心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

洋ラン展

2006-01-29 10:51:50 | Weblog
 2週間ぶりにゆったりとした休日を迎えました。昨夜は少し冷え込んだのでしょうか。花壇を霜が覆っています。そういえば、ことしは未だ水仙の花が咲きません。千両、万両が赤い実をつけて彩りを添えている。そんな冬の風景です。
 ところで、昨日は仕事帰りにデパートで開催中の洋ラン展を覗いてきました。一時期、我が家には相当数の鉢が所狭しとあったのですが、お手入れを怠っていたために、多くの株が台無しになってしまいました。それ以来、ほんの僅かな鉢を窓辺において、時々開花する花を楽しみながらワインを楽しむ。自分勝手なお付き合いに変わってしまいました。そんな私ですが、昨日は洋ランの展示・即売会をゆっくり楽しんできました。花弁をじっと見つめながら、どうしてこんな色彩を纏うことができるだんろう。どうしてこんな姿形ができるんだろう。小さな、小さな茎から、それは大きな花を咲かせている、そのエネルギーってどこにあるんだろう。そんなことを考えながら、一つ一つの鉢を見て回ります。みんな育てるのが上手いんだなぁ。これが率直な感想でした。
 暑い夏の管理を含めて優しく大事に育ててきた洋ランが、寒い冬に開花する姿をみると、ほんとうに心が癒されます。よくがんばったねと声をかけてやりたくなります。開花した姿をじっと見つめていると、どこからともなく歌劇ジャンニスキッキの「私のお父さん」のアリアが聞こえてきます。トスカの「歌に生き、恋に生き」が、蝶々夫人の「ある晴れた日に」が、ノルマの「清らかな女神」が、どこからともなく聴こえてきます。私にとって洋ランは、プリマドンナでもあるのです。昨日は、即売会で4鉢を買って帰りました。大事に育てることにいたします。
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マーラーの交響曲

2006-01-22 21:34:38 | Weblog
 きょうは快晴の温かい日曜日になりました。でも、所用があって職場に顔を出すことになりました。貴重な休日が台無しですが、仕方ありません。気分転換に帰宅途中、レコード店に立ち寄って自分を慰めた一日でした。きょう手にしたレコードは、ハイドンの「天地創造」、メータ指揮のチャイコフスキーの「悲愴」。いずれもオーソドックスな曲ですが、いまは、「悲愴」を聴きながらの更新作業です。オツカレサマ!
 で、少し早く帰宅した私は、マーラーの交響曲第3番を聴いて少し気分を変えて、またぞろ部屋の中でお仕事の続行でした。先週もいろいろありましたが、今週もわたしの超整理手帳はスケジュールでぎっしりです。風邪も引いていられない、そんな一週間になりそうです。
 救いは、先日来、元気なプランナーの方とお仕事ができる点でしょうか。同じ釜の飯を食ってきた連中と「ああでもない、こうでもない」と議論するのも楽しい。でも、予想だにしない視点からぐさっと切り込まれるときの感覚って、落胆ではなく快感に思えるから不思議です。そして、いろいろ意見を交わしているうちに、とんでもない発想が浮かんできたりして、それはもう感激です。そんなときは、仕事って楽しいなぁと思います。
 人間って、やはりひとつのことに拘ってしまうと、前が見えなくなってしまいます。というよりも、全体が見えなくなってしまって、自分の存在が危うくなってしまう。自分がどこにいて、どちらを向いているかもわからなくなってしまいます。ときには突拍子もない大音響に目を覚ますことも必要。とすると、グスタフ・マーラーの交響曲って案外、「目を覚まして!」と訴えているのかもしれません。時には牧歌的な曲想で人の心を和ませ、時には人の心を奮い立たせる。そこに魅力があるのかもしれません。もうひとふんばり。
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餌付け台

2006-01-15 15:03:08 | Weblog
 週末は、若い方々と新年会の名目で夜遅くまでお酒を呑みました。夜遅くというよりも、何軒か回ってふと時計を見ると午前2時。電車もなく、タクシーで一人ひとり送って帰ったら4時を回っていました(^_^;)。まぁ、この勢いで、今年も頑張ることにいたしましょう。
 そんなわけで、きょうは少し遅めの二日酔い状態でのお目覚めでした。コーヒーをすすりながら、ぼんやり庭を眺めていると、なにやら見かけない小鳥がサザンカの木に止まっているではありませんか。よく観ると、メジロでした。目の周りに白いリングをつけた可愛い小鳥です。去年も何度か見かけたことがありますから、近くの小さな里山から飛んできたんでしょうか。気になって、愛犬ゴンタと散歩に出かけ、近くの里山に立ち寄ると、いろいろな小鳥が大きな木々の梢で羽根を休めているのを見かけました。そして、思い立ったこと。それは我が家の庭に餌付け台を作ろう、でした。近所のスーパーで小鳥用の餌を買ってきて、台の上に撒いて様子を見ました。でも、スズメばかりやってきます。インターネットでいろいろ調べてみると、メジロの餌付けにはミカンの実がよさそうです。今度はミカンを1個半分に切って、割り箸にさして、サザンカの枝に括り付けました。メジロが庭にやってきたからといって、すぐに食べてくれるわけでもないでしょう。あとは気長に待つことに。当分の間、餌付け台にも餌をやり続けてみることにします。
 でもねぇ。警戒心の強いスズメさんも、いったん危険がないことを知ると、なんと親族一同、隣近所お誘いでお出ましです。素麺の入っていた木箱を使って作った簡易型餌付け台ですが、10数羽のスズメさんが、楽しそうに餌を啄ばんでいます。いつの日にか、メジロさんがミカンを啄ばむ写真が取れたらいいなと思っています。そのときには、ブログにアップしましょう。
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ギアチェンジ

2006-01-08 16:35:38 | Weblog
 北国は寒波に見舞われ記録的な大雪だというのに、ひと山越えた太平洋側は小雪が舞う程度。時折、明るい青空さえ見える1日でした。狭い国土なのに、こうも天候が違うものかと思ったものです。
 そんな新年早々の休日、わたしはレコードを聴きながらゆったりとした時間を過ごしました。このところ、マルタ・アルゲリッチを集中的に聴いていて、きょうの曲目は、ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調と第2番へ短調でした。実は、ショパンのピアノ協奏曲を聴くのは初めてです。きのう仕事帰りに立ち寄った中古レコードショップで見つけてきました。彼が20歳の頃の作品で、初恋のひと、若いソプラノ歌手コンスタンツィア・グラドコフスカへの慕情と憧れの思いが込められていると解説にありました。
 青年ショパンの初恋の情熱に少し疲れを感じたわたしが次に聴いた曲、それはグレゴリオ聖歌でした。歳のせいなんでしょうか。これをBGM代わりに、季刊誌「考える人」2006年冬号を楽しみました。今号の特集記事は「1962年に帰る」です。1962年といえば、アルゲリッチが21歳の頃、日本では60年安保と東京オリンピックの間にあって、いま思えば、その後の高度経済成長へと突き進む時代の胎動期だったような印象があります。当時、わたしは、雪国に育つ一人の小学生に過ぎませんでした。同じ国に生きながら、地方と都会の文化の違い、時代の勢いの違いを思いました。
 この季刊誌は、今回からいくつかの新しい連載記事がスタートします。「ファーブルの地で昆虫を追う」「仏典を読もう」「私の暮らしかた」「小屋の流儀」など。脳科学者の茂木健一郎氏の「恐山探訪記」は、昨夜、ふとんのなかで恐る恐る(?)読みました。長崎訓子さんのイラスト・ルポ「古本なんで大っ嫌い!!...?」も、楽しく拝見しました。ふだんは仕事関係の本を読む機会が圧倒的に多いのですが、いやそれだからこそ休日は、仕事とは全く無関係な本を、少年のような好奇心をもって読む。これが、わたしの生き方です。目の前に突如現れる「怪物」に動じず、冷静に現象を見つめる強かさ(したたかさ)を育む柔軟体操でもあります。
 昭和という時代、古本、中古レコード...。感傷的な懐古主義では困りますが、古きものからわたしたちが置き忘れてきたものを見つけ出すことの意味を思います。最近、幼い子を殺したり、赤ちゃんを誘拐したり、そんな事件があまりにも多すぎます。学校では学級が崩壊し教育が成り立たないという報告もあります。熟年離婚、少子化....。なにか歯車が狂い始めているような風潮が気になります。どこかで、いったん「ギア・チェンジ」する必要がありそうです。
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御神籤は「小吉」

2006-01-01 22:17:07 | 愛犬ゴンタ

 この休暇を利用して「西洋音楽史~クラシックの黄昏」(岡田暁生著・中公新書)を読み始めました。これまで、その時々の思いを音楽に託して冷静さを保とうとした、わたしの音楽観に、ひとつの時間軸を通してみたいと思ったからでした。音楽の中に隠された精神性と対峙することによって、わたし自身の生きざまを考えてみたいと思ったからでした。こうして、2006年という新しい年を、レコード音楽とともに迎えました。聴いた曲はグレゴリオ聖歌でした。

 ところで、年末年始休暇というのは、一部業種・職種を除いて社会全体が「お休み」という面白い時間を提供してくれます。逆に言えば、ふだんとは別の視点から自らの仕事を見つめ、自らの生きざまを見つめる、貴重な時間を私たちに提供してくれます。ふだんは”行け行けどんどん”で突っ走っている自分が、ふと我に帰る瞬間を感じることができます。「今のままでいいの?」と自問自答することの大切さを思います。「世の中、これでいいの?」と、より高次の課題を提出してくれます。それほどに、私たちは精神的に病んでいるとも言えます。何か、大事な何かを、どこかに置き忘れてはいないか。
 ことしは戌年です。犬ではなく戌という漢字の意味を広辞苑で調べてみると①十二支の第11番目に位するもの②西から北へ30度の方角③昔の時刻の名。今の午後8時ごろ。また、およそ午後7時から9時のあいだの時刻、とありました。なにやら人間の知恵の一端を垣間見る思いです。さっそく愛犬ゴンタを連れて初詣にでかけました。愛犬同伴の参拝客が多かったのも嬉しい風景でした。今年のわたしの運勢は「小吉」とありました。

 『ひとかたに なびくと見せて 青やぎの ゆくえさだめぬ 人心から』 思うにまかすようで心にまかせぬことがあり おもわぬ幸福がある様でも よく気をつけないと後で 損することあり 女難にことにきをつけなさい

えぇ?女難??それはないでしょう。でも今年は、わたしの職業人生を賭けるほどの大きな事業が待ち構えています。その成否を見定めるたいへん重要な年になります。御神籤に添えてあった開運招福のお守り(小さな達磨さんの縁起物)を、お財布の中にそっと仕舞いこみました。

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