日本全土に寒波が訪れています。日本海側は大雪のようですが、ここ大阪は寒い寒い快晴の日曜日です。そんな寒い休日も、愛犬ゴンタとお散歩にでかけました。なだらかな丘に群生する水仙の花を冬の陽の光が暖かく包み込む、そんな風景を眺めてほっとしました。
ところで、きのうは仕事を早く切り上げると、京阪百貨店の催し会場で開かれていた第7回関西らんフェスタに立ち寄りました。本格的なラン展を訪れる機会の少ない私にとって楽しみのひとつですが、今回は欲張らないで原種デンドロのプリムリナム1株を買い求めました。展示コーナーを見て回りながら、いったいどうしてこんなに上手く育てられるのだろうと感心しつつ帰途につきました。
こんな感じで月末の1週間を終えました。振り返って23日の日曜日は、予定どおり東京に行ってきました。朝の7時前に家を出ると東京駅には10時30分頃に到着します。丸の内から地下鉄大手町駅まで徒歩、そこで三田線に乗ってひと駅のところに神保町はあります。古書の街に到着して、でも、うっかりしていました。日曜日はお休みの店が多かったのです。それでも馴染みの小宮山書店は開いていました。1階、2階、3階、4階と見て回り、そのあと店の裏で開かれている休日限定のガレージセールも覗きました。「1冊から3冊まで500円」、つまり1冊でも3冊でも500円という価格設定です。
この日の成果物は、なんといっても「グレン・グールド著作集(1)バッハからブーレーズへ」です。定価5千円が2千5百円でした。グールド関係の書物もこれまでずいぶん読みましたが、ここに来て、他人の解釈が入らないグールドご本人の著作に触れてみたい、そんな思いを最近強くしていたところでした。
ガレージセールでは、池上嘉彦ほか著「文化記号論への招待」、中村雄二郎著「パトスの知」、そして森有正著「経験と思想」の3冊を500円で購入しました。これはいつ読むのかは未定ですが、ただ、森有正さんについては以前から関心をもっています。森さんは自らオルガンを演奏され、そのLPレコードが何枚か出ているのです。そのうちの3枚が私の手元にありますが、演奏だけでなく氏の哲学を語る貴重な音声が刻まれています。それを時々ぼんやり聴くことがあります。
ここで時間を潰してしまいましたので、急いで地下鉄東西線九段下駅まで歩いて、本来の目的地であるホテルに向かいました。もちろん、帰りの新幹線の中では手にした本を眺めておりましたので、あっと言う間に新大阪駅についてしまいました。
そうそう週末の金曜日の夜は、某ホテルでお客様とご懇談をしておりましたが、その帰り道、地下鉄御堂筋線の梅田駅で、なんと私の尊敬する先生にばったりお会いする場面もありました。一日中デスクにしがみついて無い知恵を絞り出す日もあれば、こういう楽しい出会いの日もある。なんとも楽しい1週間を過ごすことができました。2011年最初の1カ月は、こうして過ぎ去ろうとしています。きょうの日曜日は読書三昧の1日になりそうです。
一昨日の夜、帰宅する際に見たお月さまは、それは大きなお姿でした。翌朝出勤する際も、白む西の彼方にお顔を拝見いたしました。そしてその夜、少し遅めのご帰還でしたが、縁側から望むお月さまは、ぼんやりと傘を被っていらっしゃいました。冷え冷えとした空気がなせる技でしょうか。こうして何十億年もの間、人とお月さまとのお付き合いは続いています。
そんな気の遠くなることばかり考えていると、なんだか頭の中がおかしくなりそうですが、しかし時代は、気づかないだけで、何かが蠢いている、そうなんでしょうよ。きっと。その、目にみえない胎動のようなものを、私たちは見誤ってはならないのだと思います。
めずらしく小難しいことに思いを馳せる。なぜこんな書き出しになるのだろうと、一瞬立ち止まって考えてみると、意外に単純なことでした。先日、通勤電車の中でぱらぱらとめくっていた中村雄二郎・山口昌男著「知の旅への誘い」(岩波新書)の影響を受けたのでしょう。いつもの癖です。日々の出来事の中で隘路に陥ってしまいそうな、そんな状況に追い込まれると、ついついこの種の本を眺めては頭の切り替えをしている自分に気づきます。といっても、分厚い哲学書は適いません。隙間時間をもてあそぶには新書がお手軽なのです。
で、その新書を読んで印象深かったのは「ブリコラージュ(仏語bricolage)」という言葉でした。広辞苑によれば、「器用仕事、寄せ集め細工の意。ありあわせの道具と材料とを用いて何かを作ること。明確な概念を用いる近代的思考とは異なる、人類に普遍的な思考を表す」とあります。精緻で普遍的な科学的知識に相対するものとして「人間経験のうちに内在する知恵をもっと生かすような知の在り方」。使い慣れた道具や材料を十分に生かして自分の手でものを作ること、つまり手仕事=器用仕事、これをブリコラージュというのだそうです。そこにある種の創造性の意味を見出す。さらに論は進み、多くの材料を集め、その集めてきたものを新しい関係のうちに捉えなおす、引用の理論へと導きます。「引用の理論は、創造活動が決して真空の中で無前提に行われるのではないこと、創造活動の在り様は既存の諸要素を大きく媒介している」と締めくくります。
一遍上人を例に「捨てる」ことの意味を問いながら、蒐集、ブリコラージュ、引用へと展開する、この11頁ほどの小論を、私は行きと帰りの2回読んでしまいました。考えてみれば私もモノを集める癖があります。旅に出ると、その国その土地の石ころをそっとポケットに入れて帰ります。LPレコードやCDも、最近はひとつのテーマを追っている。本もそう。こうして集めたモノの中に自分の世界を無意識のうちに築いている。どう関係性を付与し、新しい知見を見出してくか。そこに「遊び心」がうまく機能すれば、難題・課題も決して難しいことではない。そんなことを思いながら、夜遅く自宅の玄関に立つのでした。
きょうの土曜日は久しぶりに1日、自宅で過ごしました。朝はいつも通り愛犬ゴンタとお散歩を楽しみ、どんど焼というわけでもありませんが庭の真ん中でお正月の飾り類を燃やし、昼下がりには熱帯魚の水槽を掃除して、あとは部屋で読みかけの本を開く。そんな穏やかな一日を過ごしました。
ところで明日の日曜日は、午後、あるトップの方の退任慰労会に出席するため東京に行ってきます。なので、一日早いブログ更新となりました。少し早めにでかけ、神保町界隈を散策したあと某ホテルに向かいます。
そんな気の遠くなることばかり考えていると、なんだか頭の中がおかしくなりそうですが、しかし時代は、気づかないだけで、何かが蠢いている、そうなんでしょうよ。きっと。その、目にみえない胎動のようなものを、私たちは見誤ってはならないのだと思います。
めずらしく小難しいことに思いを馳せる。なぜこんな書き出しになるのだろうと、一瞬立ち止まって考えてみると、意外に単純なことでした。先日、通勤電車の中でぱらぱらとめくっていた中村雄二郎・山口昌男著「知の旅への誘い」(岩波新書)の影響を受けたのでしょう。いつもの癖です。日々の出来事の中で隘路に陥ってしまいそうな、そんな状況に追い込まれると、ついついこの種の本を眺めては頭の切り替えをしている自分に気づきます。といっても、分厚い哲学書は適いません。隙間時間をもてあそぶには新書がお手軽なのです。
で、その新書を読んで印象深かったのは「ブリコラージュ(仏語bricolage)」という言葉でした。広辞苑によれば、「器用仕事、寄せ集め細工の意。ありあわせの道具と材料とを用いて何かを作ること。明確な概念を用いる近代的思考とは異なる、人類に普遍的な思考を表す」とあります。精緻で普遍的な科学的知識に相対するものとして「人間経験のうちに内在する知恵をもっと生かすような知の在り方」。使い慣れた道具や材料を十分に生かして自分の手でものを作ること、つまり手仕事=器用仕事、これをブリコラージュというのだそうです。そこにある種の創造性の意味を見出す。さらに論は進み、多くの材料を集め、その集めてきたものを新しい関係のうちに捉えなおす、引用の理論へと導きます。「引用の理論は、創造活動が決して真空の中で無前提に行われるのではないこと、創造活動の在り様は既存の諸要素を大きく媒介している」と締めくくります。
一遍上人を例に「捨てる」ことの意味を問いながら、蒐集、ブリコラージュ、引用へと展開する、この11頁ほどの小論を、私は行きと帰りの2回読んでしまいました。考えてみれば私もモノを集める癖があります。旅に出ると、その国その土地の石ころをそっとポケットに入れて帰ります。LPレコードやCDも、最近はひとつのテーマを追っている。本もそう。こうして集めたモノの中に自分の世界を無意識のうちに築いている。どう関係性を付与し、新しい知見を見出してくか。そこに「遊び心」がうまく機能すれば、難題・課題も決して難しいことではない。そんなことを思いながら、夜遅く自宅の玄関に立つのでした。
きょうの土曜日は久しぶりに1日、自宅で過ごしました。朝はいつも通り愛犬ゴンタとお散歩を楽しみ、どんど焼というわけでもありませんが庭の真ん中でお正月の飾り類を燃やし、昼下がりには熱帯魚の水槽を掃除して、あとは部屋で読みかけの本を開く。そんな穏やかな一日を過ごしました。
ところで明日の日曜日は、午後、あるトップの方の退任慰労会に出席するため東京に行ってきます。なので、一日早いブログ更新となりました。少し早めにでかけ、神保町界隈を散策したあと某ホテルに向かいます。
ここ大阪も、きょうはずいぶん冷えました。今朝の気温は―2℃とあります。愛犬ゴンタとお散歩に出かけるとき水入れをみたら、厚さ2センチほどの氷が張っていました。これで雪でも積もっていたら、少し温かいかと思いますが、空は晴天です。寒さもひとしおです。
この寒さですから、朝、お布団から抜け出すのに勇気がいります。きのうの朝は少し早く目覚めたので、ラジオのスイッチを入れると、NHKラジオ第一放送で「クラシックでお茶を」をやっていました。この日のテーマは「童謡“むすんでひらいて”」でした。
この番組は、毎週土曜日の早朝5時40分頃に、ヴァイオリニストの千住真理子さんがクラシック音楽についてお話になっています。週末の気楽さも手伝って、いつも温かい布団のなかでぼんやりと聴きながら目覚め時を計っている、私にとっては「至高の時」でもあります。
「むすんで♪ ひらいて♪ 手をうって♪ むすんで♪ またひらいて♪ 手をうって♪その手を♪上に♪」。この童謡の原曲を、社会契約論などを著したジャン=ジャック・ルソーが作曲したとは知りませんでした。ルソー作曲のオペラ「村の占い師」第8場のパントマイム劇で用いられた曲なのだそうです。その原曲を聴きましたが、似ているようで、似ていないような、そんな印象です。この曲はその後、讃美歌に使われたり、軍歌に使われたりしました。1881年頃には「見渡せば」と言う題名をつけられ、文部省唱歌に加えられました。そして現在の童謡は、戦後に定着したようです。時代の変遷が童謡、唱歌にも大きく係わっていることを思いました。
その日の夜、居間で夕刊を眺めていると、電話が鳴り響きました。受話器をとって、?。無言電話かと思いきや、突然「さいた♪さいた♪チューリップの花が♪ならんだ♪ならんだ♪赤 白 黄色 ♪ どの花みても♪きれいだな♪」。小さな子が大きな声で歌うのです。そうなんです。甲府にいる孫娘が、覚えたての童謡を精一杯歌ってくれました。最近、孫たちが時々電話をしてくれます。お相手は、やはりお祖母ちゃんです。この日は朝から晩まで童謡につつまれた1日でした。
そんな温かい気持ちで過ごした土曜の夜は、録画をしておいたヴェルディ―の歌劇「椿姫」を観ました。2007年にミラノ・スカラ座で演じられたものですが、ヴィオレッタ役はアンジェラ・ゲオルギュ―です。アルフレード・ジェルモン役はラモン・ヴァルガスが、その父ジョルジョ・ジェルモンはロベルト・フロンターリ。指揮はロリン・マゼールでした。この歌劇、ストーリーは極めて単純なものですが、いつものめり込むように観てしまいます。寒風吹き荒ぶ冬の夜長、私の心は温かさで満ち溢れ、ぐっすり眠ることができました。
寒い日は、部屋を暖かくして、ウイスキーを片手に本を読んだり音楽を聴いたり。こうした時間が持てるのも週末だけですが、ひとつの世界にのめり込むことで心の迷いを払拭することができるから、人間って不思議な生き物です。
※掲載した写真3点はNHKBShi「プレミアムシアター」で放映された歌劇「椿姫」のひとコマを撮影したものです。
この寒さですから、朝、お布団から抜け出すのに勇気がいります。きのうの朝は少し早く目覚めたので、ラジオのスイッチを入れると、NHKラジオ第一放送で「クラシックでお茶を」をやっていました。この日のテーマは「童謡“むすんでひらいて”」でした。
この番組は、毎週土曜日の早朝5時40分頃に、ヴァイオリニストの千住真理子さんがクラシック音楽についてお話になっています。週末の気楽さも手伝って、いつも温かい布団のなかでぼんやりと聴きながら目覚め時を計っている、私にとっては「至高の時」でもあります。
「むすんで♪ ひらいて♪ 手をうって♪ むすんで♪ またひらいて♪ 手をうって♪その手を♪上に♪」。この童謡の原曲を、社会契約論などを著したジャン=ジャック・ルソーが作曲したとは知りませんでした。ルソー作曲のオペラ「村の占い師」第8場のパントマイム劇で用いられた曲なのだそうです。その原曲を聴きましたが、似ているようで、似ていないような、そんな印象です。この曲はその後、讃美歌に使われたり、軍歌に使われたりしました。1881年頃には「見渡せば」と言う題名をつけられ、文部省唱歌に加えられました。そして現在の童謡は、戦後に定着したようです。時代の変遷が童謡、唱歌にも大きく係わっていることを思いました。
その日の夜、居間で夕刊を眺めていると、電話が鳴り響きました。受話器をとって、?。無言電話かと思いきや、突然「さいた♪さいた♪チューリップの花が♪ならんだ♪ならんだ♪赤 白 黄色 ♪ どの花みても♪きれいだな♪」。小さな子が大きな声で歌うのです。そうなんです。甲府にいる孫娘が、覚えたての童謡を精一杯歌ってくれました。最近、孫たちが時々電話をしてくれます。お相手は、やはりお祖母ちゃんです。この日は朝から晩まで童謡につつまれた1日でした。
そんな温かい気持ちで過ごした土曜の夜は、録画をしておいたヴェルディ―の歌劇「椿姫」を観ました。2007年にミラノ・スカラ座で演じられたものですが、ヴィオレッタ役はアンジェラ・ゲオルギュ―です。アルフレード・ジェルモン役はラモン・ヴァルガスが、その父ジョルジョ・ジェルモンはロベルト・フロンターリ。指揮はロリン・マゼールでした。この歌劇、ストーリーは極めて単純なものですが、いつものめり込むように観てしまいます。寒風吹き荒ぶ冬の夜長、私の心は温かさで満ち溢れ、ぐっすり眠ることができました。
寒い日は、部屋を暖かくして、ウイスキーを片手に本を読んだり音楽を聴いたり。こうした時間が持てるのも週末だけですが、ひとつの世界にのめり込むことで心の迷いを払拭することができるから、人間って不思議な生き物です。
※掲載した写真3点はNHKBShi「プレミアムシアター」で放映された歌劇「椿姫」のひとコマを撮影したものです。
今年のお正月は、元旦に続いて翌2日も初詣に出かけました。長く関西にいながら、これまでお正月には一度も行ったことのなかった石清水八幡宮と伏見稲荷大社に家内と次男君を連れてでかけました。いずれもびっくりするほどの人出で、本殿に辿りつくのに40分ほどかかる、そんな初詣でした。
伏見稲荷では、本殿にお参りをしたあと、千本鳥居を通って奥社奉拝所まで歩きましたが、そこにおもしろいものがありました。「おもかる石」です。願い事の成就可否を念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難い、それを自ら占うというものでした。で、持ち上げてみると、思っていたよりも軽く感じました。なんだか期待の持てる1年になりそうです。
そんなのんびりしたお正月休みを終えると、4日の大阪新年互礼会を皮切りに週明けの広島での新年会まで、連日どこかの会場に顔を出す、そんな日々が続きました。ということで今日は中休みといったところでしょうか。
今日はいつも通り朝早く目覚めると愛犬ゴンタとお散歩でした。出がけに玄関の窓をみるとしめ飾りの稲穂を2羽の雀が啄んでいました。親子でしょうか、それともご夫婦なんでしょうか、互いに相手に目配りしながら朝食を楽しんでいるようでもありました。そんなわけで少し出発の時刻を遅らせて出かけましたが、いつも通るバス通りに差しかかると朝日が眩しく街を照らしはじめていました。いつも通りの風景のなかでいつも通りお散歩をしている。もう何年も同じことをしてきたような錯覚を覚えました。
そうそう、お正月休み最終日の3日夜、ふだんの生活に戻ることへの無意識の拒否反応なのか、なかなか寝つけなかったので、ベッドのなかでNHK「ラジオ深夜便」を聴いていました。アンカーは遠藤ふき子アナウンサー。そう午前2時頃からでしょうか。新春特集「クラシックを楽しむ」というコーナーがあって、文春新書「丸山眞男 音楽の対話」を著した音楽プロデューサーの中野雄さんが登場されていました。その中野さんが紹介されたのがピアニストの上杉春雄さんとテノールの米澤傑さんでした。夢うつつのなかでなぜか印象に残ったのは、上杉さんが札幌麻生脳神経外科病院神経内科医長、米澤さんが鹿児島大学医学部教授(病理学)にして国際的に注目される論文を多数発表されていながら、お二人とも積極的にコンサートをこなし、CDも発売しているという異色の人材であったことでした。
今年はうさぎ年ですが、「二兎を追う者は一兎をも得ず」。同時に二つの事をしようとすれば両方とも成功しない、というのが凡人の理解ですが、このお二人は凄い。右脳と左脳の構造が違うのかなあと思いつつ、うつらうつらしながらいつの間にか朝を迎えました。
翌4日、新年会の帰り道、紀伊国屋書店に立ち寄って「人間の建設」という薄っぺらな新潮文庫を買って電車のなかで読みました。評論家の小林秀雄さんと数学者の岡潔さんの対談なのですが、文と理の巨人の対談を興味深く眺めました。アインシュタインが登場し、ベルグソンが登場する。お二人の議論に全く違和感がない。いったいどういうことだ。
この、激動にして多様性に富んだ時代、限定された視点だけでものを見てはいけない、ということの警鐘のように、私には思えました。これらの方々の真似は決してできないけれども、しかし自らの思考を意識して狭める必要もないだろう。むしろ自由奔放に発想を広げていくことの楽しさのようなものを気づかせていただきました。ことし1年も楽しく、そして貪欲に物事を見、考えていこうと思います。
伏見稲荷では、本殿にお参りをしたあと、千本鳥居を通って奥社奉拝所まで歩きましたが、そこにおもしろいものがありました。「おもかる石」です。願い事の成就可否を念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難い、それを自ら占うというものでした。で、持ち上げてみると、思っていたよりも軽く感じました。なんだか期待の持てる1年になりそうです。
そんなのんびりしたお正月休みを終えると、4日の大阪新年互礼会を皮切りに週明けの広島での新年会まで、連日どこかの会場に顔を出す、そんな日々が続きました。ということで今日は中休みといったところでしょうか。
今日はいつも通り朝早く目覚めると愛犬ゴンタとお散歩でした。出がけに玄関の窓をみるとしめ飾りの稲穂を2羽の雀が啄んでいました。親子でしょうか、それともご夫婦なんでしょうか、互いに相手に目配りしながら朝食を楽しんでいるようでもありました。そんなわけで少し出発の時刻を遅らせて出かけましたが、いつも通るバス通りに差しかかると朝日が眩しく街を照らしはじめていました。いつも通りの風景のなかでいつも通りお散歩をしている。もう何年も同じことをしてきたような錯覚を覚えました。
そうそう、お正月休み最終日の3日夜、ふだんの生活に戻ることへの無意識の拒否反応なのか、なかなか寝つけなかったので、ベッドのなかでNHK「ラジオ深夜便」を聴いていました。アンカーは遠藤ふき子アナウンサー。そう午前2時頃からでしょうか。新春特集「クラシックを楽しむ」というコーナーがあって、文春新書「丸山眞男 音楽の対話」を著した音楽プロデューサーの中野雄さんが登場されていました。その中野さんが紹介されたのがピアニストの上杉春雄さんとテノールの米澤傑さんでした。夢うつつのなかでなぜか印象に残ったのは、上杉さんが札幌麻生脳神経外科病院神経内科医長、米澤さんが鹿児島大学医学部教授(病理学)にして国際的に注目される論文を多数発表されていながら、お二人とも積極的にコンサートをこなし、CDも発売しているという異色の人材であったことでした。
今年はうさぎ年ですが、「二兎を追う者は一兎をも得ず」。同時に二つの事をしようとすれば両方とも成功しない、というのが凡人の理解ですが、このお二人は凄い。右脳と左脳の構造が違うのかなあと思いつつ、うつらうつらしながらいつの間にか朝を迎えました。
翌4日、新年会の帰り道、紀伊国屋書店に立ち寄って「人間の建設」という薄っぺらな新潮文庫を買って電車のなかで読みました。評論家の小林秀雄さんと数学者の岡潔さんの対談なのですが、文と理の巨人の対談を興味深く眺めました。アインシュタインが登場し、ベルグソンが登場する。お二人の議論に全く違和感がない。いったいどういうことだ。
この、激動にして多様性に富んだ時代、限定された視点だけでものを見てはいけない、ということの警鐘のように、私には思えました。これらの方々の真似は決してできないけれども、しかし自らの思考を意識して狭める必要もないだろう。むしろ自由奔放に発想を広げていくことの楽しさのようなものを気づかせていただきました。ことし1年も楽しく、そして貪欲に物事を見、考えていこうと思います。
2011年のお正月は、長女一家に横浜から帰省した次男君を交えて、近くの不動尊に初詣にでかけました。元旦にしては人出が少ないようですが、それでも門の前から本殿まで長い長い行列が続きます。本殿の手前まで辿りついた頃には、孫君は眠ってしまいました。
参拝をしたあとは恒例の開運御神籤です。なんと今年も「大吉」と出ました。小さな紙には「思う事 思うが まゝに なしとげて 思う事なき 家の内哉」とあり、「目上の人の思いがけない引立で 心のまゝに調い家内仲良く暮らせます。色を慎み身を正しく目上の人を敬って目下の人を慈めば愈々運開きます」との説明が添えられていました。自分を信じて他者にも目配りが出来ることが求められているのでしょう。大切にお財布に納めました。
さぁて、2011年という年は、いったいどんな年になるんでしょうか。御神籤から離れて少し具体的なイメージを考えてみるのですが、なにやら重いものを予感させます。齢を重ねるにつれて思うのは、限定された業界動向やら職務の専門性というよりも、なにかもっと根源的な、ある種哲学の世界を徘徊するような、たとえば人間の在り様について、あるいは歴史観について思いを馳せる、そんな傾向が強くなったように思います。
そんななか、季刊誌「Kotoba」第2号に掲載された、経済学者の中谷巌さんと哲学者の長谷川三千子さんの、8頁ほどの対談「資本主義をその根本存在から疑う」は、私にとって今年の大きなテーマを予感させるものでした。「西洋近代は、人間を神の呪縛から解き、共同体の呪縛から解き、自然の呪縛から解き放った」「その結果、人間は大地から引き離され、いわば根無し草になった」。対談は欧米に翻弄された市場原理主義の現実に触れ、また欧米の階級社会の上に成立する企業の内部統制論、監視する側とされる側の分断をも指摘したうえで「それは日本の伝統的な組織の信頼関係を否定するものではないか」とも。しかし、一方では「中国四千年の歴史といっても、今の中国人はその歴史を壊した人たちです」「欧米型ではない新しい社会を構想できる可能性があるのはインドでしょうね」という文明論からの示唆もあります。がむしゃらに成長する必要はないが「我々らしく、焦らずに成長していくべき」だとも。ふたりの対談が、御神酒の酔いのなかで私をカオスの世界に誘います。とは言え、お正月の三が日は、御神酒の抜けきらない日々を過ごしていますので、いま暫く心のなかで熟成させながら初出の日を迎えたいと思います。
そうそう園芸の話題を二つ。まずは、この休暇中に冬咲きのカトレアが開花しました。チャイニーズ・ビューティー「オーキッド・クイーン」という品種です。このカトレア、数年前に関西らんフェスタ(京阪百貨店)で購入した株です。夏の管理が不十分だったのか、やや小ぶりですが、それでも、ある種の気品を感じさせるのはカトレアだからでしょうか。
もうひとつはクリスマスローズの話題ですが、年末にホームセンターで新種の株を購入したこともあり、改めてその栽培方法をおさらいしたところ、これまで古葉の処理を全くしてこなかったことに気づきました。「趣味の園芸」1月号によれば、古い葉が地面につくほどに大きくなると、根元の蕾や新芽に陽が当たりにくくなるとか。さっそく庭に出て、地植えの株の葉っぱを切り取ると、古葉の下から初々しい蕾と新芽が顔を覗かせました。嬉しいですねえ。寒い季節なのに元気一杯です。すでに2011年という年の行く末を見据えて、開花の準備を進めているのです。私も見習わなければ。
参拝をしたあとは恒例の開運御神籤です。なんと今年も「大吉」と出ました。小さな紙には「思う事 思うが まゝに なしとげて 思う事なき 家の内哉」とあり、「目上の人の思いがけない引立で 心のまゝに調い家内仲良く暮らせます。色を慎み身を正しく目上の人を敬って目下の人を慈めば愈々運開きます」との説明が添えられていました。自分を信じて他者にも目配りが出来ることが求められているのでしょう。大切にお財布に納めました。
さぁて、2011年という年は、いったいどんな年になるんでしょうか。御神籤から離れて少し具体的なイメージを考えてみるのですが、なにやら重いものを予感させます。齢を重ねるにつれて思うのは、限定された業界動向やら職務の専門性というよりも、なにかもっと根源的な、ある種哲学の世界を徘徊するような、たとえば人間の在り様について、あるいは歴史観について思いを馳せる、そんな傾向が強くなったように思います。
そんななか、季刊誌「Kotoba」第2号に掲載された、経済学者の中谷巌さんと哲学者の長谷川三千子さんの、8頁ほどの対談「資本主義をその根本存在から疑う」は、私にとって今年の大きなテーマを予感させるものでした。「西洋近代は、人間を神の呪縛から解き、共同体の呪縛から解き、自然の呪縛から解き放った」「その結果、人間は大地から引き離され、いわば根無し草になった」。対談は欧米に翻弄された市場原理主義の現実に触れ、また欧米の階級社会の上に成立する企業の内部統制論、監視する側とされる側の分断をも指摘したうえで「それは日本の伝統的な組織の信頼関係を否定するものではないか」とも。しかし、一方では「中国四千年の歴史といっても、今の中国人はその歴史を壊した人たちです」「欧米型ではない新しい社会を構想できる可能性があるのはインドでしょうね」という文明論からの示唆もあります。がむしゃらに成長する必要はないが「我々らしく、焦らずに成長していくべき」だとも。ふたりの対談が、御神酒の酔いのなかで私をカオスの世界に誘います。とは言え、お正月の三が日は、御神酒の抜けきらない日々を過ごしていますので、いま暫く心のなかで熟成させながら初出の日を迎えたいと思います。
そうそう園芸の話題を二つ。まずは、この休暇中に冬咲きのカトレアが開花しました。チャイニーズ・ビューティー「オーキッド・クイーン」という品種です。このカトレア、数年前に関西らんフェスタ(京阪百貨店)で購入した株です。夏の管理が不十分だったのか、やや小ぶりですが、それでも、ある種の気品を感じさせるのはカトレアだからでしょうか。
もうひとつはクリスマスローズの話題ですが、年末にホームセンターで新種の株を購入したこともあり、改めてその栽培方法をおさらいしたところ、これまで古葉の処理を全くしてこなかったことに気づきました。「趣味の園芸」1月号によれば、古い葉が地面につくほどに大きくなると、根元の蕾や新芽に陽が当たりにくくなるとか。さっそく庭に出て、地植えの株の葉っぱを切り取ると、古葉の下から初々しい蕾と新芽が顔を覗かせました。嬉しいですねえ。寒い季節なのに元気一杯です。すでに2011年という年の行く末を見据えて、開花の準備を進めているのです。私も見習わなければ。