北海道に行ってきました。札幌あたりは30度を超えているようでしたが、北緯45度40分の稚内の最高気温は27度、最低気温17度。同じ北海道でもずいぶん違います。
さて、大阪・伊丹空港から空路旭川へ。旭川ラーメンを楽しんだ後、バスで北上してサロベツ原生花園へ。広大な沼地に広がる原生植物を見て回りました。そして夕刻、稚内温泉に到着です。部屋から眺めた夕暮れ時のノシャップ岬のなんと美しかったことか。利尻富士の雄姿(写真左)を望むことができました。
翌朝は朝5時起きで、稚内港から礼文島・香深港行きの定期連絡船に乗りました。大阪から空路でおよそ2時間、それに匹敵する時間を連絡船のデッキと2等船室で過ごしました。なんとゆったりとした時間であったことか。
礼文島に到着すると、澄海岬、日本最北限のスコトン岬へ。岬に先端に立つと、大げさに言えば360度の視野で海が広がって見えました。ふだんでは経験のできない視界です。また、目と鼻の先にトド島があり、その向こうにはサハリンのモネロン島の島影が微かに見えます。領土問題で騒がしい昨今、改めて「国境」というものを実感しました。
その後、船泊などを見て回ると、再び定期連絡船に乗って利尻島・沓形港へ。約1時間半の乗船でした。利尻島ではオタトマリ沼へ。そして姫沼へ。ともに大自然のなかを20分ほどかけて周囲を散策しました。
翌朝も比較的早く起きました。残念ながら雨。鴛泊港から稚内港へ。到着すると今度は日本最北端の宗谷岬をめざしました。行く途中、驚いたのは、57機の風力発電用風車が立ち並んでいる風景、これは壮観でした。この地域の家庭電力の6割ほどを賄っているとか。大規模なメガソーラー発電所もありました。自然再生エネルギーが取り沙汰されている昨今、その先端をいく取組みを、この北限地域で目の当たりにしたことになります。
宗谷岬に向かう途中には、山々を切り開いた大規模の牧場が広がり、延々と続く牧場の中で牛たちが草を食んでいました。その横にはエゾシカの親子がいます。同じ日本でありながら、こうも違うものかと感心したものです。
北限地域の旅行はこれで終わりです。宗谷岬から3時間ほどかけて南下して、最後の目的地である大雪山層雲峡に向かいました。3泊はいずれも温泉でしたが、最後の夜は本格的な温泉ホテルで疲れを癒しました。
どたばたの4日間。空路、海路、道路と三様の移動手段で、その土地土地の風景を楽しむことのできた小旅行でした。果てしない地平線、水平線、延々と続く広大な田園風景を眺めながら、舘野泉さんのセヴラック・ピアノ作品集「ひまわりの海」を聴きながら過ごしました。
さあて、きょうは試運転勤務でしたが、明日からエンジン全開です。週末まで広島勤務、土日は高知出張と続きます。北海道旅行での気づきは、後日改めてアップすることにいたしましょう。
先週は土曜日から広島入りをしていましたが、空き時間を利用して広島駅前の中古レコード店GROOVINを覗きました。行くたびに新しく入荷されたLPが並んでいます。LP人気の凄さを思います。没30年ということでしょうか、グレン・グールドのLPを容易に探し出すことができました。この日は、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」(全曲)4枚組を見つけました。第一巻は持っていましたが、新品同様の全巻セットはLPでは初めてです。これで1,800円です。
ものの本によれば、バッハが平均律クラヴィーア曲集第一巻を作曲したのは37歳だった1722年の頃です。ところが2巻を作曲したのは59歳となる1744年、22年後のことです。一気呵成というよりも、寄り道をしながら思考の結果として第二巻は陽の目を見た。そういえば、グールドも1951年にゴールドベルク変奏曲を録音してから30年後の1981年に再録音しています。「クラヴィーア」も、全曲録音まで約10年を要しています。なにやら重たいものを感じます。
レコードに針を落としながら説明書を眺めていると、著者の北沢方邦氏は近代バッハ解釈と演奏の二元論的論争について、「信仰ぶかい敬虔な魂としてドイツ民族の根底にある諸々のロマン的情念を表現したとするロマン主義的・民族主義的解釈」と「その精密な対位法と和声の数学的ともいうべき技法によってデカルト以来の理性的世界像を力動的に表現したのだとする合理主義的・近代主義的解釈」のふたつの解釈を提示します。しかし、合理主義と非合理主義の二項対立に否定的な見解を示し、「グールドのバッハは、人格と様式の統一性という、このバッハ音楽の秘密をみごとにとらえている」と言い、「音そのものによる造形的な積み重ねが、比類のない緊張感と明晰度を保ちうるという関係が存在している」と。そして「バッハの楽曲自体における合理性と非合理性の統一というだけではなく、演奏者のまったき自由の回復と、原曲の楽譜が要求する理性的秩序という二律背反の使用と解決さえもがそこにもたらされている」と絶賛しています。真夏の昼下がり、ぎんぎんに冷やした部屋のなかに流れる「クラヴィーア」を聴きながら、私がグールドに拘ってきたものがぼんやりと見えてきたような気がいたしました....。
さあて、明日から4日間ほど北海道は利尻・礼文島方面にでかけてきます。そのため、夕刻、愛犬ゴンタをペットホテルに預けました。なにやら不安そうな表情が少し気にはなります。12歳といえば中学生1年生に匹敵します。我が子も同然で、前日の夜はお風呂で身体を洗ってやり、クーラーの効いた部屋で休ませました。そうそう、尻尾の付け根あたりの毛が少し抜けていたので、動物病院で見てもらいましたが、たいしたことでもなさそうで、抗菌の飲み薬をいただいて帰りました。待合室にある犬年齢の表では、12歳のゴンタの人間年齢は64歳とか。ずいぶん歳をとりました。
......鬱蒼と茂る木々の向こうに見える真っ青な空、そこに舞う数羽のカモメの姿。熱い砂の地道を潮風に誘われるがままに歩いていくと、急に視界が広がり、海の水平線が現れました。私が初めて見た海の景色です。幼い頃、従兄弟の家に遊びに行って見た大社の浜の風景でした。......梢の一画をぼんやりと眺めながらそんなことを考えていたら、運転手さんが乗るのか乗らないのかと怪訝そうに見つめていることに気づいて、慌ててバスに飛び乗りました。現実世界と心象世界を彷徨う、なんとも反応が鈍くなってきたものです。
そうそう、裏庭の出窓に日よけにと無花果の樹を植えていますが、今夏はたくさんの実がついています。その根元に茂るミョウガの茎下には小さな花を付けているミョウガの子どもが顔をのぞかせています。その何個かを摘まんで、素麺の出汁に乗せて食すると、独特の風味が楽しめます。昔懐かしい夏の香りです。でも、ミョウガを食べると物忘れがひどくなると、昔聞いたことがあります。根も葉もない出鱈目な話なんでしょうが、最近、物忘れがひどくなってきましたから、ご用心ご用心。
歳をとってからの誕生日は、子どもの頃のように前のめりになることはなく、どちらかと言えば過去と現在そして未来につながる流れの中に自らを置き考えることになります。でも、時々、遠い昔の原風景が走馬灯のように浮かんでは消えていくのは、歳のせいなのでしょうか。
先日、本屋さんで写真集「昭和の大阪」(産経新聞社)が目に留まりました。そこには、昭和の20年から50年の間の大阪の街の風景写真が載っていました。幼稚園の頃、だから昭和30年頃でしょうか、私は母親に連れられて、初めて大阪を訪れました。当時、東京本社から大阪支社に転勤していた父親に会うためでした。両親と一緒に宝塚の遊園地で遊んだこと、そこで初めて大きな象を見たこと、父の社宅で若いお手伝いさんに遊んでもらったこと、などをぼんやりと覚えています。
記憶が定かでないのは、道の真ん中を電車(市電)が走っていた広々とした街の風景です。道路の向こう側がずいぶん遠くに見えましたが、そこがいったいどこだったのか、今も思い出せません。写真集をみると、昭和30年当時の大阪駅前も、戦後の復興もあって広い道が通っていたようですから、ひょっとしたらその界隈だったかもしれません。田舎から出てきて大都会の風景を目の当たりした幼い子どもの目には、何もかもが広く大きく見えたのかもしれません。
当時の思い出のもうひとつは、街の「匂い」でした。これは食の都・大阪だからでしょうか。様々な食材の匂いが混ざったような独特の匂いが記憶のなかにうっすらと残っています。この歳になって、時々大阪の街を歩いていると、当時の匂いに近いものをふと感じて立ち止まることがありますが、それが具体的になんの匂いだったのかは今もわかりません。60年ほど前の記憶が、時々頭をよぎる、そんな夏を過ごしています。
ところで、お盆休みには、久しぶりに「エアチェック」なるものをしました。NHKFMで13日から4日間にわたって放送された『グレン・グールド変奏曲 ~名盤を通して知る大ピアニスト~』です。ことし没後30年、生誕80年を迎えたグールドの遺した録音を多角的に紹介しようという番組で、音楽評論家の満津岡信育さんにピアニストの仲道育代さんがゲストとしてお話しになりました。「第1変奏~変人グールド、かっこいいグールド、グールドってどんな人?~」、「第2変奏~コンサートは死んだ~」、「第3変奏~グールドはロマンチスト?~」、そして「第4変奏~バッハを愛したグールド グールドの魅力~」の4部作ですが、グールドの足跡を音楽とともに振り返るには楽しい番組でした。
昔のようにエアチェック機器を整えているわけではありませんので、手許のデジタルラジオで予約録音しました。1回の録音が1時間55分、その4倍の音楽データが揃ったことになります。昔はオープンリールやカセットテープに録音していましたが、今は小さなSDカードになんなく収まってしまいます。それをステレオに繋いで聴きます。デジタルプレイヤーにデータをコピーして、移動中の車中でぼんやり聴くこともできます。便利な世の中になったものです。
きのうの雨のせいでしょうか。きょうは爽やかな朝の風に目覚めました。元気いっぱいの夏蝉も、私をほってはおきません。「はやく起きろ、はやく起きろ」と聞こえるのは気のせいでしょうか。
さて、お盆を前にお休みに入ると、さっそく長女の孫君がリュックを背負って一人でやってきました。リュックの中には、工作道具一式と絵本、それに着替えと歯磨きセットです。私の出張の身支度とあまり変わらないので笑ってしまいましたが、ふだん老夫婦(?)で静かに暮らしている我が家のこと、急に賑やかになって愛犬ゴンタも昼寝の邪魔をされて不機嫌でした。
初日は孫君お気に入りの近くの温泉に出かけました。温泉と言っても街外れの地下1200mから沸いた天然温泉を元湯に営業しているスパ施設で、我が家から車で10分ほどのところ。露天風呂から炭酸泉、岩盤浴、サウナなど数えきれないお風呂があります。水泳教室に通っている孫君にとってはお遊び空間なんでしょう。その間、私はサウナで疲れを癒します。かの舘野泉さんは、フィンランドの湖畔の別荘でサウナに入ったあと湖でひと泳ぎするのだという言いますが、私にはそんな贅沢はできません。
そして翌日、きのうの土曜日は、京都・下鴨神社糺の森で開かれている京都古書研究会主催の「下鴨納涼古本まつり」に孫君を連れて行きました。お天気が心配でしたが、初日ということもあって大勢のお客さんで賑わっていました。とりあえず、孫君はお祖母ちゃんに預けて、私は店舗を1軒1軒見て回りました。といっても、そうそう自由も利かないので、児童書コーナーで合流するのですが、とたんにゴロゴロと雷鳴が轟き始めると、大粒の雨がぽつり、またぽつり。急いでテントの中に避難しました。その後、30分ほどの間、雨が降り続きましたが、小雨になるとどこからともなくお客が集まってきます。お店も、ビニールをうまく利用して少々の雨が降っても一応の営業はできるようになっています。よくご存知の方は小雨ぐらいでは帰らない。さすが京都人と納得したものです。そんなドタバタの中でも、私はT・E・ロレンス著「知恵の七柱」(全3巻)、山口昌男著「知の遠近法」なんぞを手にしてお帰りでした。もちろん孫君も何冊かの児童絵本を手にして。
帰途、孫君の手を取って鬱蒼とした神木の下を歩きながら、ふと思い出したことがありました。その昔、下鴨神社の禰宜(ねぎ)を務めた鴨長継の子、「方丈記」を著した鴨長明のことです。私は3年前の夏、なぜか方丈記を読んだことがあります。このブログでも2009年8月16日付「暑い夏に方丈記を読む」で紹介しました。
いわく「59歳を迎えた今夏、一冊の本を読んでいます。大阪・梅田の旭屋書店で時間待ちをしていたときに手にした「方丈記」です。・・・・・でも何故いま「方丈記」なのかって?」。1900年、南方熊楠が英国から帰国後、菌類などの生物採集と論文執筆の傍ら「方丈記」の翻訳に取り組んだことを紹介し、「ロンドンという世界都市から一転して熊野の山奥に独りで暮らすことになった熊楠が、いったい何を思い、何を考えたのか。なぜ「方丈記」なのか」と自問します。そこには、リタイアを数年後に控えた我が身を思う迷いがあったのかもしれません。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
「方丈記」はまさに無常観を象徴する書き出しで始まります。貴族から武士の時代に変わろうという激変の時代に、京の都は大火、辻風、飢餓、大地震に見舞われます。ものの儚さ、ものの哀れ。天変地変に逃げ惑う人々の姿を冷徹なまでに見つめ記していった長明。私たちは、3・11というとてつもなく大きな自然の暴力に遭遇し、人の無力感さえ思いました。しかし、長明は挫けることなく、冷徹な目で時代を見つめ、人間存在の本質に迫ろうとしています。62歳を迎えたこの夏、改めて方丈記を再読、熟読吟味する気を強くします。
このブログでは毎年この時期に「○○歳の夏」と題するエッセイを綴ってきました。久しぶりに過去のそれを再読してみると。
去年(2011年)は、九州旅行中に読み耽った多田富雄先生の著書に触れながら、「いのちの尊厳」を「機能回復」と「人間存在」の両面から見つめました。還暦を迎えた2010年には、宇治・平等院を訪れたことに触れながら、同時代に西洋で興った十字軍の歴史から宗教と倫理観、そしてヴェーバーの世界へと言葉をつなぎました。還暦まであと1年に迫った2009年、方丈記を読み、鴨長明の時代を見つめる視点に注目しましたが、その前年の2008年には、徳島で見学した阿波踊りから「守破離」「型」について考えました。
職場で大きな変化があった2007年には、思い立って伊吹山に登って山頂から下界を眺めたためでしょうか、雑誌「現代思想」の創刊号巻頭言を引き合いに大きな時代認識と自らの生い立ちを振り返っています。長男君の結婚を控えた2006年の夏には、かつて子どもたちとよく出かけた湖北の山小屋で静養し、仕事一筋の生き方にいったん距離を置こうとしている心の動きが垣間見えます。2005年には、北海道・知床という非日常的な風景に身をおいて、一人の人間としての生き方を考えようとしました。この数年は、子供たちが我が家を巣立っていく時期と重なります......。あれから7年、いまは孫君が我が家を走り回っています。湖北の山小屋も、そろそろ始末するか、それとも建て直すか。人生の最終章に向けて小さな一歩を踏み出そうとしています。
いずれも脈絡のない記述に終始していますが、振り返ってみると、自らの生き様を時代の大きな流れの中で捉え直すのに四苦八苦している様子が見てとれます。と言えば恰好よく見えますが、あまり成長がないというべきか、同じところで行ったり来たりしている自分自身を思います。これが、今夏62歳を迎える私の幼稚性なのでしょう。きっと。
きょうは、舘野泉さんのCDから「北の調べ~フィンランド・ピアノ名曲集」を聴きながらのブログ更新でした。今週末から来週頭にかけて広島出張となります。また翌週の土日を挟んで小旅行にでかけますので、今月のブログ更新は不定期になりそうです。
そうそう、今朝、庭にでたらブルースター(オキシペタルム)の大きな実が裂けて、今にも新しい生命(種)が舞い上がろうとしているのを見つけました。薄青い洒落た花を咲かせてくれたブルースターですが、種の保存に新たな旅立ちの日を迎えています。ハーブ畑では、セージやミント、タイムが可憐な花を咲かせています。暑さに一番弱いのは、ひょっとしたら人間様なのかもしれません。
ところで、昨夜は家内のお誘いを受けて、生まれて初めて日本橋の国立文楽劇場に行きました。早めに到着したので、チケットを購入したあと、京都・錦市場に並ぶ大阪の台所「黒門市場」を散策しました。そして、鮮魚店が並ぶ一画の「やまと屋鮨」さんで少し早めの夕食をいただきました。生ビール中ジョッキー2杯で小ジョッキー1杯という楽しいサービスもあって、ご主人と楽しい時間を過ごしました。もちろん鮮度のいいお寿司は、なかなかのものでした。
この日はサマーレイトショーと銘打って、近松門左衛門の「曾根崎心中」が演じられました。1700年代のはじめ、大阪堂島天満屋の女郎「お初」と内本町醤油商平野屋の手代「徳兵衛」が、曾根崎村の露天神、現在のお初天神の森で心中したお話でした。「生玉社前の段」「天満屋の段」「天神森の段」の三部構成で演じられる人形浄瑠璃です。時間はおよそ100分。
内容は悲しい物語です。実の叔父の家で丁稚奉公をしていた徳兵衛に、叔父が娘を結婚させて店を継がせようと継母に結納金まで渡すのですが、お初と恋仲にあった徳兵衛は、それを断ります。立腹した叔父は、徳兵衛に勘当を言い渡し、貸したお金を返せと迫ります。やっとのことで継母から結納金を取り返した徳兵衛は、それを返済にあてようとしたのですが、友人の九平次に3日限りの約束でその金を貸してしまいます。人が良すぎたんですね。ところが、後日その返金を迫ったところ、九平次は「借金はしていない」と言い、証文は無くした印鑑を使って徳兵衛が偽造したものだと言い張ります。腹が立ちますね。そうではないことを立証できない徳兵衛は、死んで身の潔白を証明することを選びます。それを聞いたお初は、天満屋にやってきた九平次から散々徳兵衛の悪口を聞かされ、最愛の徳兵衛と心中を決意します。
あれ数ふれば暁の
七つの時が六つ鳴りて
残るひとつが今生の
鐘の響きの聞き納め
はよう殺して殺して
なんと悲しい物語であることか。物語は、意を決して二人が心中を果たしたところで満場の拍手、そして幕となります。
人間国宝の竹本源大夫さんらの謡と三味線に併せて、生きているかのうように人形を操る人形使いの方々、美しい舞台のセッティング.....。西洋のオペラとはひと味違う日本の伝統的な芸術である人形浄瑠璃の素晴らしさを改めて認識させられました。大事にしたい伝統芸術です。
先日ご紹介したNHKラジオ「こころをよむ」では、人の死について、「生物学的な死」と「物語れる死」、つまり「身体的な死」と「別れとしての死」があると言い、人間の死生観が話題になっていました。曾根崎心中は、どう見ても死を美化しているところがあります。お初を殺し、自ら自死する場面で会場から大きな拍手が広がる風景を、いったいどう受け止めてよいのか。.....。こんな場面は、西洋のオペラでも見かけます。ここはあまり理屈っぽく考えないで、素直に涙するのがよいのかもしれませんね。ただ、歌舞伎もそうなのでしょうが、人形浄瑠璃の世界も、すべて男性社会。このあたりが西洋とは違うところではあります。いろいろな気づきをいただいた一日でした。