3週間続けてトップの写真は、私の日常の場であるバス停の風景になりました。長くて寒い冬を耐えた樹木が、春を迎えて芽吹き、その後9カ月経った今、落葉の季節を迎えて、また静かに土に帰っていく。毎朝、バスの到着を待つ間、樹木を見上げながら過ごしたこの1年が、幕を閉じようとしています。手許にあるCD「葉っぱのフレディー~いのちの旅」は、イタリア系移民の長男として生まれた米国の哲学者レオ・バスカーリア博士が書いた絵本が台本です。朗読を担当した森繁久彌さんも、ことし同じように土に帰っていきました。
中国大陸からやってくる黄砂のためか遠景がかすんで見えます。寒風吹き荒ぶ海辺の温泉で、私は首もとまでお湯に浸かりながら、日本海の荒波をぼんやりと見つめていました。夏の季節なら、むこうに見える砂浜からは、海水浴客の歓声が聞こえてくるんでしょうが、きのう日本海は荒れ狂っていました。
年末の土曜休日に、家内を連れて日本海に蟹を食べに行きました。時間に余裕があったので、地元の温泉に寄り道しました。旅館の内風呂から一歩外に出たところにある露天風呂は、客も疎ら。頭だけが異常に冴える、そんな風景のなかに身をおいて、過ぎていく1年のこと、来たるべき1年のことを、荒海を眺めながら、そう30分近くぼんやりと考えていました。
2009年という年も、あっという間に最終章を迎えました。仕事のことは別にして、私の精神生活を振り返ってみると、南方熊楠、柳田國男、相馬御風、いやいやそれ以上に鶴見和子さんの世界に、ぐうっと踏み込んだ一時期がありました。それが、9月に入って、須賀敦子さんと出会い、それまで読み進んできた「鶴見和子曼荼羅」全集をいったん閉じて、いま河出文庫「須賀敦子全集(全8巻)」に傾注しています。須賀さんより10歳ほど年上の鶴見さんが、米国留学でプラグマティズムの歴史観を学んだのに対して、須賀さんはフランス、イタリアに渡ってキリスト教左派の視点から人間の在り方を学んだ。切り口は違っていても、共に真摯に物事を見つめる視点は共通していて、私などは到底足元にも及ばない、そんな精神的な強さに、還暦を迎えようとする身でありながら、おおいに不足感を抱かせる。だから、気になってしようがないし、そこから何かを学びとりたい、学ばなければならない。そんな強迫観念のようなものに取りつかれている、そんな1年間であったような気がしてなりません。
須賀さんのエッセイ「ユルスナールの靴」を先週末の夜遅く、広島から大阪に向かう新幹線の中で読み終えました。ワインを飲みながら。....この作品は「ハドリアヌス帝の回想」など多くの小説を著したマルグリット・ユルスナールの人となりを須賀さんの視点から綴ったものですが、それまでのエッセーに比べて、須賀さんの、ものの見方と考え方のようなものが、ずいぶんはっきりと出ているように感じました。須賀さんの抱く歴史観・芸術観がベースにあって、かなり注意深く読み進んだように思います。
意外にも、ここにきて私のもう一人の心の師匠である塩野七生さんの作品に出会うことになります。現在中断中の「ローマ人の物語」29巻(終わりの始まり)の出だしがハドリアヌス帝だったからです。ここで二人が初めて私の目の前にぬっと現れた感じです。こんな調子で、今は日々の僅かな隙間時間を縫って、「須賀敦子全集」(3巻)を読み進んでいます。
そうそう。温泉から上がって、何気なく新聞を開いたら、記事下広告欄にBS朝日が贈る年末年始の番組が紹介されていました。そこで目に飛び込んだのが「イタリアへ、須賀敦子静かな魂の旅3部作一挙放送」の見出です。先日放映された最終章「ローマとナポリの果てに」の前に2作が昨秋放映され、今年に入っていちど再放送されていたようですが、前2作を見逃した私としては嬉しい限りです。今回は元旦から3日連続での再放送。ちゃんと録画しておかなければ。
こんな珍道中を繰り返しながら、今年もあと5日で幕を閉じます。きのうは日本海へ出かけましたが、きょう27日は午後、家内と京都国立近代美術館に出かけます。10月末から開かれている「ボルゲーゼ美術館展」の最終日なのです。ラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」を見たい。須賀さんのエッセイに登場する「聖マタイの召使」は展示されてはいないけれど、カラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」は自分の目で見ておきたい。あす28日は、「行く年の神恩を感謝し来る年の除災招福を祈願する納三宝荒神大祭」にお参りするために、宝塚の清荒神さんに出かける予定です。この取り合わせはなんとも滑稽ではありますが。そして、29日は植木屋さんに庭木のお手入れをお願いしているので、大掃除の日。30日は次男君と孫君一家を迎える、そんな年末年始の我が家の段取りです。その合間に読書と音楽三昧の時間をみつける。なんとも能天気な1週間になりそうです。
こういう次第ですから、このブログも、きょうが今年の書き納めとなります。この1年、「心の風景」にお越しいただきました皆さまには、貴重なお時間を頂戴したことに対しまして、改めて御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。皆さまには、どうか良いお年をお迎えください。
中国大陸からやってくる黄砂のためか遠景がかすんで見えます。寒風吹き荒ぶ海辺の温泉で、私は首もとまでお湯に浸かりながら、日本海の荒波をぼんやりと見つめていました。夏の季節なら、むこうに見える砂浜からは、海水浴客の歓声が聞こえてくるんでしょうが、きのう日本海は荒れ狂っていました。
年末の土曜休日に、家内を連れて日本海に蟹を食べに行きました。時間に余裕があったので、地元の温泉に寄り道しました。旅館の内風呂から一歩外に出たところにある露天風呂は、客も疎ら。頭だけが異常に冴える、そんな風景のなかに身をおいて、過ぎていく1年のこと、来たるべき1年のことを、荒海を眺めながら、そう30分近くぼんやりと考えていました。
2009年という年も、あっという間に最終章を迎えました。仕事のことは別にして、私の精神生活を振り返ってみると、南方熊楠、柳田國男、相馬御風、いやいやそれ以上に鶴見和子さんの世界に、ぐうっと踏み込んだ一時期がありました。それが、9月に入って、須賀敦子さんと出会い、それまで読み進んできた「鶴見和子曼荼羅」全集をいったん閉じて、いま河出文庫「須賀敦子全集(全8巻)」に傾注しています。須賀さんより10歳ほど年上の鶴見さんが、米国留学でプラグマティズムの歴史観を学んだのに対して、須賀さんはフランス、イタリアに渡ってキリスト教左派の視点から人間の在り方を学んだ。切り口は違っていても、共に真摯に物事を見つめる視点は共通していて、私などは到底足元にも及ばない、そんな精神的な強さに、還暦を迎えようとする身でありながら、おおいに不足感を抱かせる。だから、気になってしようがないし、そこから何かを学びとりたい、学ばなければならない。そんな強迫観念のようなものに取りつかれている、そんな1年間であったような気がしてなりません。
須賀さんのエッセイ「ユルスナールの靴」を先週末の夜遅く、広島から大阪に向かう新幹線の中で読み終えました。ワインを飲みながら。....この作品は「ハドリアヌス帝の回想」など多くの小説を著したマルグリット・ユルスナールの人となりを須賀さんの視点から綴ったものですが、それまでのエッセーに比べて、須賀さんの、ものの見方と考え方のようなものが、ずいぶんはっきりと出ているように感じました。須賀さんの抱く歴史観・芸術観がベースにあって、かなり注意深く読み進んだように思います。
意外にも、ここにきて私のもう一人の心の師匠である塩野七生さんの作品に出会うことになります。現在中断中の「ローマ人の物語」29巻(終わりの始まり)の出だしがハドリアヌス帝だったからです。ここで二人が初めて私の目の前にぬっと現れた感じです。こんな調子で、今は日々の僅かな隙間時間を縫って、「須賀敦子全集」(3巻)を読み進んでいます。
そうそう。温泉から上がって、何気なく新聞を開いたら、記事下広告欄にBS朝日が贈る年末年始の番組が紹介されていました。そこで目に飛び込んだのが「イタリアへ、須賀敦子静かな魂の旅3部作一挙放送」の見出です。先日放映された最終章「ローマとナポリの果てに」の前に2作が昨秋放映され、今年に入っていちど再放送されていたようですが、前2作を見逃した私としては嬉しい限りです。今回は元旦から3日連続での再放送。ちゃんと録画しておかなければ。
こんな珍道中を繰り返しながら、今年もあと5日で幕を閉じます。きのうは日本海へ出かけましたが、きょう27日は午後、家内と京都国立近代美術館に出かけます。10月末から開かれている「ボルゲーゼ美術館展」の最終日なのです。ラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」を見たい。須賀さんのエッセイに登場する「聖マタイの召使」は展示されてはいないけれど、カラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」は自分の目で見ておきたい。あす28日は、「行く年の神恩を感謝し来る年の除災招福を祈願する納三宝荒神大祭」にお参りするために、宝塚の清荒神さんに出かける予定です。この取り合わせはなんとも滑稽ではありますが。そして、29日は植木屋さんに庭木のお手入れをお願いしているので、大掃除の日。30日は次男君と孫君一家を迎える、そんな年末年始の我が家の段取りです。その合間に読書と音楽三昧の時間をみつける。なんとも能天気な1週間になりそうです。
こういう次第ですから、このブログも、きょうが今年の書き納めとなります。この1年、「心の風景」にお越しいただきました皆さまには、貴重なお時間を頂戴したことに対しまして、改めて御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。皆さまには、どうか良いお年をお迎えください。