プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

ホイタック

2016-07-03 21:24:22 | 日記
1965年

野球選手というより映画スターといった方がピッタリする。だが野球にはたいへんな自信をもっている。二月一日、アスプロの紹介で中日のテストを受けるため来日したときも「はじめから自信がなければ日本にはやってこないよ」もっともこの日ばかりは気が弱かった。四回を投げてロッカーに引きあげてきたときの最初の言葉は「ああ、恥しい」だった。コントロールが乱れ、おまけに木俣のサインをまちがえキャッチャーを右往左往させたりもした。三十七年にデトロイト・タイガースの一員として来日、大洋を完封したが、いまでも強烈におぼえているのは、日本選抜チームとの試合で南海の野村に本塁打されたことだそうだ。「あれはストレートだった。野村はいい打者だが、こんどは得意の変化球で打ちとってやる」前日からホイタックはりきんでいた。ところが力ばかりはいって腕がいうことをきかない。散々のピッチングをホイタックは技術的に解剖した。「ケニー(アスプロ)からフォームが変だといわれた。確かに思い切って投げようとするため、腕だけにたより、からだがうしろに残っていた。突っ立ったままで投げていたんだ」という。マウンドにもケチをつけた。「アメリカのマウンドはもう少し高く、真上から投げおろせるので投げやすい。ここは平らなのでまだ感じがよくつかめてないんだ。もちろん、そんなことはいいわけにはならんが・・・」南海ナインの目にうつったホイタックは悪くなかったようだ。野村は「ボールは決しておそくない。それより捕手が悪い。パスボールのこともあるが、なにかピッチャーに不安を感じさせるキャッチングが悪いんだ。まだからだができていないからわからんが、10勝くらいはできるんじゃないか」と採点する。中日の首脳陣も「ピッチングをはじめてから十日ほどしかたっていないのでムリだろう。変化球もいいし、これから投げ込めば絶対やるよ」と、むしろ明るい表情だ。帰りじたくをしたホイタックはまたもとの強気にもどっていた。「これで感じがつかめたのでもうだいじょうぶ。こんどのピッチングを見てくれ」とウィンクした。ホイタックは相手がチャンピオン南海と聞かされて緊張したのか動きがぎこちなかった。腕だけで投げている感じで体重が軸足に残り、スイフトはほとんどすっぽ抜けて高めに浮いた。技巧派にしてはコントロールがなく、速球もカーブもストライク・ゾーンを大きくそれていた。カーブの曲がりぐあいは相当シャープなんだが、打者が手を出したくなるような球は、二つくらいしかなかった。四回投げて失点は2でとまったけれど、二、三、四回は四球や安打で走者を出し苦しみどおしであった。得意だというナックルも二死後、投手の高橋栄に投げたのがひとつ決まっただけ。ムダになる球が多くて打者を苦しめるどころか、逆にカウントを悪くして自分が苦しむありさまだった。しかし速球はかなりいい。カーブも大きいから問題は制球力だ。手先で投げるのが彼のピッチングのフォームとすれば、制球力に期待はもてないのではないか。がむしゃらに向かってくる打者はひっかけられるかもしれないが、待ってでる打者、目のいい打者には弱い気がする。
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高山忠克

2016-07-03 20:50:12 | 日記
1964年

オニの砂押といわれる砂押コーチが少年のファイトにシタを巻いた。もう何百本ノックしたろうか。夕暮れが濃さを増す国鉄大倉山のグラウンド。だが少年は「もういっちょう」と球を追うのをやめない。一年目の高山の姿だ。「ノックしていても向かってくるファイトがよくわかる。長島もそうだった」と砂押コーチは入団当時の印象を語る。二、三日前、テレビのインタビューで金田についてこういっていた。「金田さんのことを天皇とか、勝手なことをしているとかいう人がいるが、金田さんを批判する人はプロ野球の世界で生活する資格がない。金田さんの練習量はだれよりも多く、だれよりも充実している。ボクは尊敬しています」合宿の門限は午後十時半。一度も遅れたことがない。遅れるとバッティング練習の本数をへらされる。これがつらいからどんなことがあっても門限前に帰るのだ。昨シーズンは五試合しか出場しなかったが、広島球場で2ホーマーを記録したときのことだ。商品の中に電気マッサージの機械があった。どこにでもある平凡な電気器具を、わざわざ広島から宇都宮市にいる母親やすさん(60)へ小包で送った。からだが弱いため東京で勤めている父親の弥八郎さん(70)=滝野川信用金庫=ともわかれてひとり郷里の実家を守る母親に、少しでも楽をしてもらいたいという気持からだ。「栃木の冬は寒いし、おかあさんはからだが弱い。あの機械で肩のコリや足腰の痛みを少しでもとってもらおうと思って・・・。それにぼくのプロ入り初ホーマーの賞品ですから」ノックの鬼を驚かせた根性の持ち主にも、こんなやさしい一面がある。「ホームランした球?若生さんの外角ベルトへんのスライダー、満塁ホーマーは内角高めの直球です」グルリとまわりをとりまいた報道陣を見わたし、ビックリしたように答えた。昼寝とバットを買うのが趣味というだけに、この日の2ホーマーも「最初はウィルソンで240匁(900グラム)、満塁ホーマーは国産250匁(937グラム)です」といったが「若僧が外国製のバットなんてなまいきでしょう」と気がねしたようにつけ加えた。ロッカーには賞品が山積み。中からビールをよりわけ「小鶴さん、どうか飲んでください」と差し出す。「おれ、こんなに飲めるかい」「いやだいじょうぶです」と強硬だ。そんな押し問答を見ながら林監督はいった。「まじめで純真で礼儀正しい。高山はビールを小鶴君に譲ったのではない。口ではいいあわらせない感謝の気持ちをそれに託したのだ」帰りじたくを急ぐ高山の姿を見つめながら小鶴コーチはこう林監督の言葉や補足説明した。「まだほんとうの力で打っているのではない。夢中で打っているのだ。きっとスランプがくる。それも二度三度と。しかしそれを乗り越えたときにほんとうに高山は国鉄の中心打者になるのだ」首脳陣のあたたかいまなざしに見送られ、球場を出た。「おかあさんから電報が合宿にくるのです。ホームランを打ったときはいつもおかあさんは電報を打ちに郵便局へ走るんです」宇都宮の目抜き通りを郵便局に走るやすさんの姿が目に浮かんでいるようだった。高山忠克(ただかつ)作新学院出身、1㍍76、76㌔、右投右打、十九歳。
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高元勝彦

2016-07-03 09:02:55 | 日記
1976年

中日がドラフト五位指名した廿日市高の高元勝彦投手=1㍍84、85㌔、右投げ右打ち=の入団が四日決まった。同選手との初交渉は四日午前十時三十分から広島県佐伯郡廿日市町の同校で行われた。本人と柴田野球部長に、法元スカウトが交渉了解のあいさつをしたあと、午後一時に大竹市御幸町の高元家を訪ね、父親英彦さん(41)母親智子さん(41)、同選手の後見人である平田良紀さん(元廿日市高野球部監督)を交えて交渉、スムーズに入団の運びとなった。年棒百六十万円、契約金千三百万円(いずれも推定)。就職が内定していた三菱重工広島とは円満な話し合いがついた。高元は二年生の秋の県予選で崇徳の黒田(日本ハム一位指名)と投げ合って1-0で完封勝ちを収めている。内容は15奪三振と立派なもので、過去崇徳との対戦成績は1勝1敗。ことし夏の大会は準決勝で尾道商に0-3で敗れたが、六回までパーフェクトに抑えていた。1㍍84、85㌔の長身から投げおろす重い速球が武器。一試合平均13奪三振の本格派だ。「小さいころからプロでやるのが夢だったので、うれしい」と高校生らしく、素直に喜びを表現し「僕もタカマサさんみたいなスピードで勝負するタイプになりたい。崇徳の黒田君には負けない自信がある」ときっぱり言い切った。

父親英彦さんの話 就職が内定して三菱重工広島さんには迷惑をかけたが、親として最後は本人の希望をかなえてやりたかった。中日さんの話を聞いて安心して任せられる気持になりました。

法元スカウトの話 初交渉でこちらの誠意を受け入れてくれてうれしい。現在は荒削りだが、将来性は日本ハムに一位指名された黒田君(崇徳高)より上と期待している。
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