心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

時代を生きる

2011-03-27 10:21:50 | Weblog
 久しぶりに陽の光に満ちた日曜日となりました。愛犬ゴンタと朝のお散歩をしていると、昨年も紹介した真っ黄色のミモザの花が咲き誇るお家、黄色いレンギョウの花が生け垣を飾るお家、硬い蕾のまま長い冬を耐えたモクレンのまっ白い花が開花したお家。近所の公園では、数日もすれば開花するほどに膨らんだ桜の蕾が陽の光を浴びています。そして我が家の庭にはローズマリーの花が咲き始めました。みな、何事もなかったかのように........。

 そうそう、先週、仕事の内容が変わったことをお話しましたが、実は4月から、ニ足の草鞋ではありませんが、週の半分を大阪、あとの半分を広島のオフィスで勤務することになりました。言えば、出張が常態化する、ということなんですが、なにやら落ち着かない日々を送ることになりそうです。まあ、健康に留意しつつ最後のご奉公をしようと思っています。
 ところで、先週のブログに紹介した「没後80年金子みすゞ展~みんなちがって、みんないい。」のパンフレットを眺めていて、ふと思ったことがありました。金子みすゞが生まれたのが1903年4月11日。明治36年です。とすると、私の母は?と思い、机の奥から古い戸籍謄本を探しだしてみると、明治42年12月18日生まれとあります。西暦にして1909年生まれ。と言うことは、金子みすゞより6歳若い、といってもほぼ同世代であったことになります。それで思い出したのが、東京荻窪の新居で暮らし始めた新婚当時のセピア色の写真です。田舎の戸棚に並べられたアルバムの中にありました。そんなことを思うと、金子みすゞの世界が、ぐっと近づいてきます。
 私は、9人兄弟姉妹の末っ子ですから、母が私を産んだのは40歳前後だったのだろうと思います。幼少の頃のことはあまり話しませんでしたが、それでも母は女学校時代の友達が尋ねてくると、人が変わったように活き活きとして、なにやら私とは違う世界を生きてきたことを思ったものです。母は島根県の生まれ、金子みすゞは山口県。地理的にも時代環境の面でも、そう遠く離れているわけではないのです。
 それはそうと、先日、街の片隅に古書店を見つけたので寄り道をしました。そこで目に留まったのが、大正の哀愁「竹久夢二 絵ハガキ聚」。明治の終わりごろ、絵ハガキブームに沿う形で、早稲田鶴巻町の「つるや画房」から出版された夢二の作品が400図以上、そのうちの36枚を集めて復刻したものでした。大正時代といえばデモクラシーという言葉が浮かんできますが、日清・日露戦争をへて束の間の安定期にあって、享楽的な文化が生まれる一方で労働争議も起きる、そんな時代に生きた夢二の作品です。しかし、関東大震災で世の中は一変します。

 人の生きざまを時代の大きな流れの中で振り返ってみますと、戦争に翻弄された時代、大きな自然災害に遭遇した時代.....。人は様々な苦難に遭遇しながら、しかし、強かに生きてきた。一歩ずつ成長・発展を遂げてきたことを思います。きのう土曜日は、若い方々と一緒に商店街で震災義援金活動を行いました。平時の募金とは違い、義援金箱には紙幣がたくさん。それほどに今回の震災は、私たちの心に何かを訴え自らの存在に思いを馳せることを強いたのではないかと思います。さりげなく1万円札を入れて去る人、大事に貯めてきた記念硬貨をビニール袋に一杯詰め込んで持ってきていただいたお婆さん。これに若い方々が大きな声で「ありがとうございました」と応えました。
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彼岸会

2011-03-21 10:42:50 | Weblog
 昨夕から降り始めた雨が今朝も残っています。寒くはないけれど、春先の雨は気分的に滅入ってしまいます。しかし、土にとっては恵みの雨なのかもしれません。1カ月ほど前から花壇の土を掘り返す作業をしているのですが、なんだかしっかりした顔つきになってきました。今年もたくさんのお花を咲かせてくれることでしょう。
 季節の移り変わりとともに、私も勤務部署を異動することにしました。ポストを予定より1年早く後進に譲り、今後はまさに経営陣の一員として事業体の建て直しに尽力することになります。4年ごとに部署を変えて改革を進めてきましたから、つぎのステージが本当の意味での最後のご奉公になるのだろうと思っています。

 そんな節目というわけでもありませんが、きのうは家内と一緒に、久しぶりに京都・知恩院にお参りをしてきました。少し遅めに出発したので、三門をくぐって急な石段(男坂と言われています)を登って御影堂に到着したのは、午後の3時を過ぎていました。彼岸会だからでしょう、多くの方々がお参りになっていて、堂内には読経とお香の香りが漂っていました。こうした敬虔な空間に身をおいてご先祖様と対峙しながら自らの身の振り方を考える。ひょっとしたら私は意外と信心深い人間なのかもしれません。というよりも、先の震災を目の当たりにして人間の非力さを思い知らされたこと、やはり宗教とはこういう一面をもっているのであろうと妙に納得したものです。
 広辞苑を開くと、彼岸とは「河の向う岸。生死の海を渡って到達する終局・理想・悟りの世界。涅槃ねはん」とあり、春は春分の日(21日)を中日としてその前後7日間を彼岸というのだそうです。「菩提の種を蒔く(迷いから離れようとする心をおこすこと)日」(知恩院)とも言われています。視点はすでに次を見据えているとも言えます。暫し仏前にお参りをしたあと、お灯明をあげようとすると、灯明料は東北地方太平洋沖地震義援金として寄付する主旨のお知らせが記されていました。心を込めてお供えをさせていただきました。
 東側の内陣には、彼岸会のときだけ、観無量寿経の世界を絵ときした「観経曼陀羅」が掲げられています。畳何畳分あるのでしょうか、それは大きな曼陀羅図です。インドの王舎城の悲劇をモチーフに、釈迦が阿弥陀仏と西方極楽浄土を思い描く16通りの方法を示したものです。絵の中央に描かれた阿弥陀の極楽浄土の姿が、私の心に安らぎを与えてくれます。この日、曼陀羅の前には東北地方太平洋沖地震物故者の御位牌が飾られていました。犠牲になられ方々を優しく浄土の世界にお導きになる、心のなかでそんなことを思いながら哀悼の意を捧げました。

 知恩院を後にすると、京都・大丸百貨店(大丸ミュージアム)で開催中の「没後80年金子みすゞ展~みんなちがって、みんないい。」に向かいました。折しも先日の震災以来、TVでは民間企業のCMに変えてACジャパン(旧公共広告機構)制作のキャンペーンCM、金子みすゞの詩「こだまでしょうか」が放映されています。自然の脅威に人間の非力さを思いながらも、人の「こころ」に問いかける金子みすゞさんの詩の世界。形容詞をひとつひとつ取り去ったあとに残る、言葉の重み。ふだん、あまりにも多くの仰々しい言葉に振り回されている私にとって、金子みすゞさんの詩の世界には格別の思いがあります。このブログではこれまで「大漁」と「私と小鳥と鈴を」の2作を全文掲載していますが、今回は、この「こだまでしょうか」を掲載しましょう。

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。



 知恩院から四条通りに向かう途中、円山公園では東山花灯路2011の一環として各流派家元等による生け花展が催されていて、そこでも作品の横に震災お見舞いの言葉が添えてありました。近年少し樹勢が弱っていた祇園枝垂桜も、心なしか元気を持ち直したようで、その姿をバックに生け花を撮影した写真を添えて本日のブログ更新を終えます。
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自然の脅威

2011-03-13 09:45:53 | 愛犬ゴンタ

 3月11日午後、仕事中にゆったりとした横揺れの地震がありました。普通の地震と違い、ずいぶんな時間身体が浮いているような感じがしました。「これはただごとではない」と思いながら、それでも気を持ち直して仕事に戻りました。その後打合せに向かうと、部屋のTVに数人が釘付けでした。ちょうど、大津波が街を襲い田畑を呑み込もうとしている瞬間の映像が映し出されていました。国内最大の地震と津波が東北地方を襲いました。大惨事です。なす術もなく映像を追っていました。美しい海原も、街並みも一瞬のうちに瓦礫の街に変わってしまう。なんとも恐ろしいことです。自然の脅威、人間の非力さを思わずにはいられませんでした。被災された方々には心からお見舞い申し上げます。

 その夜、長男宅から電話がありました。奥さん曰く、長男が盛岡市に出張しているが連絡が取れない、と。TVを見ると、盛岡市内も停電しているようす。本人と連絡がとれたのは翌日の昼過ぎでした。寒くて暗いホテルで一夜を過ごしたあとは避難場所に移動しているのだとか。大人数の方が安心なのでしょう。当面動きようがないので避難者の支援活動を始めた、とも言っていました。夕方には電気も復旧したようで安堵しましたが、新幹線がズタズタなので、戻るのはもう少し先になりそうです。実はもう一人、気になる親類がいます。仙台市にいる従兄弟です。彼とは未だ連絡が取れていません。住所を頼りにgoogleで地図を検索すると海沿いではないので大丈夫そうですが、予断は許しません。もう少し事態の推移を見守ることにしました。

 ただ、googleで地図を検索していて驚いたことがあります。ストリートビューという画面のことです。検索した住所の家の写真画像が掲載されていました。驚いて我が家の住所で検索すると、昨年の夏であろう時期の我が家の姿が映っていました。何か怖い気がしました。ここまでする必要があるのかどうか。なんの意味があるのかどうか。個人情報保護が叫ばれているご時世、自宅住所も安易に公開できないと、思ってしまいました。

 というわけで、きょうはあまり多くを語ることは控えます。先日開花したカトレア(Love Silence Thriling)と、そう、何の悩みもなく陽だまりで寝っ転がる愛犬ゴンタの不様な写真を掲載して、本日のブログ更新はこれでお終いです。

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気になる「超老人力」

2011-03-06 09:54:32 | Weblog
 暖かくなったり肌寒さを感じたり。季節は確実に「春」に向かって胎動を始めました。愛犬ゴンタも、陽だまりに寝っ転がって過ごす時間が多くなったように思います。きょうはまずは、家内がいけたクリスマスローズとスイセンの花をトップの写真に掲載させていただきました。

 そしておもむろに、わたしのLPコレクションの中から、グレン・グールドの「モーツァルト・ピアノソナタ全集」を取り出しました。私が7歳の頃の1957年11月9日に録音されたソナタ第1番ハ長調K.279から、社会人2年目の1974年9月7日に録音の第17番ニ長調K.576まで、5枚のレコードに収められています。録音の年代と私自身の歩みを重ね合わせながら、グールドのピアノを楽しむ、なんとも贅沢な時間です。

 ところで、先週は金曜日の夜、今春ご定年になる同業他社の先輩を囲む会に出席しました。20年来のお付き合いですが、夕陽ヶ丘のひっそりとした料亭で夜遅くまで話がつきませんでした。これまでの20年を思うと、私自身の仕事人生も、あと数えるしか残っていません。
 そしてきのうの土曜日は、田舎の関西の会の役員会があり、出席してきました。町役場からも担当の方がお見えになって近況報告を聴きましたが、なんと今年は山間の村で2メートル80センチの積雪、中心部でもずいぶんな積雪だったようで、前日も3月だというのに20センチ積もったのだとか。大阪では先日5センチほど雪が積もりましたが、集まった方々の中に孫のために雪だるまを作った方々がたくさんいらっしゃったのは、やはり古き良き時代を思い出してのことなのでしょうか。1時間の会議のあとは、真っ昼間から懇親会と称する呑み会とあいなりました。
 で、4時過ぎに自宅に戻ると、なぜか身体が重くて。ベッドに横たわると夕食までの2時間ぐっすり眠ってしまいました。日頃の疲れ?。いや、時の移ろいに自分の立ち位置を見いだせないでいる心の不安?。日常と非日常の間を僅かな時間の中で行ったり来たりしたことの、心の迷い、落ち着きのなさ、そんな心の揺れが、どっと疲れとなって私に迫ってきた、ということなんでしょうか。熟睡状態でした。
 夕食を終えると、1月にお亡くなりになった出雲の叔母さんの満中陰志のお礼のため、従兄弟に電話を入れました。私より年上で既に教員生活をリタイアしているのですが、同じ教員務めの奥さんも仕事をやめ、二人で畑仕事をしながら悠々自適の生活をしているのだと。そろそろ、わたしも次の生き方を真剣に考える時期に来たように思いました。
 そういえば、私が高校3年生の頃、大学生だった彼は、自転車旅行が好きで自転車で全国を巡っていました。ちょうど受験勉強真っ最中の我が家にもやってきて、大学生活を謳歌している姿になにやら励まされてことを覚えています。母が用意してくれた大きな西瓜をほおばりながら、これからの人生を語り合ったものです。

 ああ、視点が過去に向き過ぎている。これではだめですねえ。気を取り戻して、きのう発売の、多様性を考える言論誌「Kotoba」(季刊誌2011年春号)に目を通さねば。今号の特集は「クリント・イーストウッドの”超老人力”」でした。当分、超老人力という言葉に拘りながら、この雑誌と睨めっこする日が続きそうです。
 グレン・グールドのLPも、2枚目のA面が終わろうとしています。ソナタ第6番ニ長調K.284です。ちょうど従兄弟が自転車旅行の途中に立ち寄ってくれた1968年の9月19日の録音でした。
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