プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

阿部成宏

2016-07-29 20:33:13 | 日記
1971年

巨人・阿部成宏外野手が、二十九日福島県営球場で行われたイースタン・リーグ対大洋戦で、自己の記録を更新する三十一試合連続安打をマークした。これは昨年七月二十四日の対大洋戦以来の二年越しの記録。阿部は「記録より早く上にいきたいです」と一軍への意欲をのぞかせている。小さいだけでも投げづらいのに足が速いときている。投手にとってこんないやなタイプもないだろう。三十一試合連続安打の打球は二塁ベースの右にころがった当たり。飯塚から佐藤一へのボールがわたったときには、もう阿部は三歩ほど一塁ベースをかけ抜けた。「別に記録のことは意識していませんが、ヒットが出るに越したことはない。できるだけヒットを多く打ち、一軍入りの材料にするのがぼくらファーム選手ですよ」何をやらせても目立たない地味な存在だ。三十九年に大洋へはいり、昨年トレード会議で巨人へ。大洋時代は投手だったから、打者になってまだ二年しかたっていない。ことしのキャンプでは宮崎へ参加したが、司令塔のスピーカーから川上監督の「アベ、アベ」という声がさかんに聞かれた。一軍の選手と比べまずいプレーが目立っていた。また見方をかえれば、川上監督ら首脳陣が、それだけ期待をもって目を向けていたことにもとれる。だがONといっしょのプレーにいささか気おくれしたのか「やはりバッティング以外のいろいろなことに気をつかってしまった」とキャンプなかばでファームへ回された。約1か月半のファーム暮らし。いまではすっかり気持ちも落ちついてきている。巨人の外野陣は高田、末次、柴田とがっちり固まり、控えも萩原、広野、柳田とそろっているのでなかなか一軍入りはムリだが、早くて六月、おそくてもオールスター前には一軍入りをしたという。中尾二軍監督はこんな阿部を「いまは器用さだけでヒットを打っている。ファームではこれで通用するが、真シンでとらえるヒットが毎試合二本はコンスタントに出るようにならなくてはなかなか・・・」この二十三日に東京・世田谷のマンションに引っ越したばかり。「がんばらなくっちゃ。借金が大変なんですよ」一軍入りをめざして懸命だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャンス

2016-07-29 19:34:23 | 日記
1969年

アトムズ入りした前リッチモンド(ブレーブスのファーム、3A)のロバート・チャンス一塁手兼外野手(29)=1㍍90、96㌔、右投左打、ウィリアム・ジェームズ高出=は、三十日午後二時四十五分羽田着のPAA機でケリー夫人(24)長男アンソニー君(四つ)長女サマンサちゃん(二つ)とともに来日した。空港でアトムズ・内藤常務、小川渉外部長らの出迎えを受けたあと、東京・新橋の第一ホテルに落ちついた。三十一日は午前中・東京・日本橋本町のヤクルト本社に松園オーナーをたずね、来日のあいさつをする。初練習は一日午後三時から神宮球場で行う。二日の大洋戦(神宮)からベンチ入りの予定。

プロ・レスラーを思わせる堂々としたからだ。だが長旅のうえ税関で一時間も足どめをくい、いかにも疲れたようす。低い声で記者会見。

ーなぜ日本でプレーする気になったのか。
「アトムズから熱心に誘われたし、ワイフも日本にぜひいきたいというものだから・・・。アメリカでプレーができなくなったわけではない」
ー日本の野球に対する知識は?
「なにもない。スチュアート(前大洋)に聞いたことがあるが、くわしいものではなかった」
ー後半戦だけだが、どの程度の成績を考えているか。
「ストライク・ゾーンも違うし、投手の球も違うと思う。だから、それになれないうちは目標などいえない」
なかなか慎重な構え。受け答えする態度もまじめそのものだ。
ーアトムズの監督は練習が大好きだが、ついていけるか。
「(ニヤニヤ笑って)あまりいい知らせではないね。しかし、どんな練習でもへこたれない」
ーいつごろから出場するつもりか。
「七日までリッチモンドでプレーして、調子がよくなったところで日本にきた。だから一日か二日の練習でオーケーだ。できれば一塁をやりたい」
今シーズン、リッチモンドでの成績は二割五分五厘、4ホーマー、25打点。代打が多かった。六一年プロ入り、六三年インディアンス入りしたあと、大リーグと3Aを往復し、大リーグ通算成績は二百四十五試合で二割六分五厘、21ホーマー。昨年はセネタースのファーム3Aバッファローで二割九分三厘、29ホーマーの成績を残している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柿本実

2016-07-29 19:20:09 | 日記
1969年

二ケタ以上のヒットを打たれながら、完封勝ち。今シーズン、両リーグを通じても見当たらないちゃめっ気たっぷりの柿本らしい珍記録?

だった。失礼だが、思いもかけない、という表現がピッタリだろう。今季大洋戦初先発のマウンドも、伊藤が発熱で急におはちがまわってきたもので、柿本自身「打順がオレに一回くらいまわってくればめっけもの」というくらいの自信のなさだったから、話がはずむのも無理はない。盛んに「びっくりしてもうて」を連発する。びっくりしたのは完封された大洋の方だっただろうが「六回ごろから、これはひょっとしたら」と気持ちを締め直したそうだ。第一打席では、ナインのだれもがあまり信用していない自称スイッチ・ヒッターぶりを披露したり、投げたあとからからだを大きく左へ傾けるカージナルスのギブソンばりのピッチングをみせたり(七回、近藤昭に打たれた中前安打は、あまりからだをかっこよく泳がせすぎて足をすべらせ、投ゴロが中前へ抜けたもの)とにかく昼寝したくなるような盛り上がりのない試合を一人で楽しんでいた。「もうそろそろ点をとられてもいいころと思っていた」六回をすぎてもいっこうにタイムリーが出ない。「ことしはじめて」という長丁場の七回にいどんで「はじめて完投(完封ではない)を意識した」という。「そんなに気をつけて球を散らしたわけやないが、うまく田淵がリードしてくれた。ここが今シーズンのオレの度胸のみせどころと観念して、いうとおり投げてやったんや」スピードは平凡、変化球も最優秀投手になった中日時代の切れ味はもうない。たよりは打者とのかけひきと度胸の二つしかないのだ。その度胸男がベンチをあわてさせたのが九回の守りだ。一死一塁で代打重松、というところで柿本は田淵を呼んだ。一塁ベースを指さしていたのは「歩かそうか」の相談だったのか。これをみた後藤監督。「冗談じゃない。オイ、カキ、勝負や、勝負ー」とびっくりぎょうてん。「中日時代から重松には相性が悪いし、あともう代打もいないようだったから」としゃあしゃあとしていたが、あのケースで二塁にわざわざ走者を進める手はない。昨年九月六日の広島戦以来の完封勝ちを前にして、やはり緊張していたのだろうか。阪神のヒットはわずかに三本だったよ、と聞かされ「エッ、三本?知らんかったな」とまた丸い目を開いて「知らんかってよかったわ」ということばが結びのひと声。もしこの日のダブルヘッダーに連敗すれば、大洋と入れ替わって三位転落の瀬戸ぎわに立っていた阪神。第一試合に勝ってそのピンチを脱した意義ある柿本の完封勝利だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊田憲司

2016-07-29 19:03:00 | 日記
1971年

からだは中型で、ピッチングもみた目もハデさはない。が、終わってみると、ちゃんと2点に押えるのが豊田の持ち味。強打自慢の松下電器も完全にそのペースにのせられてしまった。五番の内田は試合後も首をひねった。「ポンポンと投げ込んでくるので、テンポが全然合わなかった。コントロールはいいが、これといって驚く球はなかった。もっといい投手を打ち込んできたんですがね」豊田は芝工大出身で、会社では藤沢工場生産管理部に籍をおき、生産観察のデスクワークをしている。それだけに、ピッチング内容の説明も理づめでよどみなく、すらすらとやった。立ちあがりの1点は、都市対抗初登板ではりきりすぎて、下半身を使うのを忘れていたそうだ。終盤の二イニングで四安打されたのは「4点リードの気のゆるみがあり、無造作にストライクをとりにいったのをやられた」といいきる。それでも帳ジリは七安打2点。いすゞは前野(芝工大の後輩)古屋の好投手が補強されて強力投手陣になっているが、豊田にはエースのプライドがある。「でも、自分が五回までもてば、あとは彼らがいるから気楽な面もありますよ」というのも本音だろう。成田理助氏は「大型投手は完成するとプロへもっていかれるから、これからの社会人では、こんなタイプが買い目になる」とみている。1㍍76、70㌔、右投右打、二十三歳。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする