プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

金具洋右

2016-07-23 23:48:50 | 日記
1956年

阪急のみなれない左投手が七回まで大映を三安打、無得点に抑えた。メガネをかけたこのサウスポーは、金具洋右投手(24)である。八回一死、二塁に走者を残し、あとはベテラン柴田にまかせたとはいえ、低目にコントロールされた速球とカーブを一球一球ていねいにコーナーにきめ、なかなかのピッチングをみせた。「肩が重くて思うように球が行かなかった」とけんそんするがこれで今シーズン二つ目の白星。柳井高、八幡製鉄から阪急入りした二年生。昨年は二勝一敗、今年もすでにリリーフで高橋から一勝をあげている。「調子のいいときはカーブで勝負するのですが、とてもまだきめ球といえるかどうか」昨シーズンの終わりナイターで捕手のサインが見にくいので今年のキャンプからメガネをかける事にしたという。柳井高では増本外野手(現東映)らとクリーン・アップ・トリオの一員だったが、いまは練習不足のためかバッティングの方はまるで自信がなくなったのが残念だそうだ。先発、リリーフ、どちらでもいいから一試合でも多く投げたいというのが彼の希望である。
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中川隆

2016-07-23 23:37:57 | 日記
1955年

大映を二安打でシャットアウトした毎日中川隆投手(19)は彦根東高から昨春入団した。二十八年春の全国選抜高校に出場、一回戦で小倉高に敗れたがフォームの美しさに若林球団副代表(現トンボ・コーチ)がほれこみオリオンズ入りとなった。昨年はほとんど二軍にあって、若林氏のコーチを受け公式戦では六試合に登板(完投は一回)して一勝(無敗)しただけ(防御率4・56)今年はキャンプのときから好調を伝えられ、すでに四勝一敗(十二日現在)を記録している。オーバーハンドからの外角速球とスライダーが武器。二、三日前から原因不明の三十七、八度の熱がづつき去る十日の対大映四回戦に山根投手を七回にリリーフしたが、五安打をあびてKOされ逆転負けの因となった、みごとそのアダを討ったわけである。「きょうも熱があり試合直前まで登板するとは思っていなかった。最近投げているフォーク・ボールで勝負しようと一回これを多投したところうまく落ちないのでチェンジのとき捕手の沼沢さんを相手にフォーク・ボールばかり二十球ほど投げたところこれが案外効果があり、以後は打者ごとに一、二球のわりでフォーク・ボールを投げ成功した。ノーヒット・ノーランはむろん意識してました」という。大映藤本監督は「中川君にとっては最上の出来であったろうだがヒット二本しか打てなかったのはウチの打線がふがいないからだ。彼のフォーク・ボールはボールが斜めに回転し普通のフォーク・ボールのように真下にポンと落ちず幾分斜めにそれてスライダーのような威力をもち合せているのでたしかに打ちにくいこともあるが、ウチの選手にももうひと工夫欲しかったところだ」と中川のピッチングをみている。五尺七寸、十六貫五百、右投右打。
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戸田忠男

2016-07-23 23:23:41 | 日記
1956年

杉下の意外な不調から同点とせまられた中日五回の攻撃、ギッシリうずめつくしたスタンドがわきにわいた。右翼の黒い観客のかたまりがサッとひらく。背走を重ねた大津が金網にとびついてグローブを出したが、その上をはるかにライナーでとび込んだ。これが中日の決勝ホーマーとなった戸田の一撃である。その球の行方を眺めながら戸田はゆっくりベースを一周。めったに感情を面に出さない三塁コーチの野口監督に片手どころか両手をとられてふりまわされ、ホームでは待ち受けたナインにもみくちゃにされた。ベンチに入った戸田はまず冷たいお茶をぐっと一気に飲みほす。「1-1後の3球目、内角高目の一番好きなコースだった。一球目は内角低目のシュートでボール、二球目も同じような球で思い切り振った。ファウルになったが気持よく腰も、バットもまわったので打てそうな気がしていた。少しバットのにぎりをやわらかくしてすべり落ちるくらいにして打った。もちろんホームランなんて夢にも思っていなかったが」感激に声も少しふるえている「五回の阪神の攻撃のとき、監督さんが代打に出ろといわれたので控室の大鏡の前で三十本ばかり素振りをやった」という。研究熱心なことは中日の中でも定評がある。二十九年豊川高から入団。二年間ずっと下積生活を続けて今年で三年目である。昨年は新日本リーグで最高殊勲選手となってそれから自信をつけたそうで今年のキャンプで野口監督が中、川崎同様この戸田を買っていた。ただゲームになってから気の弱いところが出るというのが唯一の欠点(近藤二軍監督談)であったが「今夜は非常に落ち着いていた。前の巨人戦(十七日)に別所さんの球を三塁打したが、あの方がかたくなっていた」と殊勲の本塁打賞をもらいながらニコッと笑う。今年はこれで五試合目。安打は別所から打った三塁打とこの夜の本塁打二本だけ。「守備位置がはっきりしないんです。入団したとき一塁。それから外野を回り、また一塁とかわり方が激しいんです。これがいま一番の悩み」だそうだ。五尺七寸五分、十九貫、右投左打、二十歳。子供子供した青年である。
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富島五郎

2016-07-23 23:07:54 | 日記
1956年

南海のベンチへ行くと赤っぽく日にやけた見なれない選手が目についた。背は五尺七寸とあまり大きい方ではないが、体重は二十貫二百。その背中いっぱいに大きな37の背番号をつけていた。これが土浦三高から今年入団したばかりの左投手、富島投手。二十二日の対毎日十四回戦に思わぬ伏兵として好投、すでに五度登板して一勝一敗。試合前の山本監督は「ウチの打撃はきょうは晴だと思っているとあすは雨になる。こんな状態だからもうやけくその試合運びだ」とじょう談半分にいっていたが、まさかやけくそで出したわけでもなかろうが、その富島はよく投げた。ちょっとつかみどころのないようなぼうようとした顔つきで、おめず、おくせずドロップを投げて毎日打線を抑えた。立ち上がり小森、別当というベテラン打者を連続三振にとる上々のスタートで、六回長光と代わるまで二安打を許しただけ、一人も二塁をふませなかった。野村選手は「スピードがいつもよりなかった。とくにいいできとはいえない。ドロップはよくきまった。それと右打者の内角にくい込む直球がスライドして、なかなか効果があった。毎日の打者が最初ボールをよく打ってくれたので助かった」といっている。富島の名は五郎。そのため合宿ではゴロといわれ、感じが牛のようだというので「ウシゴロ」ともいわれている。本人はそれをいやがって「ぼくの名はイツロウです」などと抵抗したりするそうだ。「高校生のときからいまと同じようなピッチングだった。ドロップのコントロールがついたのだけがかわったところ。いまの試合のスピードはふつうだった。別に苦しいときもなかった。毎日は二度目だが、山内さんが出てくるとやはりこわいです」と二勝目をあげたというのに別にうれしそうな顔もせずボツリボツリと重い口調で話していた。
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阿南準郎

2016-07-23 08:12:35 | 日記
1968年

「カマちゃん、ここらでいっちょう年寄り同士で勝負を決めようじゃないか」阿南は鎌田にささやいたという。鎌田は一、三球目にバントをやり、わざとファウルにして十イニング目にはいった池永をじらした。そのあと三遊間を破ったが「あまり打てそうな気がしなかったので意地悪をした」のだそうだ。三十路の鎌田と三十一の阿南の呼吸がここで合う。「シュートのかけそこないみたいだった。内角のいい球だったよ」阿南の左中間を抜いた打球で鎌田がかえった。いま一つ見のがせないのは一塁の岩本コーチのところに一球目がきたあと足を運んだこと。「いや、なんでもなかったんだ。池永にポンポンと投げさせたくなかったからね」池永は合計六十一歳のベテラン二人の知恵にやられたともいえる。この阿南、このところフル回転だ。遊撃の安井がケガ(左手首打撲)しているので本職の三塁を若手に譲って遊撃をやったり、二塁の守備にもつく。一週間に七試合やるようなハード・スケジュールではフル出場は四回ぐらい、と三原監督がいったこともあるのに、年齢を忘れたような活躍ぶり。「疲れないといったらウソになる。チームの調子が悪いときなんで、いけるとこまでいくよ」とめがね越しに笑う。プロ野球の選手には珍しく趣味は読書。移動の汽車や飛行機の中では静かに本を広げる。石川達三のファンだそうだ。チームの状態を分析してこういった。「集中打が出ないのが苦戦の原因やね。ヒットが途切れるということは本調子ではない証拠だ。最低のときになんとかこうして勝っているのだから、これからは徐々にのぼり調子になっていくだろう」そうすれば10連勝ぐらいまででもいけるだろうと冗談。昨年までとの違いは負けたときの気持ちだそうだ。「去年は、ああ負けたか、でみんな終わりだった。ところがことしは負けたときのくやしさを、あすの勝利のために生かそうとみんな真剣だよ」若い力がつまずいているいま、ベテランの活躍で勝った意味は大きい。「たまにこんなこともないと・・。だってぼくはまだ三十一歳の若さなんだから、これからまだひとあばれしようと思っているくらいだもん」優勝出来るかどうか、の質問には「そんなことに答える時期じゃない」とあっさりいったが「残り五十試合ぐらいを、とにかく全力でやっている」と結んだ。
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