ドアの向こう

日々のメモ書き 

本当は見えてない

2005-09-08 | イーゼルのうた

 
  地域の文化祭が10月にある。会場利用者の作品を並べる。どれを出すか迷うところ、柿の絵が2点、年代を追ってもあまり進歩が見られない。(左は10号。洋梨のバートレットはラ・フランスの倍以上の大きさ。いただきもの。名前があっているかどうか) 

  昨日、道造の絵を見て葉書をもとめ、中学生と思えぬほどの完成度。はかなげだが本当はつよい、急ぎ足で生ききったと思える絵を目の当たりにした。 膨大なデッサン、スケッチは驚きである。

反省したことは、蛙は30年と言ったって月に2回では15年分。近頃、合間にデッサンすることもなくなった絵は、まるで、ぬりえである。恥ずかしくなった。

  文章を書いていると絵がまったく描けない。絵に熱中していると視覚だけが働き、文章が書けない。感覚は似ているようでなんか違う。 小出楢重画伯も言われたように…     

生意気に巨匠の気持ちが分かりました。 しかし楢重はそれぞれをうまくなし得た、そこが凡人にマネできないところです。いまはblogに夢中です。

 新聞紙のうえに広げた柿は7年前、6号。写真に撮り、周りを少しトリミングして、ナイフの柄が欠けた。

 今秋、 いまだ青い柿の実は、強い日射しに照らされて眩しそう。   

 赤く色づく頃、しっかり見てみよう。観ているふりして、ほんとうは見えていないと思うから。 よく観たり、見たうえで、心に感じたものを、出せればいいのだけれども

   道造の手紙の話はまた、 後で

コメント (5)
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