3月30日、第十一候 春分 末候「雷乃発声」(かみなりすなわちこえをはっす)。「桜の花が開くと寒冷前線の通過などにより、しばらく姿をひそめていた雷が鳴りやすくなる」季節。天気予報どおり、昨夜から雨が降っています。荒れ模様で雷注意報が発令されているようですが、昔人の季節感の確かさを思います。
そんな3月の下旬、新大阪駅のプラットホームには母親と一緒に歩く子供の姿が目立ちました。新幹線に乗って後の席には、女子学生のグループが話に興じています。世の中は春休みです。こうした周囲の微妙な変化を肌で感じながら、広島出張を繰り返した私も、今回が最後になりました。4月からは大阪を拠点に担当職務の任にあたることになります。
最後の広島出張は2日間でした。初日は、先代のトップのお墓参りを挟んで諸々の打ち合わせ、そして夜は懇親会。翌朝少し早めに起きると宿所の片付けです。必要な物だけダンボールに詰め込んで自宅に送り、不用品は処分してもらいました。部屋を出て7階でエレベーターを待っているとき、ふと遠くの山肌にモクレンの白い花が見えました。3年前に着任したときと同じ風景がそこにはありました。
午後、東広島市から呉市に移動、さらに広島市内に向かいます。春の陽気に誘われて桜の花が咲き始めていました。この日は現場視察とヒアリング、そして夕刻はまたまた懇親会。広島のお酒をたっぷり楽しんで、いつものように最終の新幹線に飛び乗って帰阪しました。お疲れ様でした。
そして昨日の土曜休日は、気分を一新。フェスティバルホールで杉本文楽「曽根崎心中」を見てきました。2年前に国立文楽劇場で見た作品ですが、何が違うのかと言えば、まずは舞台風景。文楽劇場が具象的であったのに対して、杉本文楽は抽象の世界。暗闇の中でスポットライトを浴びる人形の存在と内面が浮き彫りにされているように思いました。なによりもコンサートホールでの上演ですから、音響にも工夫がこらされていました。能楽が鼓であるのに対して文楽は三味線。それに横笛が場面を支えます。昨秋、マドリード、ローマ、パリで観客を魅了したといわれる所以です。
大坂の醤油商の手代、徳兵衛と天満屋の遊女お初の悲しい恋の物語です。「上演台本+解説」によれば、「恋を心中によって成就させることによって、二人の魂が浄土へ導かれるという革命的な解釈が、近松門左衛門によって披露されたのが人形浄瑠璃『曽根崎心中』である」とあります。
徳兵衛の仕事ぶりを見込んだ醤油商の主人は、姪と祝言を上げさせて彼に跡を継がせようとしますが、徳兵衛はそれを断ります。立腹した主人は継母に渡した多額の結納金を返せと迫る。なんとか金の工面をした徳兵衛ですが、悪友から3日限りの借金をせがまれ貸してしまいます。ところがお金が戻ってくるどころか、悪友は金を借りたことはないと言い張る。徳兵衛とお初は意を固め、夜中にお初の店を逃げ出し、曽根崎の森でこの世に別れを告げる。ざっとこんなシナリオです。
演出の杉本博司氏は「現代社会は死をなぜ隠蔽しようとするのでしょうか。そこには宗教の不在と科学の圧勝に見える世情もあります」「人間の意識の中では死こそが最大の関心であったことを現代人は忘れてしまったように思われます」「現代人に求められているものとは、死へと導かれる美しい理念、命を賭するほどの生きる理由、だと思います」と言います。深い言葉です。
上演後、太夫、三味線、人形師の方々全員が舞台の上に勢揃いして満場の観客にお礼をされた場面は、なにやら歌劇のフィナーレを思わせました。
歌劇と言えば先週の日曜日、Eテレの番組「クラシック音楽館」で、ミラノ・スカラ座日本公演 歌劇「リゴレット」(ヴェルディ)の録画放映がありました。2時間あまりの上演を最後まで見てしまいました。この歌劇も男女にまつわる悲劇です。娘ジルダの心を弄ぶ女好きのマントヴァ侯爵に復讐しようとする父親、せむしの道化師リゴレットの悲劇です。殺し屋を雇って侯爵を殺そうとしますが、娘ジルダは父リゴレットと侯爵との間で揺れ動く心に苦しみます。最後に下した決断は、自らが殺し屋に殺されることによって、二人を守ることでした。なんとも悲しい物語でした。
先月大槻能楽堂で見た「井筒」も、鎌倉時代の恋心がテーマでした。こうして振り返ってみると、洋の東西を問わず語り継がれた多くの物語が共通のテーマを追っているような気がします。言葉や文化は違っても、人間の本質的なところは何も違いはしない。にもかかわらず、あちらこちらで戦争という殺し合いが起きる。そこに宗教が絡むと出口が見えなくなってしまう。恐ろしいことですが、これもまた人間社会の側面なんでしょうか。
そんなことを思いながら、フェスティバルホールを出ると、家内のお買い物に同行して曽根崎を通って梅田に向かいました。むかしむかし、このあたりは森だった。その森の中で明け方、徳兵衛とお初が手を取り合って心中した。ふっと人形浄瑠璃の場面、薄暗い舞台に浮かび上がる二人が命を絶つ場面を思い出しました。満場の拍手に包まれ幕を閉じました。
帰り道、久しぶりに、大阪駅前第2ビル地下の「名曲堂」に立ち寄りました。ちょうどクラシック半額セールをやっていましたので、LPレコード「グレゴリオ聖歌集第1巻」を買って帰りました。きょうは、それを聴きながらのブログ更新でした。
「恋を菩提の橋となし。渡して救ふ観世音誓ひは。妙に有り難し」(人形浄瑠璃「曽根崎心中」第一段「観音廻り」)。