プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

ミケンズ

2016-07-02 19:12:52 | 日記
1959年

九回表一死二、三塁のピンチに近鉄ミケンズ投手が初登板した。マウンドへ上がったミケンズは、ウォーミング・アップ予定の8球より少ない5球を軽く投げただけで「OK」と球審をうながす。これには出川球審もニガ笑い。この日は打者三人で投球数は7。ミケンズは日本での初登板をかざれなかった。しかしあっさりしたもの。日本では全然聞いたこともない歌を口ずさみながら真っ直ぐにプロへとび込む。「打たれたのはちょっと口惜しかったけど、そんなにいつまでもくよくよしていないよ。それよりも試合に出られたことがうれしいね」通訳の瀬口氏の「ベンチへ帰ってきたときがっかりしているかなと思ったんですが、なんともないような顔をしていました」といっている。片目をつぶったり、耳を引っ張ったり、茶目っ気たっぷりの表情で話をする。「三人しか投げなかったので、日本の打者がどうだとはいえない。二塁打されたカーブ(山本八)は内角の一番悪いコースへ入っただけで、前の二飛(ラドラ)のカーブは外角を流れたいい球だった。日本の打者のことは全然わからないので、打たれても仕方がないな。しかしカーブ以外の球、たとえばシンカー、シュートならまあ大丈夫だと思うね」これが初登板の印象である。ボトラの白色とは違って、浅黒く、体もひとまわり小さい。「目は鋭く精カンな感じだ。ちょっとアメリカの映画俳優フランク・シナトラに似ている。それをいうとネバー・ハップンと頭からすっぽりと背広をかぶってしまった。

林コーチの話 「ミケンズはカーブがいちばん甘い。外角を攻めろといっておけばよかったな。スピードもあるし外角をついておればなんとかなっていたと思うね。山本(八)は走者がいるときはちょっとバットを当てるだけだ。きょうもうまくそれでいかれた。ラドラにはあちらでもミケンズが一枚上のクラスだから少しも心配していなかった」
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ボトラ

2016-07-02 17:56:30 | 日記
1959年

ボトラ捕手がはじめてマスクをかぶった。林コーチは「うまいよ。投手が若いし、言葉は通じないので十分リードも出来なかったようだけど、ウチの投手のクセさえのみこめばきっとやる」と満足そうにいう。いまのところ守備につく前に林コーチから相手打者の欠点を教えてもらっている。四回ラドラ、山本八に吹田が内野安打されたが、これは前日投げた同僚ミケンズにアドバイスを受けたもの。「内角を沈む球でつかせた。うまくいったんだがツイていないね」と大きくひとりでうなずく。相手をじらせたり、体に似合わず細かいプレーをする。吹田もちょっととまどった。サインは同じでもやはり言葉が通じないのでピンとこないところもある。しかし構えが大きくて投げやすい」といっている。ロッカーでミケンズと特製のサンドイッチを食べながらボトラは大きな声でしゃべる。「コーチャー(林コーチのこと)に聞くんだけど、ほとんどはカンだよ」とニヤッと笑いながら片目をつぶる。外人のよくやるおどけたしぐさだ。「日本の打者はなかなかうまいね。予想以上。きょうの牧野は大リーグでも通用するよ」とちょっぴりお世辞も忘れない。「日本の投手は小さいがいろいろな球をもっている。のんびりしてはいられない」とこれは真顔になっていった。ミケンズと違ってハンサム、そしてきれいな金髪、バスケットボール、ゴルフが好き。とくにバスケットボールの腕は相当のじまんらしく、テキサスのバスケットボール・チームにいたとき、ハーレム・グローブ・トロッターズを相手に1セットだけリードしたことがあるそうだ。
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西川克弘

2016-07-02 15:39:41 | 日記
1965年

ドライ・ボーイという入団当時、西川につけられたニックネームは、消えていた。「さびしがり屋でそのくせ強がり」そんなふうに変わった。入団当時はその強がりの面だけがでていた。二年目。ずいぶん変わった。「変わったんじゃない。これがぼくの地ですよ」と西川はいうが、一年間のプロ生活がすっかりおとなにしてしまった。「村山さんのようなダイナミックなピッチングをしたい」そういっていたのが、いまではバック・スイングを小さくコントロール主体のピッチングに変わりつつある。長谷川コーチのアドバイスもあったが、1㍍78、78㌔とプロの投手としては、あまり大きくない自分の体格を自覚したせいだ。「まだいまのフォームを完全につかみ切ってはいないんですが、昨シーズンよりいい感じで投げられます。これを自分のものにできれば、ある程度はいけるんじゃないかと思っているんです。いま哲学を勉強中です」テレながらそんなことをいった。「どんないいピッチングをしているときでも、ポテン・ヒットで得点につながることがあるんですからね」野球のむずかしさを哲学という言葉にして出したのかもしれない。長谷川コーチはこんなことをいっていた。「昨年はあまりいわないで好きなようにやらせた。ことしは違う。大事な戦力として計算にはいってるんだから・・・」一回終るごとに西川へなにごとかささやいた。「まだ、いまのところは八分程度の仕上がりぐあいなんだから、いろいろすることはたくさんあるよ。でも、きょうのピッチングには現段階として及第点をつけなければいかんな」長谷川コーチが合格点をつけたピッチングの内容は、五回投げて被安打3、奪三振2、失点0。だが、ベンチを出てきた西川は、しきりに首をかしげていた。「三振がどうも少ない。安打にはならなかったけど、いい当たりが多かった」のが、首をかしげた原因だ。「まだスピードが十分じゃないですね。でもオープン戦第一戦としては、この程度で満足しなければ・・・」自分にいいきかせるようにそういう。「二年目のジンクスというのがありますが、ぼくはなんとも思っていない。もっとも、それは一年目に活躍した人のいうセリフなのですから、ぼくとは関係ないけど・・・。かえってプロに慣れたから昨年よりはそのぶんだけ落ちついたピッチングができると思っているんです」その西川に、今シーズン10勝以上の勝ち星を期待している。投球フォームは非常になめらかだった。日南キャンプでなおしたといわれるだけあって、とくに球をはなす瞬間の鋭さは、いいものを身につけている。しかし、まだフォームが完全に固まっていないため、全力投球はさけていたようだった。その心配をはやくとも初回に見せた。玉造、城戸とともに外角をねらった球が内角高めにはいり、バットの裏シンに当てられた。昨年まだの西川なら、ここでむきになっていただろう。ところが、今シーズンは違う。無理な力を抜き、コントロール主体にしたピッチングで、パーマ、ロイにはスライダーとカーブを外角に決めてピンチをのがれた。それ以後、六回、羽里にマウンドをゆずるまで、西鉄・尾崎が四回で七十九球投げたのに対して、五十四球の投球数を比べて見ただけでも、コントロールを重点にしたピッチングをしていたといえる。一日も早くいまのフォームを完全に固めてほしいものだ。
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ベルトイア

2016-07-02 15:04:33 | 日記
1964年

二十五日阪神・ベルトイアの退団がきまった。二月二十日来日してからわずか二か月。妻子が病弱で日本の気候に合わないというのが理由だが、あまり打てないのでノイローゼ気味だったともいう。元大リーガーは真相を語らない。二十六日甲子園球場内ロッカー室に姿をみせたベルトイアは、東京遠征に出かける選手とわかれを惜しんでいたがやはりさびしそうだった。「一生懸命がんばって日本のファンの方々に恥ずかしくないプレーをおみせしたい」二月二十日ロデリー夫人(27)、カール君(3つ)、ルースちゃん(3つ)とともに羽田国際空港についたベルトイアは自信に満ちた口調でいった。そのときはまさか二か月後に突然帰国するとは思ってもみなかったろう。「ワイフや子供が病弱だ。日本の気候が合わないらしい」帰国の理由をそう説明しただけでそれ以上のことを話そうとはしない。二十六日「ちょっと買い物に出かけてくる」ロザリー夫人にいい残して西宮市浜甲子園のアパートを出かけていった。神戸に在留する知人へわかれのあいさつをするためだ。午後三時、あいさつを終えて甲子園球場のロッカーに姿をみせた。練習を終え、引きあげてくる選手につぶやくようにこういった。「ゲンキデ。サヨナラ」かたことの日本語。バッキーを先生に一生懸命覚えようとしていた日本語ももう必要はない。「いまはなにも話したくない。退団を決意した理由は奥井さん(新聞係)を通じてみなさんにいってあるはずだ。それ以外にはなにもない」そういってかたく口を閉じた。「元気でな」本屋敷にポンと肩をたたかれてやっと笑顔にもどった。「日本の野球?六十回ぐらいしかボックスに立っていないんだ。まだわからないよ」そういってノーコメントを連発する。元大リーガーというプライドがみじめな成績(一割七分五厘)にもろくもくずれさってしまったのか。球団は期待はずれの成績にがっかりしていたことは事実だが、途中で解約するような意思は持っていなかったらしい。ベルトイアは「退団の理由に成績なんて関係ないよ」というものの、その表情はみにくくひきつったようにみえる。村山、山内・・。練習を終え、引きあげてくる選手となんども握手をかわす。「ハワイの税関に知人がいるんだ。ハワイへ寄ったらよろしくいってくれよ」山内にそういわれてベルトイアの口からはじめて冗談がとび出た。「オーケー。幅が広いんだね。ヤマ(山内)さんの英語はなかなかすてたもんじゃないね。ベリー・グッド」「オレ、日本語はちょっとしかできんからね」笑いが爆発した。「スーベニール(記念品)」そういって村山が自分のロッカーへとんでいって持ってきた電機ひげそり機を差し出した。「サンキュー、サンキュー」握手した手を放そうとしないでまたこういった。「グッドラック・・・」まだなにかいいたそうに口をモグモグした。「帰国する前なら報道陣のみなさんの質問に答えられると思います。いまはなにもいうことはありません」そういって、またベルトイアは口をとざしてしまった。五月一日家族とともに羽田をたつ。
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三好幸雄

2016-07-02 13:54:08 | 日記
1965年

広島駅の五番線ホーム。大阪、東京、九州と約十日間の遠征に出かける広島ナインがいる。大石、池田、興津、藤井、山本・・・。その中に三好もいた。三好にとって初めて経験する一軍遠征だ。「そうだね。初めてだね。ファームの遠征にはなんども行っているけど・・・」ポツリとそうつぶやいて、なんの感激もないようにホームをブラブラしている。対国鉄戦(二月二十七日)東京戦(十七日)で先発、いずれも五回投げて失点零、被安打も東京戦の一安打だけという好投を見せて首脳陣を驚かせたときも本人はあたりまえといった表情をしていた。「あいつは新人かい?もう六年も七年もプロにいるみたいに落ち着いているじゃないか」国鉄、東京のベテラン選手が口をそろえてそんなことをいう。ゆっくりしたモーションから直球を低めへ決める。それにシュートとスライダーでアクセントをつける。「生まれつきスローモーなんですよ。ピンチになっても性格だからあまり機敏にはなれなくて・・・。感情をあまり表情に出すことはできないんです」マウンドではそんな性格がかえってプラスになることをまだしらない。西川、安仁屋と同期。二人がどんどん一軍で投げて成長して行くのを見てもすこしもあわてない。「他人は他人、ぼくはぼくだもんね。あわててもはじまらない」ライバルなんて興味がないといった答えが返ってきた。甲子園には三十八年徳島商のエースとして出場、一回戦で日大一高に敗れた。「そのときとくらべて自分のピッチングが特に変わったとは思いません。まっすぐとカーブとシュート、この三つしかないしね」ことしにはいって急によくなった点についてこういった。「コントロールがついたからでしょうね。特別直球にスピードがついたということもない。大きなカーブとシュートの沈むのと打者のふところへ食い込んでいくやつ、そんな球にコントロールがつくようになった」そういってから自分の意志をはじめて口にだした。「公式戦でなんとか1勝してみたい。小川(鳴門高、高校時代何度も対戦している)が一軍でバリバリやっていますからね」入団したとき、三好はめったに口を開いたことのない無口な青年だった。「それがことしはたいへんな変わりようなんだ。合宿でもガヤガヤ騒いでいる組にはいっている。そんな性格の変化がピッチングにあらわれてきているのかもしれない」上田コーチは三好のピッチングに対してそんな見かたをした。
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及川宣士

2016-07-02 13:03:50 | 日記
1965年

釜石市上中島生まれの生っ粋の東北っ子だ。ねばりがある。藤井スカウトにさそわれて東北高から大洋入りしたのはいまから四年前。月給は四万円だった。一、二年目はもちろんファーム専門、三年目の昨シーズンもついに一軍へあがる機会がなく、まだファームでも勝ったことがない。イースタン・リーグで0勝6敗。それが、この日一軍入りへの堂々たるきっかけをつかまえた。底力のある近鉄打線を相手に五イニングを投げ、被安打2。矢ノ浦、小玉、山本八などの一線級打者をかたっぱしから三振にとった。四回桑田のエラーがからんだ不運な1点さえなければ、そのまま続投、待望の勝ち星をつかんでいたかもしれない。及川は謙虚だった。「投げさせてもらえるだけで満足。一軍のマウンドなんてぼくにはもったいないみたいです。ストレート、カーブのほかにフォークボールを四、五球投げましたが、とてもコントロールがよかったので・・。みんな別所さん(ヘッド・コーチ)のおかげです」力の泣くような声でこれだけいうと、さっさとバスのうしろへもぐり込んでしまった。別所さんのおかげーこのことばはやはり昨年のオープン戦で高橋のいったことばだった。そのとき西鉄に好投した高橋はペナント・レースで17勝をあげて新人王になった。ファームでもまったくふるわなかったこと、フォークボールで好投のきっかけをつかまえるなど、高橋のとび出したときとあまりによく似ている。思い切ってステップを小さくし、この日の鋭いピッチングを引き出させた別所ヘッド・コーチは自信たっぷりにいった。「一昨年暮れ、大洋にはいってすぐ目にちたのが高橋と及川だった。必ずどちらも出ると思ったが、昨年は高橋だけが出た。あれは体力の点で高橋の方がやや上だったのだろう。ことしは及川も出てきた。必ずローテーションに入れてみせる」外野手の若手№1日下とは東北高の同期。正捕手の座をとった伊藤は二年先輩だ。三原監督も「これからまだまだのびる選手」と大きな期待を寄せている。しかし及川はどこまでも遠慮がちだ。「ぼくは投げているときほど楽しいことはないんです。マウンドにさえあがらせてもらえれば・・。まず1勝はしたいですね。あとはほかの人にチャンスをあげてください」おとなしいいい方だった。二十一歳、1㍍79、78㌔、右投右打。
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グリフィン

2016-07-02 11:56:53 | 日記
1963年

近鉄・ブルーム選手の紹介で来日した元3Aポートランドのウィリアム・グリフィン投手(28)=左投左打、1㍍83、80㌔=は十三日午後一時から藤井寺球場の室内練習場でテストを受けた。吉沢捕手相手に横手からシュート、カーブなど変化球をまぜて約百球投げた。吉沢は「球の回転が少ないので重い。ずっしりとくる」といっていたが、別当監督は「はじめてみたので実力がはっきりしない。これからじっくりみてみる」といっていた。一週間ほど二軍との練習でみたあと報告をきめる。同投手は昨年のスプリング・キャンプではナ・リーグ、コルツに在籍。そのあと昨年3AのPCLポートランドで3勝4敗の成績で自由契約選手になった。

グリフィン投手「アメリカでも雨が降って一週間ほど練習できなかった。旅の疲れもあるのでベスト・コンディションではない。あと十日もしたら満足なピッチングができるだろう。得意は速球。日本の野球については向こうでいろいろ聞いてきた。採用されたらバリバリやれる自信はある」
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