月4日 ○ 5-2 対毎日戦
   9月9日 ○ 10-3 対近鉄戦
   9月18日 ○ 9-0 対阪急戦
   9月21日 ○ 4-3 対毎日戦
   9月25日 ● 1-10 対東映戦
   10月6日 ○ 9-7 対西鉄戦
1956年3月28日 ○ 7-4 対近鉄戦
   4月4日 ○ 3-1 対東映戦
   4月10日 ○ 4-2 対毎日戦
   4月15日 ○ 7-3 対大映戦
   6月13日 ○ 4-1 対大映戦
   6月21日 ○ 5-2 対高橋戦
   7月7日 ○ 4-0 対東映戦
   7月15日 ○ 6-1 対毎日戦
   7月29日 ● 3-9 対高橋戦
   8月11日 ○ 5-2 対大映戦
   8月14日 ○ 4-2 対西鉄戦
   8月26日 ○ 7-1 対東映戦
   8月31日 ○ 5-1 対阪急戦
1957年4月8日 ● 1-8 対毎日戦
   4月11日 ○ 7-6 対大映戦
   5月23日 ○ 4-3 対毎日戦
   6月1日 ● 5-9 対毎日戦
1958年5月25日 ● 0-4 対近鉄戦
   5月28日 ● 3-14 対西鉄戦
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千葉剛

2016-07-13 21:40:07 | 日記
1970年

新人投手のデビューは神経を使うものだ。それが千葉の場合、首脳陣はごく当たり前に第一戦登録を決めた。「仕上がりも順調だし、それよりも一試合でも多く場数を踏ませて、投げること以外のことも身につけさせたいからだ。彼はたとえめった打ちされても、それでショックを受けたり自信をなくしたりすることはないからね」(関根コーチ)首脳陣の胸の内にはなんの心配もなかった。「自分としては打たれて当たり前、紅白試合だと思って投げた。まずまずのピッチングではなかったでしょうか。でも2ストライクから辻さんに打たれたときはさすがにプロだと思いましたね」というのが初登板の印象。この一週間のキャンプでの千葉の評判はまあまあだった。ブルペンではギクシャクしたフォームで「即戦力など到底無理な話だ」という声。シート・バッティングに登板すると、ほとんどの打者が伸びてくる速球につまって凡退する。「やっぱり見どころがある」という極端な二つの見方があった。しかし試合旧式のシート・バッティングに登板するごとに信頼され「実戦に強いピッチャー」(山内)を実証していった。この日の先発については「シート・バッティングで一番多く(四試合)投げており、仕上がりも早いのでぼくが投げるのではないかと思っていた」という。それどころか、備前コーチがいうには「いま試合に投げられる状態なのはぼく以外にないのではないでしょうか」とそれとなく売り込んでいたという。顔色一つ変えないポーカー・フェースはなかなかの心臓男。東北人特有のねばり強さも持っている。勝負球のシュートを投げず、ストレートとカーブで攻めた。マークした永淵には一打席目(一ゴロ)内角、二打席目(中飛)真ん中高めの、いずれも伸びのいいストレートで押した。「一見なんでもないような球が手元でグーンと伸びてくるので打ちにくい。それに新人とは思えない勝負度胸を持っているのではないかな」と永淵。河村英文氏は「ナチュラル気味のシュートがあったが、あれは威力がある。しかしフォームにしなりがなく、ガクッと折れてくるような感じだ。とくにバック・スイングからからだが移動してくるときは、なめらかさがなく、カーブを投げるときなどかつぎ気味で、すぐわかる。球の威力はあるがこれからフォームに手を入れていかなければいけないだろう。時間的にはまだまだかかるのではないか」という。関根ヘッド・コーチも「フォームはこれからだ」というが、いまのフォームでも十分にいける見通しをつけているだけに、いつごろ手を加えるか迷っている。アッという間に終わったキャンプ。千葉にとって初めてのキャンプで戸惑い気味のところもあったが「彼ほど練習をうまくこなしていたものもいなかった」と根本監督は要領のよさに感心していた。チーム一の仕上がりと実戦に強いピッチングは、即戦力の期待を徐々に固めつつある。オープン戦では最多登板の予定が組まれている。
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小林国男

2016-07-13 20:58:21 | 日記
1973年

口こそ出さなかったが、ひそかに待っていたのがこの1勝だった。持前のミラクルボールを変幻自在にあやつって五安打、完投で飾ったプロ入り初勝利は実にみごとな内容があった。最後の打者、後藤の左飛を折るような目で追ったルーキー小林は、次の瞬間ニッコリ笑ってマウンドを降りてきた。「文句なしにうれしい。チームに貢献できればいい。とただそれだけを考えていました。でもなんとか1勝ぐらいはしてみたいというのも本音でした」享栄商からノンプロ西濃運輸を経てプロ入りしたばかり。享栄商はロッテ・金田監督を生んだところ。左腕の小林には金田二世の呼び声も高かった。だが、甲子園に一度出場(一回戦で敗退)した以外は目ぼしい実績もなく、高校球界ではほとんど無名の存在だった。しかし、三原監督はその勝負度胸と練習熱心さを見逃さなかった。春の湯之元キャンプから「いける」とねらいをつけ「あのクセ球とボールの回転が面白い。できるだけ早い時期に一軍へ送ってくれ」と田口二軍監督に注文をつけたうえでファームにやったほどだ。ノンプロ時代の小林は上手から投げおろす本格派投手だったが「プロではぼくのスピードは通用しない」と自分からフォーム改造に乗り出し、やや腕を下げることで絶妙のコントロールを身につけ、クセのあるシュートも覚えた。この日も、ネット裏で佐竹スコアラーが何度もうなずいていた。「まさに千変万化のピッチング。両コーナーを使い分ける配球は、十球中八球までが思い通りのコースへきている。とくにシュートの切れがすばらしく、田淵はそのシュートを打たされて完全に抑えられていた」三原監督がはじめて意表をつく「小林先発」に踏み切り、あとをエースの松岡弘がしめくくって勝ったのが五月二十三日。「危険な策だが、苦境を乗り切るにはこの手しかない」という三原監督の決断でそれ以来小林は三原継投の重要なコマとなってフル回転、みごとに大役を果たしてきた。これまでに小林が先発した十一試合でチームは8勝3敗「不思議な運をもっている」と三原監督も驚いていたが、この日の初白星で小林もすっかり自信を持ったようだ。「とにかくていねいに投げました。こんどはオヤジの前でがんばります」父親・得夫さん(54)は名古屋市内を走るタクシーの運転手さん。後半戦の幕開けは、中日球場での対中日戦だ。
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松岡清治

2016-07-13 19:58:29 | 日記
1971年

ヤクルトがドラフト七位で指名した修徳高・松岡清治投手(18)=1㍍82、74㌔、右投右打=の入団が十四日決まった。塚本スカウトは同日午前十一時、東京・葛飾区青戸の修徳高で高山部長、山崎監督、父親・寛久氏、母親・はるみさんをまじえた交渉。契約金五百万円、年棒百万円(いずれも推定)を提示して入団の内諾を得た。正式契約は十五日午後一時から、ヤクルト本社で行われる。松岡は早くから「プロでやってみたい」と意思表示を行っていたが、修徳高ではことしから、クラブ活動が授業の正課目にとり入れられ、松岡が退部すると、正課目の単位がとれなくなるので、交渉が遅れていた。学校側はこの特殊なケースを高野連に説明したが「あくまで退部届けを出さないとプロとの交渉は学生野球憲章に違反する」といわれ、松岡が野球部を退部。特例としてクラブを地理・歴史部に移し、ようやく入団の運びとなったもの。
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白柳和吉

2016-07-13 19:40:46 | 日記
1971年

大洋がドラフト会議で五位に指名した元林建設・白柳和吉投手(21)=1㍍83、75㌔、右投右打=の入団が十二日決まった。平山スカウト部長は同日午後、同投手を熱海市の熱海後楽園ホテルに呼び、正式契約をかわした。契約金百万円、年棒百二十万円(いずれも推定)。同投手はプロ入りを希望、ドラフト会議の前に大洋のテストを受け合格したもの。長身からストレート、シュートを投げ分ける本格派で、期待されている。
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横山晴久

2016-07-13 19:05:24 | 日記
1971年

東映は十四日午後四時半から東京・千代田区霞が関の東映不動産社長室で、ドラフト会議で一位指名の法大・横山晴久投手(22)=1㍍83、85㌔、右投右打、小倉工出=の入団発表を行った。背番号は未定。同投手は発表に先立ち同日午後、東京・中央区京橋の球団事務所で規定額最高の契約金一千万円、参加報酬百八十万円(いずれも推定)で正式契約した。入団発表には大川オーナー、田沢代表、田宮監督のほか、横山のおじ伊藤猪之助、横山博一の両氏、それに実兄・郁夫氏が同席した。高校時代、二度甲子園へ出場、法大では入学そうそうリーグ戦のマウンドを踏むなど花道を歩いてきただけに入団発表でも堂々としていた。「一位に指名してくれた球団の期待にこたえることが第一。勝ち星うんぬんよりまず第一線にでることが目標です」法大時代は一年先輩に通算45勝の連勝新記録を作った山中(住友金属)がいたため、控えめだったが、実際は気が強く積極的だ。「先発、リリーフ、完投とこれまで三連投も何度かやったことがある。監督さんが使ってくれるというのなら喜んでいつでも投げます」額にうっすら汗をうかべていた。四年間で25勝、通算防御率1・70と立派な実績を残し、四シーズン連続ベスト・ナインにもなっている。横山のピッチングを春のリーグ戦でみたという大川オーナーは「完ぺきに近い投手だよ。まさかうちに入団するとは思わなかったが、そのときからプロ野球でも十分スターになれる選手だとみていた」と自慢した。田宮監督は法大を4連覇にみちびいた勝運、ちょっとやそっとではこわれそうもないがっちりしたからだに「最初から先発完投型として使う」と期待している。横山は小倉工三年(四十二年)のドラフト会議で南海に三位で指名されているが、そのときは大学に進学してからでもおそくないとプロ入りを拒否している。

二年から主力投手としてリーグ戦のキャリアをつんできたので、勝負度胸や打者の駆け引きなど精神面では巨人入りする横山(立大)より一枚上といってよい。だが、かんじんのスピードがもの足りない。大学野球では外角ストレートにカーブ、シュートをミックスした制球力のよさで十分通用したがプロの打者は力もテクニックも違う。現在のピッチングでは、プロのローテーションに食いこむのは疑問だ。大きなからだに恵まれながら、手先だけで投げているのがスピードのない原因で、これでは持っている力の50%しか出していない。もっと腰の回転をきかせて、腕の振りを鋭くすれば、もともと球質が重いだけに、球威はぐんと増すだろう。法大のエースとして、常に勝つことを要求されていたので、冒険的なフォーム改造はできなかったのだろうが、プロとして成功するためには打者に脅威を与えるような武器をもつことが一番早道だ。東映が一位指名したのも、安定した実績のほかに速球派としての可能性を高く買ったからに違いない。打者の欠点をついていく技巧派タイプの道を選ばず、あくまで球威で押えこんでいく投手をめざしてもらいたい。これまでのピッチングに、自分なりの自信をもっているかもしれないが、人一倍の体力を生かすため一から出直すべきだろう。
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杉山重雄

2016-07-13 18:26:17 | 日記
1971年

ヤクルトがドラフト会議でトップに指名した駒大・杉山重雄投手(22)=1㍍77、70㌔、左投左打=の入団が二十三日内定した。この日、内藤常務、浜田事務局長が午後八時半から東京・中央区銀座の料亭鶴の家で駒大・太田監督をまじえて杉山と話し合った結果、本人から「ぜひお世話になりたい」と快諾を得たもの。入団発表は二十七日午後一時から東京・中央区日本橋のヤクルト本社で、先に内定した日立製作所・渡辺投手とともに行われる。なお、杉山の背番号は12。

ヤクルトは十一月二十日、杉山との初交渉の席上で契約金一千万円、年棒百八十万円(いずれも推定)の規定最高額を提示していた。杉山はこのとき入団の意思表示を行いながら「家族とよく話し合ったうえで返事したい」とあくまで慎重だった。その後、小山スカウト部長が交渉を一任されている駒大・太田監督と再三話し合ったが、杉山の「本当にプロでやっていけるかどうか」という不安と、長野県小諸市の両親が付帯条件で難色を示したため、交渉は進展しなかった。しかし「このままの状態では杉山本人にとってマイナスになるばかりだからはっきり態度をきめた方がいい」という太田監督のアドバイスや、駒大の先輩である大矢(ヤクルト)などの「このさい思いきってプロでやってみろ」という意見でようやくヤクルト入りの意思をかため、両親も納得して入団にふみきった。杉山は東都大学で亜大の山本(阪神入り)とともに一、二を争う左腕投手。カーブ、ストレート、スライダーで真っ向から勝負するタイプで通算15勝のうちことし一年で14勝をあげ、その将来性を買われている。ヤクルトは外山をロッテに放出して左腕投手が手薄なことから第一位で指名していた。

杉山投手「まだ不安はあるがプロ入りに踏み切った以上一日も早く先輩の大矢さんに球を受けてもらえるよう一生懸命やりたい。大学時代のライバルは亜大の山本(阪神)だが、一軍のマウンドはなんとしても早く踏みたい。巨人を倒せる投手になることあ目標です」

駒大・太田監督「努力を怠らなければ相当な投手になると思う。わたしはコントロール主体に使ってきたのでフォームを全然いじっていない。バネのあるピッチングをうまく生かしていけば、まだまだ速くなる投手だ。バネ、体力とも山本君(亜大ー阪神)より上だと思う。わたしは来年より二、三年後を期待している」
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