プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

会田照夫

2016-07-24 21:14:33 | 日記
1971年

「ウイニングボールいるかい? 」と球をさし出すナインに「あたりまえだよ。初完封だもん」とズボンのポケットにいそいでしまい込んだ。会田と狂喜するスタンドには中学時代(埼玉県・春日部中学)に野球部入りをすすめてくれた恩師の茂木先生のうれしそうな顔もあった。「九回トップの中塚さんをうちとってはじめてこれでいけると思いましたが、それまではまさか完封できるとは思わなかったですよ。それにこんなに早い時期に完封で勝てるとも・・・」この二連戦の第一戦の先発は十日の阪神戦が終ったときにいわれた。この二日間雨で流れて、すっかり登板間隔(中七日)があき、この日もブルペンでの投げ込みがやや不十分で、かなり不安があったという。「しかし、投げてみなければわかりませんね。まっすぐのコントロールが自分でたまげるほどよかった。いつも立ち上がりが悪いのに、しょっぱな重松さんを三振にとったでしょう。あれで気をよくしたのかもしれません」いつも前半から荒れるのがクセだが、七回まで無四球の安全運転。この日の最大のピンチは八回の二死満塁だった。「いや、あれはこわかったです」と本人は冷や汗をかくようなポーズをしてみせるが、三原監督やコーチ陣が一度もマウンドに歩み寄らなかったほど、その心臓には信用がある。プレーはもちろん、人を食ったようなマスクモ、ふだんのふるまいもルーキーばなれしているというナイン間の評判。忘れもしない五月二十日の福井での巨人戦。あの劇的な広野の代打逆転サヨナラ満塁ホーマーを浴びたショックから、いやに早く立ち直ったのも「ぼくは投球フォームも、顔も変則だけど、なにごとにも変則なんですよ」とうそぶくずぶとい神経があったからだ。六回には追加点のタイムリーをたたき、投打のヒーローだが、東洋大時代にも投手ながら東都の打撃部門八位になったほど、もともと好打者。しかし、四回の一死一、三塁のチャンスにスクイズのサインを見のがしていたので「きょうは打者としては差し引きゼロ」と反省していた。これで3勝。うち完封1、完投1となると足ぶみをしている広島・佐伯をぬいた感じだが、新人王候補というさそい水には「まだ3勝じゃあ」とスラリとかわし「それよりきょうのダービーがあたっていれば最高だったんですがね」やっぱり変則のルーキーである。
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久保祥次

2016-07-24 20:55:53 | 日記
1972年

セ・リーグの打撃ベスト・テン上位に見なれない名前が乗っている。広島の久保祥次捕手(20)だ。二十日現在当り屋ロペスについで二位。プロ入り十一年目、一度もベスト・テンに顔を出したことがなかった男。春の珍事か、本物か。突如とびだしてきた久保祥とはどんな男か。

「ボールがよく見える。ストライクをのがさず打っている。タイミングがうまく合っている」ここまではスラスラといえた。しかし、なぜこんなにヒットが出るのか「自分でも信じられない。不思議だ」と首をひねって考えこんでしまう。開幕してから七試合、ヒットが出なかったのは十四日の阪神戦だけ。根本監督や森永コーチは「けっしてフロックではないこれが彼の実力なんだよ」とこのチャンスに一本立ちさせようと、少々オーバーに表現をしながら、シリをたたく。だが本人はくすぐったそうに「あとは野となれ山となれ。もう数試合もすればおさまるところにおさまる」と、いまの好成績が、むしろ迷惑とでもいいたげだ。別名「ホトケのショウちゃん」入団のいきさつがおもしろい。高校時代(広陵)は試合に出場したことのない遊撃手。十四人のメンバーにもはいれなかった。人をおしのけてでもという気性の激しさがなく、三年生になっても一年生を助けて球拾いをしていた。就職先は広島大学病院の事務員。ここで草野球チームのメンバーがたりないということからかり出され、初めて捕手をやった。だがそこでもとくに目立った存在ではなかった。ただ肩が強いというのがとりえ。事務員の一人が冗談をいった。「その肩の強さを、カープのキャッチャーに見せてやれ」ひやかしでテストを受けた。世の中、わからない。そのときカープはちょうどブルペン捕手の数がたりなかった。ただボールをうけるだけの通称・カベだ。いたずらにうけたテストに合格して本人が驚いた。広島首脳陣も「久保」という捕手がはいったことなど別に気にもとめていなかった。二、三年いては消えていくブルペン捕手のひとりくらいの軽い気持ちだった。ところが、二か月たち三か月たって、ヒョンなことで首脳陣の目にとまった。「ブルペンでただ球を受けつづけるというのは、単調でつらい仕事なんだ。ところがヤツときたら、いやな顔をするどころか、いつもうれしくてたまらないといったニコニコ顔で朝早くから夜になるまで球を受けつづけている」熱心なやつだ、といつか首脳陣やベテラン投手が目をつけるようになった。一軍のベンチにはいるようになっても自分から志願してファームの試合でマスクをかぶる熱心さ。ことしもオープン戦から捕手は水沼にきまっていた。ドラフト一位で道原もはいってきた。「控えで十分」と久保祥は相変わらずのんびりかまえていた。水沼がもしオープン戦でケガをしていなければ「まあ、ぼくはベンチかブルペンにいたでしょう」といまでもひとごとのようにいう。しかし、こうまで打てればいかに「ホトケのショウちゃん」でも欲が出てこないはずはない。これまで遠征先の宿舎でバットも振ったことがなかった。だが、いまではヒマさえあれば部屋にとじこもり、こっそり振りつづけている。中止の決まった二十日も、パンツひとつのあられもない格好でなんと三時間のバット・スイング。十九日の対中日戦、ショウちゃんの強気のリードが光った。徹底的にストレートで押し通し、これまでカーブにたよっていた外木場をよみがえらせた。負けはしたがまた首脳陣は目をみはった。消極さが消え、ベテラン投手を積極的にひっぱっていく。ホトケのショウちゃんは、やっとオニのショウちゃんになるつもりでいる。
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三林清二

2016-07-24 20:19:53 | 日記
1955年

広島対国鉄十五回戦は午後二時五十八分から国鉄先攻、谷口(球)金政、滝野、有津四氏審判で開始。(晴、観衆五千)国鉄は一回二つの二塁打で、二回は三林の右翼本塁打で先行。四回には宇野、小松原の連安打につづいて送りバントで迎えた二、三塁に前進守備の二塁頭上を破る佐竹の適時打で一点、小松原はバント・サインの不徹底で倒れたが、つづく大久保が左翼線二塁打してこの回二点と四回まで球威のない山田に八安打を浴びせて早くも雪辱を思わせた。広島は三林起用の奇策に気をとられたかたちで鋭いカーブとサイド・ステップからの速球が打てず七回まで安打らしい当たりは五回広岡の二塁打だけだった。国鉄雪辱の立役者は三林で、二回自ら本塁打して優位に導き、投げては三安打に抑え、黒岩とのリレーもよくプロ入り初めての勝星をあげた。広島は八回平山の右前安打に2四球を集めて満塁と三林を攻め立てたが、急ぎリレーした黒岩のカーブに小鶴が三ゴロ併殺を喫して完敗した。

三林投手略歴 広島からプロ入り以来初の一勝をあげた国鉄三林清二投手(20)は三重県出身、宇治山田商工から昨春先輩国鉄小坂マネジャーの縁故で国鉄入り、二十九年の東海四県高校大会には優勝投手となったが甲子園の土はふんでいない。昨シーズンも二軍にあることが多く公式戦では0勝1敗。今年は大いに期待されていたが、ペナント・レース開始早々、フリー・バッティング中に右ヒザを痛め、以後ずっと二軍にあった。ななめ上手からの速球(国鉄では金田についで速い)とシュート、カーブが武器。五尺六寸、十六貫、右投右打。
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伊藤則旦

2016-07-24 14:36:27 | 日記
1955年

今シーズンの登板三度目という毎日の新人伊藤が八回和田功にバトンを渡すまで近鉄を二安打に抑える予想外の力投をみせ、打線も一回山内の二点本塁打で先制点をあげ、七、九回にも加点して快勝した。永井は投球に変化がなかったうえに球が浮きすぎた。毎日はそこをたたいて一回荒川博が左前に深く流し、これをピンカードが後逸する不手ぎわがあったのち、山内は2-3後高目のシュートを左へたたき込んだ。四回途中から救援した武智文の慎重な投球でやや沈黙していた毎日も七回呉が四球、島田の左翼線安打をピンカードが再びそらす間に呉がかえり、伊藤も右前適時打してダメ押し点をあげた。伊藤は立ち上がりボールが多かったが、回を追うごとに落ち着き、五尺九寸の巨体から重い速球と小さいシュート、カーブもよくきまって主力を故障で欠く近鉄を牛耳った。八回原四球、戸口には中前へ打たれ、はじめてピンチを招いたものの和田功が近鉄の反撃を封じた。近鉄がこう打てなくては完敗するのも当然だった。

近鉄を七回まで一安打に封じた伊藤投手は愛知県海部郡佐屋村出身、今春津島高を出て、ただちに毎日に入団、グリッター・オリオンズのエースとしてイースタン・リーグに活躍。六月二十二日難波での対近鉄十一回戦に榎原投手のリリーフとして公式戦に初出場、これが三度目の登板である。長身からの速球とドロップが武器。五尺九寸、二十貫。右投右打。十八歳。
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小畑正治

2016-07-24 10:14:49 | 日記
1956年

故障から久しくスランプ気味だった南海の小畑投手は、この夜ひさびさに六回1/3投げて東映を三安打に抑え、手ウスな南海投手陣に明るい希望をあたえている。昨年暮に右足首を負傷、なおったと思えば今シーズンははじめから右ヒジの故障になやまされようやく六月中旬になおったが、あまりよくなかった。今夜で黒星なしの七勝目。だが「スピードが落ちたので今は何を考える余裕もありません」とはいうものの五百匁肥えて二十貫あまりという彼を、山本監督は宅和、円子、戸川など若手投手陣が縦割れの折から、その復調は文字どおり救世主的な存在だといっている。松井捕手も「スピードがなくなって投球に幅がついてきたスライダーで整え、シュートで勝負するのも昨年なら全然やらなかった芸当だ。ちょっと小畑のピッチングはおかしくなってきましたよ」と喜んでいた。今年で五年目。
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長坂衛

2016-07-24 09:15:16 | 日記
1954年

二十八年三月に僚友野村(現明治座内野手)とともに静岡市高から自ら志望して私が監督をしている明治座に飛びこんできた一年足らずでプロに引張られたのは本人にも意外だったろうし、私自身もまさかと驚かざるを得なかった。正直なところもう少し投球術を身につけてから入団させてやりたかった。明治座での一年はどう見ても無我夢中の野球生活としか思われないそこで彼の登板には特別の考慮を払ってきたわけである。しかし素質は十分持っており、特に十九歳ながら五尺八寸、十八貫と体格堂々、疲れを知らない選手である。しかも黙々と練習をつづけており、彼の将来には非常に期待をかけていた。静岡市外のみかん畑と田地を持つ比較的裕福な農家の三男坊で野球を始めたのは静岡市高に入ったときから、当時の静岡市高の校長は昭和初期の東大小宮選手で、校長自らのきついノックバットで叩かれたが、いつも静岡城内高や静岡商高に頭があがらなかった。明治座に来てからは、昨年一年間で登板十回、そのうち完投は僅かに二回である。彼が最も活躍したのは秋で、産業別対抗の二回戦(東京ガス)にスタートして六回まで1安打におさえ、秋の東京支部大会準決勝(対国鉄)では二回目の完投をし与安打二、奪三振八で5-0とシャットアウトした。登板数がまだ少ないことにもよろうが、味方が先取得点をあげてやるとラクに投球をつづけ、苦境になるとガックリして立ち直ることを知らない。フォームもまた足、腰の利用が不十分で腕にのみ頼るきらいがある。武器は重いシュートで、低目の球は自然に沈んで功を奏している。カーブはそれほど威力はないが、最近小さくなっている。これは鋭くなりつつある証拠だ。外角をつく速球もスライダーしはじめている。これらの球をうまく配合すると面白いピッチングが出来るのだが、その点もまだ不十分。バッティングはスウィングのとき左肩が極端に邪魔をしており脚力をまた足が上がらずピッチがのろい。性質はまことにおっとりとしていて身体こそ大きいが童顔、まだ乳くさいところがある。極端なハニカミヤでもある。これから先き指導いかんで右へも左へも傾くのだから、いい指導者と友達を持つことが必要だ。みっちり頭の野球も勉強しなければならないし、うんと苦しむことだ。

静岡県高校野球連盟会長 小宮一夫氏

長坂は私が静岡市立高の校長をしていたとき入ってきた生徒だが、彼の体力と肩にほれ込んで直接私がコーチした。しかし私はこれは将来の大物と見込んだので、野球、ことにピッチングの基本のみを叩き込み細かい技術は全然コーチしなかった。つまり高校では基本を身につけ、卒業してから高度の野球を学んだ方が本人のためになると思ったからである。元来が大器晩成型の選手でわずか一年のノンプロ生活ではまだまだ未完成だと思う。プロへ入ってもあせらずじっくり二軍でピッチングを学ぶべきだ。技術的にはランニングをして腰のバネをつくること、恵まれた身体をピッチングに生かすことの二つが彼への注文である。
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スピアマン

2016-07-24 00:22:58 | 日記
1955年

阪急と一年間の契約をむすんだ黒人投手アルヴィン・スピアマン選手(28)は十六日午前九時二十分PAA機で羽田空港に到着、午後一時十五分から東京千代田区有楽町の阪急支社で記者会見を行った同選手はレインズ、バルボン四選手を阪急に紹介したシカゴ・アメリカン・ジャイアンツのオーナー、サバスタイン氏とかつての大リーグの強打者ハンク・グリーンバーグ氏の世話で阪急入りしたものである。都内駿河台山ノ上ホテルで第一夜をすごし、十七日午前九時東京駅発の特急「つばめ」で西下しチームに参加する。

スピアマン投手談「得意な球は速球だ。この春グリーヴランド・インディアンスのスプリング・キャンプでトレーニングしてあるので五日も練習すればゲームに出られると思う」

略歴 1952年サンディエゴ(3A級)1953年メキシコ・リーグ(2A級)昨年はシカゴ・ハーレム・グローブ・トロッターズ・ベースボール・チーム(どのリーグにも属さない単独のチーム)に加入して全米を転職、十六勝三敗の成績をおさめた。打力がいいので外野手をつとめたこともある。六尺、二十二貫五百、右投右打。

フォームはオーバー・ハンドできき腕の振りは強く目は目標から離れず、腰の位置は動かず、投手としての素質は十分もっているが、踏み出しがオープンで腰のひねりがほとんどないので打者に威圧を与えない。一見きれいにまとまった投手。球質も軽く素直で打力のあまりきかない東映に伸び伸びと打たれ七回で九本の安打を許した。スクルー・ボールを投げると聞いているがこの夜はそれらしきものはなかった。シュートは相当速く大きいのをもっている。ヒットの数のわりに得点を少なくくいとめたのは本場仕込みのコンビネーションによるものだろう。コントロールのいいこと、これは目を目標から離さないところに起因している。この点彼をリリーフした梶本が球威がありながら目が離れがちでコントロールに難があるのと対照的だった。天候のハンデもあり、今夜の彼をみてこんごを占うのは冒険だが球威の点ではたいしたことはないというのが第一印象。
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