プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

長光告直

2016-07-30 20:48:37 | 日記
1956年

南海は一回蔭山の遊撃強襲ライナー安打と一死から杉山の投手足もとを抜く安打で一、三塁とした。しかしこれは飯田の二ゴロでタブられ点にはならない。笠原はよく投げた。一回の火を消し、三回には一死から味方の失策と蔭山に右中間二塁打され二、三塁の危ない橋を渡られたが、岡本、杉山を凡退させてなんとかこれもきりぬけた。長光(今季三度目の登板)はベテラン松井が試合前その調子を本人にたずねるほど横手から変化にとんだ球を投げる。シュートを投げれば内角に沈むのと浮き上がるのを投げわけ、カーブを投げればスライダーのようにスピードがのっている。三回一死から八田に中前安打されたのが一本目の被安打だった。このピンチは笠原の遊ゴロで二封し一番うるさい坂本をまた遊ゴロに打ちとる。五回日本目の安打を桝田に遊撃左に打たれ保坂の送りバントでニ進されたが、八浪、八田を凡退させた。その裏南海は二死から球が高目に浮きはじめた笠原を打ちこみ、蔭山が右前安打して二盗、岡本も三塁線を破って(二塁打)ようやく先行点をあげ杉山の中前安打でまた一点を加えた。この二点で大映は早くも試合をあきらめた感じで六回二死から島田、滝田が二塁左と中前に進打し、暴投などで一、三塁としたのもダメ。八回二人目の太田が杉山に中前安打(代走大戸)され、そのうえ彼自身が暴投して二進させ二死から大沢の右前安打で三点目を許してしまった。

長光投手

プロ入り初の一勝完投(シャットアウト)を記録した長光投手は五尺六寸五分、十九貫五百、十九歳右投右打、広島県二十日市高出身。打たせてとる投手で落ちるシュートを武器としている。昨年入団、昨シーズンはウエスタン・リーグで活躍したが一度も公式戦には登板していない。今シーズン救援二度、この夜が初の先発。

山本監督談 「投手陣が不調なので冒険だと思ったが彼を出してみた。球に伸びがあるので皆川、山本(義)とともにこんごも使っていきたい」
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権藤正利

2016-07-30 20:16:17 | 日記
1972年

プロ入り二十年目の阪神・権藤正利投手が、いま二軍で調整をつづけている。ことし一試合でも公式戦に登板し、プロ入り実績二十年の実績をつくろうという信念だ。十六日、ウエスタン・リーグの対広島戦でテストしたが、結果はさんざん。痛々しい権藤に周囲は同情的だが、54㌔というきゃしゃなからだにムチ打って権藤は一試合にプロ生活のすべてをかけている。ストライクがはいらない。四球の連続。それでも歯を食いしばって投げるプロ入り二十年目の大ベテランの姿が若い選手にどううつったか。二安打、6四球、7失点で背番号15はベンチに消えた。「力の限界をこれほど知らされたことはない」十六日のウエスタン・リーグ、対広島戦に登板した権藤はさびしさをかくせなかった。まだ一軍の選手はベッドで寝ころんでいる真夏のマウンドで、もうすぐ三十八歳の誕生日を迎える権藤は、いろんなことを考えた。ひと回りも違う二軍選手を相手にストライクさえとれない。切れのあった速球もおじぎをしながら、やっと捕手のミットにおさまる。二十年のキャリアを持つ権藤が一番くやしかったのは、それより、同情的な周囲の視線だったろう。マウンド上で広島の若い選手に、がむしゃらに打ってやろうという気持のなかったことも見抜いている。スタンドでみていた同僚の若生はこういった。早くかえてやればいいのに」広島の野崎ファーム・コーチは「阪神はすごい投手を出したものだと思ったが、マウンド上の権藤を見ているとかわいそうになった。うちの選手に打たないでくれといいたい気持ちさえした」必死に投げる大ベテラン。体重54㌔というかぼそいからだも周囲の同情を買っている。一イニング三十七球のピッチングでベンチに消えた権藤は、力の限界を痛感しながらも逆にそっと胸に秘めている目標をファイトを燃やしている。「ふつうだったら、四球を二つつづけたところで代えられている。だが、一回全部をまかせてくれた白坂さん(二軍責任コーチ)の配慮がうれしい」権藤が力を知りながら、ユニホームに愛着を持ちづつけているのは、ことし公式戦に一試合でも挑戦してプロ入り実働二十年という実績を作りたいからだ。二十八年に柳川商から洋松(大洋の前身)に入団。新人王のタイトルもとった。四十二年には最優秀投手にも選ばれた。三十年から三十二年まで28連敗という連敗記録も作っている。過去十九年間のプロ生活。権藤はことし一試合でも登板して、区切りをつけて引退しようと懸命だ。権藤が限界を感じ引退を決意したのは昨年の暮れ。十九年間投げつづけ六百六十四試合に登板。左腕はくの字にまがり、もう権藤のあの切れのいい、大きなカーブは投げられない。それでも権藤はことしいっぱいがんばる。一試合でいいんだ、甲子園でナイターのマウンドを踏みたい」という。いま権藤が一番ほしいのは勝星ではない。一軍のマウンドだ。来年は佐賀県鳥栖市の実家で家業(酒類販売業)をつぐことも決めている。「こんなからだで五分の一世紀もよく投げてきたもんだ」あと一試合にファイトをもやすベテラン権藤が、甲子園のマウンドを眺めるのはいつか。苦しい調整は、それまでもくもくとファームでつづく。
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竹内広明

2016-07-30 18:21:26 | 日記
1972年

イースタン・リーグは十五日、千葉県市原市営球場で開幕したが、第一試合、大洋ーヤクルト戦で大洋・竹内投手が完投勝ち、被安打2、奪三振8の快投をみせ注目された。試合開始前から降り出した雨が横なぐりの風とともに本降りになった。そんな最悪なコンディションの中で大洋期待のルーキー、竹内は顔色ひとつ変えず、生き生きとしたピッチングをみせた。調整のため、ファームの試合に参加した内田をはじめ、八重樫らパンチのあるヤクルト打線相手に味方内野陣のミスなどで3点はとられたが、八回までわずか二安打、余裕たっぷりの完投勝ちだ。「変化球は覚えなくてもいいから、外角低めへまっすぐでストライクをとれるようにしろといわれている。でも、コントロールが甘いし、ときたま気を抜く悪いクセが出ちゃって・・・」「被安打2」のかわりに7四死球。コントロールの話になるとペロリと舌を出す。だが、この日は速球に加えて縦、横の二種類のカーブで打者の目先を変えてみせるなど、進歩のあとがみられた。一時は投手陣の柱になる存在とまでいわれたヤクルト・西井が単調なピッチングで7失点とられたのとは大違いだ。稲川コーチも「いますぐにでも一軍で投げられるだけのものはある。きょうは一番ボールが速かったし、まっすぐ落ちるカーブもマスターするなど、進歩のあとがピッチングにあらわれているのがいい。あとはもっと足腰を鍛えてコントロールを身につけることだ。でも、この分だと予定より早く一軍へ送り出せるかもしれない」と一歩一歩、完成に近づく目玉商品のできばえに目を細めている。あこがれの平松のピッチング・フォームは目をつぶると鮮明に描き出せるというほど、平松、平松で明け暮れる竹内。「あれくらいバック・スイングのとき腰がためられればいいな。でも、ぼくも駆け引きなどだいたいわかるようになったし、スピードも出てきたと思う。早く一軍にいきたい。最近一軍で投げる夢をよくみるんですが、いつもこてんぱんに打たれてばかりいる。まず夢の中で完封してみなければ・・・」いうことはまだあどけないが、言葉のはしばしにファームではもの足りないといったニュアンスをほのめかすところなど、やはり大物だ。
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八重沢憲一

2016-07-30 16:21:20 | 日記
1971年

ー幸司(太田=近鉄)がことしもオールスター・ファン投票で一位になっている。しかしつらいだろう。プロ野球の世界は実力だけがすべてなのに、まだ1勝もしていないあいつがトップだなんて・・・。おそらく内心たまらない気持ちだろう。この世界はとにかく実力をつけないとダメ。いまはじっと捉えてチャンスを待つだけだ・・・。太田といっしょに三沢高からプロの世界に飛び込んだ東映・八重沢のノートにはこう書かれている。このノートには一年間のファーム暮らしでのプロのきびしさに触れて感じとった体験談や、先輩の打撃フォームの切り抜き写真がびっしりつまっている。いまの八重沢にはもう同期の友人の人気に動揺させられる甘さはない。連日舞い込んだファンレターもほとんどこなくなった現在、ただひたすらめざすのは地力の戒めだ。二十九日現在、7ホーマーを放って問矢(ロッテ)と並んでイースタンのホームラン王。「どうしてこんなに飛ぶのかわからない。ただバットをいっぱいに持って鋭く振ろうとしているのがいいのかもしれない」昨年は常にバットをひとにぎりあけていたが、ことしになってフォームをかえたのは例のノートのヒントからだ。写真を見ると一流といわれる打者はみんなバットをいっぱいに持っている。よし、これだ、と思ってやってみたらうまくいったという。高木コーチはいう。「天性のリストワークにさらにタイミングのとり方がよくなった。だから飛距離が出る」しかし杉山二軍監督は「本質的には中距離打者。シュアな打者に育てたい」と一発をねらって振りまわすことを強くいましめている。ファームのホームラン王の一軍への道はどうだろうか。「打撃は使える。しかし守備が問題。一軍には大下、佐野、末永と守備の名手が多い。出番は代打に限られるだろう。それならここでもっと攻守に力をつけた方が・・・」と高木コーチ。杉山二軍監督は「イースタンの成績はあくまでイースタン。技術的にはもう一軍だが精神的に耐えられるかどうか、あとは与えられたチャンスをいかにものにするか、あいつの運次第」と運を強調するが八重沢の闘志は日ごとに燃えあがっていく。「そんなに上(一軍)の人の守備がうまいとは思わないし、精神的にも十分ついていけると思う」ノートにはこう続くーおれは二度も甲子園に出た。運もある。チャンスを待ち力をたくわえておこう。一軍に行ったら二度とファームには来ないぞ。一気に飛び出してやる。
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岩木康郎

2016-07-30 15:55:07 | 日記
1969年

年棒一千万円をはるかに越える南海・野村とはえらい違いだ。年棒九十万円ぐらいといわれる岩木が出るようになってから近鉄の快進撃がはじまった。この男が先発メンバーにはいったときの近鉄は、なんと22勝4敗。三原監督が「孝行むすこ」といった話は、もう有名だ。自分のバットで勝利をきめたことはなかったが、この試合ではそれをやってのけて、文字どおりヒーローになった。「スライダーを失敗してファウルになったので、なんとしてもヒットを打ちたかった」ねばったすえの決勝打はボテボテの当たりでゆるく中前に抜けていった。なにがそんなによくて勝利を呼ぶのだろうか。投手陣は「考えもつかない球を要求してくる」と笑いながらも、そのリードにまかせている。岩本コーチは「強気の攻めが生きている。攻め口を読まれるようになったら苦しくなるかもしれないけど、それまでにまた一歩進歩させればいい」という。四月下旬から五月はじめにかけてチームが9連敗と苦しんだとき、児玉、木村に代わって起用された。苦しまぎれから生まれた正捕手ともいえる。がむしゃら。チームが弱いときマスクをかぶっていないので、コンプレックスがあまりないのもこの男の財産だ。ナインに「チビ」と呼ばれる小物選手(1㍍70、70㌔)だが、研究熱心はすごい。この日も先発の清がKOされると、一回の攻撃が終ったときロッカーまで帰ってきて「スマン」と泣きだしそうな顔。得津に右中間三塁打された場面で、阿南が「あそこはカーブでかわす手もあったな」というと、考え込んでいたが「もう一球ついたれ」と内角速球のサインを出したそうだ。生まれてはじめての連日の試合出場で生キズがたえない。死球を受けた右手甲ははれているしスパイクされた右足親指のツメは浮きあがったままだ。浪速高出の六年生。昨年までは「カベ」といわれるブルペン捕手だった。野球にみきりをつけて競輪選手に職業がえをしようと真剣に考えたこともあるし、シーズン・オフには小づかいを用具代をかせぐためにデパートの荷物運搬のアルバイトもやった。一流選手になるためには、一流の道具を使いたいと考えて、年間二十万円の用具代を使う。昨年までの年棒は月給五万円の勘定で六十万円。ほかに用具代として月額五千円の計算で六万円をもらっていたらしいが、とてもたりるわけがない。「いろいろ引かれて月給袋に三千円しかはいっていなかったこともある」そうだ。年棒の査定をやる中村常務は「ことしはうんとあげてやりますよ」といっている。やっとバイトをやらないシーズン・オフを迎えることができそうだ。
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奥江英幸

2016-07-30 15:26:13 | 日記
1971年

大洋は十七日午後一時から東京・千代田区丸の内の球団事務所でドラフト二位指名の日石・奥江英幸投手(21)=1㍍80、75㌔、右投右打=の入団を発表した。これに先立ち、契約金八百万円、年棒百六十万円(いずれも推定)で正式契約。背番号は未定。同投手は岡山東商から日石入社と、平松の後輩。日石では三浦のかげにかくれていたが、ことしの都市対抗で電電東京を相手に九回を四安打の1点に押えてプロ関係者の目にとまった。巨人・山内投手に似たすなおなフォームで、ことしは二十三試合に登板して8勝をあげている。大洋では三菱川崎の井上(ロッテ一位指名)に負けないスピードを評価して、即戦力として期待している。同投手は一月四日に合宿入りし、二十一日からの自主トレ―ニングに参加するが、先輩平松といっしょに新年早々から鎌倉でトレーニングを始める。

奥江投手「先輩の平松さんに追いつくようがんばりたい。とくにていねいなピッチングを身につけたい。バリバリ投げられるとは思わないが、自信のあるストレートをみがいて、マウンドに立ちたい」
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ニコラス

2016-07-30 13:55:21 | 日記
1971年

西鉄・ホセ・V・ニコラス外野手(31)の評判がいい。といってもまだ試合には出ていないが、来日以来の練習を見て稲尾監督ら首脳陣は「後半戦の楽しみが出来た」とよろこんでいる。二十二日、小倉での東映戦は雨で流れたが、このゲームで五番、ライトでデビューするはずだった。20勝にも達していない西鉄にどれだけの貢献をするか。「アルトマンやロペスが活躍しているそうだがオレの方が力は上だ」入団の記者会見でちょっとミエを切ったが、その後はあまり大きな口をたたかない。しかし、外人選手が必ずいう「日本の投手は変化球が多い。コントロールがいい」というありきたりのほめ言葉もいわない。すました顔でいう。「野球に変りはないじゃないか。ストライクを打てばいいんだろう」デトロイト・タイガースのファーム3Aトレドで「若返り」の方針からはみ出した。別に故障もない。青木代表と稲尾監督はニコラスの話になるとニコニコしだす。来日までは「いまごろくる外人なんてあてにならん。バクチだな」(稲尾監督)「ことしはテスト期間。活躍ぐあいによって来季の契約を・・・」(青木代表)といっていたのとはえらい違いだ。こんな状態だったから、条件も契約金こみで約五百四十万円ですんだ。任意引退したボレスを打ち切った今シーズンの参か報酬をあててもおつりがくるそうだ。平和台での練習中、外野で短距離競走をやった。パートナーはチームでもトップ・クラスの俊足の橋野。スタートで出遅れたニコラスは途中からダッシュして追いついた。「俊足の外人は珍しい」そのときのナインの一致した意見だった。バッティング・フォームは極端なクローズド・スタンス。手首が柔かく、レベル・スイングだからライナーがとぶ。関口コーチは「でっかいのはとばないが、二塁打や三塁打が多いだろう。外野の競争が激しくなり、刺激剤となる」という。東田、高橋二、ポインター、阿部らとのポジション争いは見ものだ。ドミニカ生まれの独身。福岡市内のホテル住まいをしているが「ステーキがうまくて日本人は親切だ」と生活には満足している。目下、地引き片手に日本語の練習中だが、最初に覚えたのは「コンニチハ」つぎがお金の勘定で、三番目が「オンナ」独身の外人選手はヒマをもて余して遊びすぎ、コンディションをくずす例が多い。首脳陣がいま心配しているのは、この点ぐらいのものだ。西鉄は案外いい拾いものをしたのかもしれない。
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永淵洋三

2016-07-30 12:51:28 | 日記
1969年

投げて、打って、守る。昨年は一人三役と話題をまいた。ことしは打者一本やり。三原監督はその積極さを買う。1㍍68の小さい男が早いカウントからどんどん打っていく。投手に向かっていくその積極さだ。フル・カウントまでいくことはめったにない。一回の先制打、五回の決勝ホームランと2打点をあげ、三連勝の原動力となったが、一回は0-1、本塁打は1-3から打っている。「最初のストレートなら打つつもりでした。だから打っただけの話。ホームランは初球ストライクのあとボールが三つ続いたので、実は打席でイライラしていたんです。ふつうならもう一球待つところでしょうが、ぼくにはそんなことはできない。だから打ってやろうとねらっていたんです。真ん中のまっすぐ、おそらくカウントをとりにきたんでしょうな」待つのに耐えられない。ファウルでねばってフル・カウントからの好球をねらうなどという、ねばっこい感じは永淵にはクスリにしたくもない。「一般的には待つということは消極的なのではないでしょうか。私自身、そんなのがいやなんです。だからぼくは四球が非常に少ないですよ」近鉄は二十試合を消化したが、永淵の四球はたった四つしかない。昨年も二百七十打数、二割七分四厘の記録を残したが、歩いたのは二十二度。ランニング・ホーマーの話になると「打球が白の上を越したときは、正直いって三塁打かと思ったんです。だから三塁でちょっととまったんですよ。ところが、ふと見ると伊香コーチが手を振っているものだから、また走り直しです」本塁を踏んだときは息が切れて死にそうだったと笑う。「いまはよくバットが振れている。ボールもよく見えるし、いまのところスランプはまだきていないようです」小さいからだだけに「バテ」が一番心配なのだ。その対策は?という質問に「スタミナ食と睡眠とビール二本」と即答した。ほうっておいたら一升ビンを二本くらい軽くあけるそうで、そのへんから「アル・カポネ」などといわれる。そんな豪快な男がビール二本というのはさびしくなるような話だが、これはどうやら外づらだけのことらしい。「プッツリと酒をやめてビール二本」と発表するほどからだに気をつかっているというのだろう。「これで去年の五本と同じ数の本塁打になった。こんなとき人は予定数終了などというでしょうが、ぼくは背番号(10)くらいはいきたいと思いますよ。二年目ですし、ことしにすべてをかけているんですよ」小さい男が胸をはってそういった。
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大脇照夫

2016-07-30 12:12:42 | 日記
1956年

今季初のノーヒット・ノーランを演じた国鉄の大脇投手は「ほとんど佐竹さんにまかせっきりでしたが、前年落ちるボールが外野へ飛ばなかったこととインハイへのストレートがよく伸びていたことが好投の原因です。後半はスライダーが思うところに入りました」投球数80、中日打線があせっていたとはいえ30打席のうち四球2、内野ゴロ16、内野フライ7、そして外野へ飛んだのはわずかに5球。堂々たるプレーさばきである。「七回に安打で一塁へ出たとき西沢さんにノーヒットだよ。といわれてはじめて気がついたほどで意識しなかったことがよかった」といっている。今シーズン一度も勝ち星をあげていなかった大脇は初の一勝をそれも地元(名鉄出身)でノーヒット・ノーランという金星をあげて実にうれしそうだった。
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種田弘

2016-07-30 11:54:59 | 日記
1956年

九回必死に防戦する毎日に古川が左前安打。代わった荒巻から左中安打して決勝点をたたき出した代打の伊勢川、ベンチに帰ってくるなり「内角に攻めてくるんだと思いバットを短く持っていたが案の定・・・」とつぶやく。西村監督が「よかった」と興奮している。これで阪急は毎日を六連破、三位をがっちりと守った。毎日を八回まで三安打に抑えた種田投手はこれで毎日戦は六度目の登板、そして三つ目の白星。京都鴨沂(おうざ)高ー大洋ー西京観光ー阪急だが、二十五、六年の大洋時代はほとんど二軍ですごしたので昨年阪急に入ったルーキーと思ったファンがたくさんいたほどだ。度胸もよくコントロールもいい。昨シーズン終わりに沈む球をマスターしたことが今年の進歩の原因となった。彼のピッチングを伊勢川は「変化球のコントロールがいい。どう変化するかはいえないよ。沈むシュートがいいんだな」と説明する。本人は「監督さんから毎日だけを研究しておけと言われています。シュートの調子がよかったが後半はカーブに切り代えました。小森さんに打たれたのはシュート。今年はどうやら一人前になれそうです」と顔を赤らめる。「マウンドでブラブラして間をとってから打者を迎えタイミングをはずすコツをよく研究している」と井野川コーチがつけ加える。試合後ナインに遅れて山下捕手とユニホームのまま宿舎に引き揚げる種田が群衆の中にまじって歩いている。「あの阪急の選手はだれだろう」彼の顔を知っているファンは案外少ない。この調子で不なれな相手を変化球で処理していくのであろう。二十五歳、五尺八寸、十七貫五百、右投右打。
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梶原宗弘

2016-07-30 10:44:43 | 日記
1954年

九州の東洋高圧大牟田というチームは二十五年に結成され、まだ一度も後楽園に出場したことのない所属チームだが、不思議によい投手が生まれ、そして毎年必ずエースはプロにぬかれている。初代の主戦大神が二十六年南海に引っ張られたのをはじめ、二十七年に江上が南海(昨冬退団して現在日鉄二瀬)二十八年には河村が西鉄に、そして今年の梶原と四代もつづいている。梶原ははじめ外国航路の船長を夢みて戦争末期の二十年三月、佐世保中学を卒業すると神戸の高等商船に入学したが、終戦で海外航路の夢は断たれて退校、郷里に帰って青木産業に就職、そこの軟式野球チームで初めて投手としてボールを握り、現在高橋球団の五番打者島田外野手とバッテリーを組んだ。二十五年西日本パイレーツの結成と同時に入団、本格的野球選手生活の第一歩を踏み出したが、一度も登板せぬどころか、ついに登録もされぬうちにチームは解散。セミプロ山陽クラウンズに入ったが、これまた二十七年半ばに解散したため野球から離れた時たま軟式野球をやる程度だった。二十八年春九州大会が島原で開かれたとき、地元から一チーム出場することになって急ぎ全島原が結成され、彼もかり出された。一回戦東洋高圧と対戦、もちろん練習不十分の島原は大敗したが、彼のクセのある球質が高圧根本監督(早大OB、元名古屋、中大監督)の目にとまり引っ張られた。高圧では根本監督がつきっきりでコーチした甲斐あってメキメキ上達、たちまちエース夏の予選は強豪八幡の前に屈したが、秋の産別大会には化学肥料部門代表全東洋高圧(北海道砂川、大牟田、彦島の三チーム合体)の一員として出場、一回戦全藤倉の試合に登板完投している。十一の四死球を出し3-0で敗戦投手となった。「雨上がりでグラウンドが軟弱、ステップした左足の踏みきりがきかず、腰が不安定となって、回転も思うにまかせなかった」梶原は下手投げだが、スピードもあり、球道にクセがあって面白い投手である。純粋のアンダースローではなく、どちらかといえばサイド気味、五尺七寸、十七貫五百、胸幅も広く、腰も大きい下手投げとしては珍しく体格に恵まれているが、そこが彼のピッチングの生命となっている。高圧時代からの先輩大神とは全然逆に腰を生かした力強いピッチングで、浮きあがってくる速球は重味があり、変化の多いシュートは相当打者をなやますだろう。特にいい球はカーブで、打者の手もとに来て浮きあがって曲がるのでなかなか打ちにくく「バットのうえにあたってフライになる事が多い」と南海の強打者達がこぼしていた。下手投げ投手は共通してカーブに威力がないものだが、たしかに毛色の変わった投手だ。オープン戦では二、三イニングずつだが五回登板、三月二日の広島三回戦には勝利投手となっている。二十七歳、背番号35

東洋高圧大牟田監督 根本行都氏
梶原はプロに籍をおいたことがある選手だそうだが、全然野球は知らず、ウチでピッチングのイロハを教えたほどだ。私は彼の腰が強いことに目をつけてその腰を生かすように下手から横手に変えさせたのがよかったのだろう。シュートが大きくなったし、変化が出てこれが最大の武器となった。カーブは下手からだが、浮きあがって打者のタイミングを狂わしている。ただサイドスロー投手共通の欠点であるコントロールは十分とはいえず、特に前半荒れる。制球力とピッチングを一日も早くマスターすることだ。
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福島郁夫

2016-07-30 09:43:12 | 日記
1956年

十三日の東映対高橋八回戦で高橋を二安打に完封した東映の福島郁夫投手(20)は今年でプロ二年生。非力ながら速球、シュートとすばらしい出来ばえでこれからの公式戦にも大いに米川を助けそうだ。昨年熊谷高から入団、今シーズンの登板はこれで五度目だが、この日初の完投勝利投手となり三勝一敗。東映ではエース米川に続いての勝星をあげている。さる六日の対高橋六回戦にも勝利投手となったが、七回で海野にバトンを渡しているので、この日も「七回になったときこの辺が限界かと思った」そうだが、それまでの彼はスピードも豊かにインコーナーへ鋭く落ちるシュートをきめ、六回一死佐々木に中前へ打たれただけの一安打である。「真ん中をやや高目へ入ってしまって・・。打たれたのは当然です」この佐々木に九回にもふたたび安打されているが結局許した安打はこの二本だけ。「六回までノーヒット・とは知りませんでした。はじめから力を配分しようというつもりなどなく、投げられるまで投げるつもりでした。きょうは涼しかったので疲れは感じませんでしたが、暑いのはニガ手です」とこれから夏場に向かってうんざりしているという。しかし彦根での対大映六回戦に「盲腸のあたりが痛んだが投げてるうちに治ってしまった」というように細い体(五尺六寸、十七貫)に似合わぬタフなところがある。入団当初は生まれ故郷の秩父からはるばるバスで後援会が球場にくりこんできたものだが、今シーズンはこの後援会の人達の期待に十分こたえられそうだ。
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小畑正治

2016-07-30 09:24:02 | 日記
1956年

勝利のきまった一瞬、飯田は喜びをおさえ切れないようなかっこうでエッサエッサとセンターからかけつけ小畑の肩をガッシと撫ぎすくめた。マイクを持ったアナウンサー、報道陣、幾十人かが二人をとり囲んだ。カメラマンの注文も二人にはしばし聞えない。やっと我にかえった飯田は「大友君とはオールスター戦以来会っていないが、あのときのスピードとくらべたらきょうはまるで人が変わったようだ。ぼくが打ったホームランも真ン中を外角へ流れるスライダーでいつもの大友君なら打っても当然ライト方面にしか飛ばないコースだった。それがレフトへ引っぱれたんだからな。おまけにあの直前監督さんが一塁側のコーチャー・ボックスで二段モーションじゃないかと大友をけん制してくれたし、そんなことが重なって打てたのだ。死球?大丈夫さ。ぼくがヒーローになるって?冗談じゃない。こいつだよ」と小畑の肩を強くゆさぶる。ずんぐりむっくりした小畑はだまってその言葉を聞いている。「きょうの審判はセの島さんでしょう。セはパにくらべるとボール一つだけ低目のストライクをとるということを試合前監督さんから聞いたのでそれならその低目で勝負してやろうと考えていた。ところが一回トップの南村さんの1-2のとき低目いっぱいにきめたのだが島さんがとってくれない。変だと思って松井さんに聞いてみて下さいと頼んで松井さんに聞いてもらったら島さんは球一つ低くまでとるというようなことはないという返事。それがわかれば苦労して低目へボール・カウントを悪くしてもしようがないと思いカーブを多投した。それが適当に高目に浮いたり、あっちへいったり、こっちへいったりしてコントロールが悪かったのがかえってよかったと思う。千葉さんの顔を見ると急にストライクが出なくなるのにはユウウツだった」という。若い若いといわれながらプロ四年生。一昨年も日本シリーズに出場して六回まで2-1とリードしていたが後半逆転されたという経験もある。呉三津田高出身、巨人広岡選手の後輩に当たる。五尺六寸五分、十九貫五百、趣味はまったく何もない。二十三歳。
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円子宏

2016-07-30 09:00:58 | 日記
1955年

南海の新人円子投手は対大映十六回戦に勝利投手になり12勝1敗。その勝率九割二分三厘は両リーグ最高で、その健闘は南海の「首位」に大きく貢献している。彼のピッチングを小西得郎氏はこうみる。「外角低目の速球がスライダー気味によくのびるし、打者の肩口から内角低目へ落ちるドロップが大きく、新人の中では図抜けた投手といっていい。とくに外角低目の速球はA級だ。欠点はシュート、とくに落ちるシュートがないことだろう。だが外角直球とドロップのコンビネーションがいいから日本選手権で相見えるかもしれない巨人の打者も中村、円子あたりの継投には注意する必要がある。
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島本講平

2016-07-30 06:03:21 | 日記
1971年

南海・高野線の中モズ駅からなんば行きの電車に乗り込んだ一人の青年。その右手には、ハンサムでスマートな姿とはおよそそぐわない鉄のかたまりがぶらさがっている。5㌔の鉄アレイだ。じろじろ見つめる周囲の目も気にせず約二十分間、どんなに空席があっても立ったままだ。南海の星とさわがれた島本選手の最近の毎日である。二刀流から打者一本でスタートした島本の野球人生は、もう二か月になるのにまだつぼみもついていない。ファームでの成績は八十六打数二十二安打、二割五分六厘、本塁打一本と期待されたほどではない。「右腕の弱さが一番の欠点だ。このため打球にも鋭さがなく、内角球にはほとんどつまってしまう」という岡本二軍監督。その右腕のパンチをつけるために考え出した鉄アレイ持ちだ。「こんな格好の悪いこと出来るかい。いっそのことドブに投げ捨ててしまいたい」と何度も思ったそうだが、しかし、そんなことではバッターとして生きていくことは出来ないと考え直した。いまでは「鉄アレイを持って歩く自分の姿が誇らしく思えてきた」という。しかし、外野か一塁かまだポジションも決まっていない。大阪球場でのゲームには全部ベンチ入りさせるという球団の方針もいまは「じっくりと育てる」に変ってはずされている。ベンチ入りしたのは四月当初だけ。その間二試合に代打に出てノーヒット。阪急・山田には内角をピシャリと速球を決められ三振、近鉄・太田との対決は球威に負けて平凡な遊飛。「山田さんの下からピューンとくる球はとても打てる気がしませんでした。一からやり直しです。いまはガムシャラに練習するだけです。二軍といってもやはりプロは違います」言葉は少ないが、自分自身へのきびしさが感じられる。球団は「球をとらえるセンスは天性のものがある」(沼沢コーチ)長所を伸ばしながら、いまでもファンレターが日に二十通は来るという人気を考えて一軍ベンチ入りをオールスター後においている。鉄アレイを持って歩く島本、その苦労がいつ実るだろうか。
コメント
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