ここ大阪もやっと梅雨を迎えました。そんな時季に我が家では、毎朝、ブルーベリーの実を小鳥たちと競い合っています。今年はたくさん収穫できそうなので、例年よりひと回り大きな瓶にブルーベリージャムを入れることになりそうです。
さて、先週はシニア仲間たちと長居植物園に行ってきました。紫陽花やタイサンボクはもう終盤、ダリアの花が見頃でした。そんな公園の一画にジャカランダが青紫の花をつけていました。バルセロナのサグラダ・ファミリアに続いてのご対面でした。
一心寺で拾った種から育てている我が家のジャカランダは、全部で6本。地植えが4本。鉢植えが2本です。そのうち玄関口に置いている鉢植えの1本は、2メートルを越えるまで大きくなっています。いつも枝先を眺めながら青紫の花を思い浮かべています。
長年大阪に住んでいますが、長居植物園には初めて行きました。24.2ヘクタールの敷地に1200種の植物が植わっていて、日本でも有数の植物園だそうです。一画には自然史博物館もあり、老若男女の憩いの場にもなっています。仲間たちと楽しい時間を過ごしました。
さあて今週も、なんとなく1週間が過ぎていきました。NPOの野暮用をこなしながら、時には大学時代の友人と一献傾けたり、そうかと思うと雨音を聴きながらレコードを楽しんだり本を眺めたり。なんとなくほっこりした日々が過ぎていきました。
先日、本屋さんで須賀敦子の「霧の向こうに住みたい」(河出文庫)に出会いました。短編のエッセイをまとめたもので、例えば「フィレンツェ 急がないで、歩く、街」「ローマに住みたい」など、つい1か月前に出かけた街もあれば、20年ほど前に訪ねた「アッシジに住みたい」「ヴェネツィアに住みたい」「ミラノの季節」なんてエッセイもあります。数ページの小論なので、ほっとひと息ついた時に、ベッドに寝っ転がって、須賀さんの美しい言葉が醸し出す世界についつい時間を忘れてしまいます。
須賀さんは、夫ペッピーノが亡くなったあと40代の頃に帰国しました。その後大学に席を置く傍ら、60歳頃からイタリア時代のことをテーマに数多くの本を執筆しましたが、その言葉の美しさに私は惹かれたことになります。まだまだご活躍が期待されるなか、68歳でお亡くなりになりました。イタリアで過ごした日々、そこでの思いを様々なエッセイを通じて知ることができます。
ずいぶん前にBS朝日が「須賀敦子 静かなる魂の旅」を放映しました。それを録画しDVDに焼いて3枚。「トリエステの坂道」「アッシジのほとりに」「ローマとナポリの果てに」です。もう1枚、ETV特集「須賀敦子 霧のイタリア追想〜自由と孤独を生きた作家」も手許にあります。2009年10月18日放映とありますから15年も前のことです。
15年前と言えば60代前後です。人生の山場を越え、そろそろ第二の人生に心が揺れ動く時期。そんな時期に須賀さんの世界に出会ったことになります。本棚の奥を覗くと、出て来るは出て来るは。「須賀敦子のローマ」「須賀敦子のヴェネツィア」「須賀敦子のミラノ」「須賀敦子のフランス」などなど。
この期を境に、企業人から「私」にギアチェンジしたような気がします。今思えば良い選択でした。心理学なんて学んだこともないのに「心」というものに関心を寄せ、それが「心の風景」にも繋がっています。しとしとと降り続く雨の夜。そんな夜長にエリック・サティのピアノ曲を聴きながら須賀敦子をテーマにブログを更新する。こんな贅沢な時間があっても良いかと。
今週の水彩画教室のテーマは「青い花」でした。昔、サントリーさんが青いバラを開発したというので、そのお披露目に出かけたことがありますが、受講生の多くはお庭の紫陽花をお持ちになりました。さあて私はどうしよう。ということで思いついたのが、ジャカランダの花でした。ネムノキのような木の枝先にたくさんの青紫の花が咲きます。中南米産で今が開花の季節。持って行ったのは、バルセロナのサグラダ・ファミリアで撮った写真でした。建物と花とどちらにスポットを当てようか悩んでいるうちに中途半端な仕上がりになってしまいました。さあて、これをどう仕上げるかがこれからの課題です(笑)。
昨夜は、中之島図書館の会議室であったナカノシマ大学の6月講座を覗いてきました。テーマは『大阪の本好きに伝えたい「参加したくなる」本屋の話』です。講師は「読書室」主宰の三砂慶明さん。梅田蔦屋書店の立ち上げからお務めの店員さんでもあります。これからの本屋の可能性や大阪の「参加したくなる書店」のお話などを90分にわたってたっぷりと伺いました。
このナカノシマ大学は15周年を迎えます。初期の頃は支援を含めて時々おじゃましていましたが、その後長い間失礼していましたので、今回久しぶりの受講でした。当初から陣頭指揮をとっていらっしゃる方ともお会いできました。
ところで、「本屋」という名前の由来は、慶長14年(1609)に京都室町通近衛町に書店を開いた「本屋新七」だったとか。その後多くの同業者がその屋号を使うようになり、それが現在の「本屋」さんという名前になったそうです。
20年間で情報量が6500億倍も増えていると言われるなかで、近年ネットの普及で様変わりしています。ご提示いただいた出版市場の推移を見ても、約3割は電子媒体に変わっています。街の本屋さんが徐々に減ってきています。大型書店も以前ほどの賑わいはありません。
そんななかで、本との向き合い方、本屋に「参加する」ということ、なぜ人生には本が必要なのか、いっとかなあかん本屋(大阪編)などについて、ご自分の本とのかかわりをもとにお話しになりました。まだ40代のお若い三砂さんでしたが、その行動力と若々しさが充満した講座でした。
私が時々出かけるシニア向けの講座とは違い、お集まりの方々はなんと20代から70代と幅広く、華やいだ雰囲気がありました。私の横にお座りになった、仕事を終えて駆け付けたという30代の女性も、楽しそうにお話しをお聞きになっていました。仕事とは違う世界を楽しむ。私もそんな時期がありました。なんとなく若返ったような気分でした(笑)。
考えてみると、私の街の近所にあったTSUTAYAさんは数年前に閉店しました。休日の昼下がり何となく出かけると老若男女楽しく本を眺めている風景を懐かしく思い出します。人との出会い、文化の香りのような独特な雰囲気がありました。でも、今はだだっ広い空き地になっています。寂しいことです。
子供の頃には、小さな田舎に小さな本屋さんが一軒だけありました。毎月子供向けの雑誌が届くのが楽しみでした。まだ見ぬ世界に案内してくれました。その後、大学に進むと書店に頻繁に通うようになり、社会人になると最新の情報と知識を求めて大型書店に通いました。歳とともに、古本屋さんにも通うようにもなりました。出張など遠方に出かけるとき、必ずといってよいほど、地元の本屋さんを覗く楽しさを覚えたりもしました。それほど私にとって本屋さんは大事な場所でもあります。そういえば、先月フィレンツェを訪ねた際、古本屋さんの存在が気になりました。
講座が終わったあと、本の即売をしていました。講演のなかでも話題になった鳥取市にお住まいの奈良敏行さんと三砂慶明さん共著「町の本屋という物語~定有堂書店の43年~」(2024年3月15日初版:作品社)を連れて帰りました。
本のカバーにはこんな文章が添えてありました。「鳥取の定有堂書店は、いかにして地域の文化拠点となり、日本中から本好きや書店員が足を運ぶ「聖地」となっていったのか。名店の店主が折に触れつづった言葉から、その軌跡が立ち現われる。<本の力>が疑われる今まさに、手にとるべき一冊」とあります。
旧暦「腐草為螢」(ふそうほたるとなる)。腐った草が螢に生まれ変わるの意だとか。そう言えば、先日、斐伊川の源流に近い山懐の温泉宿に泊まった時、庭先に数匹の螢が舞っていました。久しぶりの帰省にお出迎えいただいたのかもしれません。
ここ大阪は、本来なら梅雨入り宣言があってもおかしくないのに、連日蒸し暑い日が続いています。地中海クルーズから帰ってはや2週間。少し疲れが出てきたのか、数日前から風邪気味で、もうひとつ力が入りません。早めにお布団に入っても眠れず、今頃になって地中海クルーズのことがぼんやりと浮かんできます。
深夜、眠たい目を擦りながらバルセロナ行の飛行機を待っていたドーハの待合室で、アラビア語と英語で書かれた大きな広告に目がとまりました。アラビア文字の姿かたちが英語や日本語と全く違います。現地の方々が漢字を見たら同じことを思うのと同じように、「文字」と「文化」の多様性というものを改めて思ったものでした。
表現の違いと言えば、クルーズ船内で毎夜開かれたシアターショーを楽しむ観客の陽気な姿もそうです。ミュージック&ダンスショー、マジックコメディ、クラシックロックショーなどアップテンポなプログラムが多かったせいもありますが、最初はシアターの異様な雰囲気に圧倒されてしまいました。クラシックかジャズの演奏会しか行ったことのない私ですから、文化の違いというよりも私個人の偏見なのかも知れません。でも、不思議なもので、いつの間にか場の雰囲気に馴染んでいる自分に気づいたりもしました(笑)。
乗客の多くはシニア世代の方々でしたが、老若男女大きな声で囃したり、笑ったり、口笛を吹いたり、拍手をしたり、スタンディング・オベーションをしたり。演者と観客が一体となってショーを盛り上げ楽しんでいる風景が印象的でした。この陽気さ、明るさ、屈託のなさって一体なんなんでしょう。
YouTubeにThe ChoIr of Manの映像がありましたのでご紹介します。イギリスの伝統的なパブを舞台にしたミュージカルです。YouTubeの映像は舞台設定は同じですが時期とメンバーが少し違います。
Choir of Man NCL Encore Jan 24 - Some nights - Parting Glass - Outplay
咳き込んで眠れない夜。ぼんやりと、しかしはっきりと2週間前の地中海クルーズのことが思い出されます。何度も行けるところではないので、ニースの海岸でごく当たり前のようにある石ころを記念に持って帰りました。それぞれ5センチほどの大きさですが、これが私のお土産です。
だからというわけではありませんが、旅行中に大きなスーツケースのキャスターのゴムが壊れてしまいました。久しぶりの海外旅行でローマの街の石畳を引きずって歩いたからでしょう。修理代は僅かなものですが、さっそく保険会社に手続きをしました。
地中海クルーズから帰った2日後、その余韻に浸る間もなく朝からNPOの関係でお出かけでした。ところが、その翌日、横浜の次男君一家が年休消化(?)のためとかで、急に2泊3日の日程でやってくることに。ところが我が家は長旅から帰ったばかりで受入準備ができていません。急遽、三田にある神戸フラワーパークホテルに出かけることにしました。
このホテルは遊園地や温泉、道の駅などが併設されているため、4歳の孫娘も楽しめ、私たちも長旅の疲れを癒すことができます。ますます大きくなった孫娘と楽しい一日を過ごした後、翌日には元気に横浜に帰っていきました。
その翌日は、終日NPO関連の会議で潰れましたが、さらに次の日には週末に開かれる母の50回忌法要のため島根の実家に向かいました。久しぶりに岡山で特急「やくも」に乗りました。なんと381系から新型車両に模様替え。快適な列車の旅を楽しみました。
とは言え、先月下旬から出ずっぱりです。途中、生山駅で下車し、中国山地の山奥にある小さな温泉宿でひと休みしました。何年かぶりでしたが、女将さんに温かく迎えていただきました。
露天風呂で疲れを癒したあとは、囲炉裏を囲んで山菜料理や岩魚やニジマスなどを肴に、純米吟醸「七冠馬」「深山の香」をいただきながら森の夜長をゆったりまったり過ごしました。
翌朝早く実家に向かいました。1年ぶりの帰省です。少子高齢化の波は避けがたく、半世紀前のような賑やかさはありませんが、昔のままの風景が広がっていました。子どもの頃に遊んだ城趾や斐伊川の流れを眺めながら遠い昔のふるさとの風景を思い浮かべました。
さっそく母の50回忌法要が始まりました。ずいぶん長い時間、お経が続きました。・・・・・「もうずいぶん働いてきたんだから、もういいよね」。お経を聞きながら母に語りかけました。すると母が言いました。「もう頑張らなくてもいいのでは」「ゆっくりしてはどう」と。
法要のあとの宴には十数名の縁者が集いました。私の世代の者が減り、法要のたびに顔ぶれが変わっていきます。そして宴が終わると再び全国に散らばっていきます。こうして「家」は引き継がれていくのでしょうが、代々続く「家」を守るのは大変です。
かく言う私も、後期高齢者の扉がぼんやりと見えてきて、世代交替の時期を迎えています。そろそろスローライフに軸足を移していくことになります。
穏やかな海を静かに進む大型客船の13階客室バルコニーから果てしない水平線を眺めていたら、カモメが数羽ふわりと浮かんできます。地中海の日没は午後9時過ぎ。ゆったりまったりの地中海クルーズを楽しんできました。
異国での4泊5日のショートクルーズです。乗客約四千人、乗員スタッフ千数百人。日本人らしき姿はほんとんど見かけず、多言語の会話が終始BGMのように流れていました。
昼間は観光地を巡り、夜はディナーを楽しんだあと、ショーやアトラクションを見たり、持って来た本を開いたりしてのんびり過ごしました。ちなみに今回のパッケージは、食事と飲みものは一部の例外を除いて全てフリー。船内にある7つのレストランを食べ歩きました。外国人の皆さんの食べっぷりの凄いことに驚きますが、こんな食事を続けていたら体重が増えてしまいそうです(笑)。
ドーハ経由でバルセロナへ
機中泊とホテル泊を含めて9日間の旅程でした。ウクライナの影響でしょうか、今回は関西国際空港からドーハ経由でバルセロナに向かいました。関空を飛び立ち、中央アジア各国の上空を経てアラビア半島のドーハ空港に着いたのは真夜中。そこで乗り換えてバルセロナに向かいましたが、こちらの航路もカザ上空は避け、黒海南端をかすめながら進むルートでした。世界の至る所で戦争が繰り広げられている現実を思いました。
須賀敦子の世界、古代ボエニ戦役の足跡を思い浮かべる
イタリア上空にさしかかったところで航路マップを見ると、ディスプレイ上に東からトリエステ、ベネチア、ミラノの位置が確認できました。ぼんやりと須賀敦子の世界を思いました。
今回巡るバルセロナ、ニース、フィレンツェ、サンジミニャーノ、ローマに加えて数年前に訪ねたシチリア、さらにアフリカ大陸が視野に入ってくると、帯同した塩野七生のローマ人の物語「ハンニバル戦記」の世界が透けて見えてきます。(笑)
その昔、カルタゴ(現在のチュニジア共和国チュニス界隈)の若き司令官ハンニバルは、数万の兵士と象の部隊を引き連れてスペインに入り、極寒のアルプスを越えてイタリアに攻め込んだと言います。そう言えば、スペインや南フランスにも古代ローマの遺跡が点在していました。
バルセロナ、ニース、フィレンツェ、サンジミニャーノ、ローマを観光
スペイン第二の都市バルセロナは美しい街でした。この時期、街のあちらこちらでジャカランダの花が咲いていました。
圧巻は何と言っても1882年着工後いまだ建設が進められているサグラダ・ファミリアでした。ガウディ没100年にあたる2026年の完成をめざして急ピッチで工事が進んでいます。教会内には陽の光がステンドグラスを通して美しく輝き、敬虔な雰囲気に包まれていました。
翌朝カンヌ港に入港後、カンヌ国際映画祭が終わったばかりのニースに向い、南フランスの美しい海岸と旧市街地をのんびり散策しました。
たまたま旧市街地の広場で骨董市が開かれていました。じっくり品定めする時間はありませんでしたが、店先の品の色彩が美しく日本の弘法市とは全く異なる風景が広がっていました。
3日目はイタリアのリボルノ港に入港後、バスでフィレンツェ観光に出かけました。
旧市街地を散策したあと、ミケランジェロ広場から眺めたフィレンツェの街は、私の心の奥にしまっていた風景を再び蘇えさせてくれました。
4日目は、リボルノ港からバスでトスカーナにあるサンジミニャーノに向かいました。城壁で囲まれた中世の小さな街並みを今に伝える観光地です。
そして最後はローマです。チヴィタベッキアに入港すると、大型客船とはお別れです。下船手続きを済ませてバスの乗ってローマ市内に向かいました。ローマでの滞在はおよそ1日半。2階建バスに乗って古代ローマの史跡を巡り、コロッセオやフォロロマーノ、トレビの泉、スペイン広場、サンタマリアマッジョーレ教会などを見て回りました。
クルージングの海外旅行は今回が初めてでした。美術館などをじっくり見て回る余裕はありませんでしたが、街の風景と空気感を楽しむことができ、初老の夫婦にとっては快適な船旅でした。観光地の移動は基本的にバスですから通常のツアーよりも歩く距離は短く、足膝が悪い家内も何とか歩き通すことができました。旅の最終日、当初出かけるのを躊躇していた家内と美味しいワインをいただきながら話しました。後期高齢者になる前に、次は北欧から英国に至るクルージングを楽しもうと。今後の膝の具合と相談になります。どうなることやら。
※6月1日の夕刻、帰ってきました。ずいぶん長文になってしまいましたが、この旅行記はローマ空港から関西国際空港に向かう飛行機の中でスマホのメモ帳に綴ったものです。時差ぼけもあって眠れないので、予定を早めて本日ブログを更新させていただきました。