そうそう、先週、仕事の内容が変わったことをお話しましたが、実は4月から、ニ足の草鞋ではありませんが、週の半分を大阪、あとの半分を広島のオフィスで勤務することになりました。言えば、出張が常態化する、ということなんですが、なにやら落ち着かない日々を送ることになりそうです。まあ、健康に留意しつつ最後のご奉公をしようと思っています。
ところで、先週のブログに紹介した「没後80年金子みすゞ展~みんなちがって、みんないい。」のパンフレットを眺めていて、ふと思ったことがありました。金子みすゞが生まれたのが1903年4月11日。明治36年です。とすると、私の母は?と思い、机の奥から古い戸籍謄本を探しだしてみると、明治42年12月18日生まれとあります。西暦にして1909年生まれ。と言うことは、金子みすゞより6歳若い、といってもほぼ同世代であったことになります。それで思い出したのが、東京荻窪の新居で暮らし始めた新婚当時のセピア色の写真です。田舎の戸棚に並べられたアルバムの中にありました。そんなことを思うと、金子みすゞの世界が、ぐっと近づいてきます。
私は、9人兄弟姉妹の末っ子ですから、母が私を産んだのは40歳前後だったのだろうと思います。幼少の頃のことはあまり話しませんでしたが、それでも母は女学校時代の友達が尋ねてくると、人が変わったように活き活きとして、なにやら私とは違う世界を生きてきたことを思ったものです。母は島根県の生まれ、金子みすゞは山口県。地理的にも時代環境の面でも、そう遠く離れているわけではないのです。
それはそうと、先日、街の片隅に古書店を見つけたので寄り道をしました。そこで目に留まったのが、大正の哀愁「竹久夢二 絵ハガキ聚」。明治の終わりごろ、絵ハガキブームに沿う形で、早稲田鶴巻町の「つるや画房」から出版された夢二の作品が400図以上、そのうちの36枚を集めて復刻したものでした。大正時代といえばデモクラシーという言葉が浮かんできますが、日清・日露戦争をへて束の間の安定期にあって、享楽的な文化が生まれる一方で労働争議も起きる、そんな時代に生きた夢二の作品です。しかし、関東大震災で世の中は一変します。
人の生きざまを時代の大きな流れの中で振り返ってみますと、戦争に翻弄された時代、大きな自然災害に遭遇した時代.....。人は様々な苦難に遭遇しながら、しかし、強かに生きてきた。一歩ずつ成長・発展を遂げてきたことを思います。きのう土曜日は、若い方々と一緒に商店街で震災義援金活動を行いました。平時の募金とは違い、義援金箱には紙幣がたくさん。それほどに今回の震災は、私たちの心に何かを訴え自らの存在に思いを馳せることを強いたのではないかと思います。さりげなく1万円札を入れて去る人、大事に貯めてきた記念硬貨をビニール袋に一杯詰め込んで持ってきていただいたお婆さん。これに若い方々が大きな声で「ありがとうございました」と応えました。