心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

古事記の世界

2009-08-30 10:07:12 | Weblog
 きのうの土曜日に、両親のお墓参りの報告を兼ねて、京都・知恩院にお参りしました。その帰り道に八坂神社に立ち寄りました。神殿の前の説明をみると、祭神に「スサノウノミコト」「クシナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)」「ヤハシラノミコガミ」とあり、由緒の書き出しには「スサノウノミコトはあらゆる災難を意味する八岐大蛇を退治してクシナダヒメノミコトを救って地上に幸いをもたらした偉大な神でアマテラスオオミカミの弟神です」とありました。
 そうなんだ、と思いました。私は古事記よりもギリシャ神話を好んで読みますが、この八岐大蛇の個所だけは知っています。その舞台が、私の故郷に近い出雲の国の斐伊川の上流、鳥上という地だからです。ということは、菩提寺の総本山である知恩院も、八坂神社も、私と極めて近い位置にあるということになります。
 前回ご紹介した斐乃上温泉こそ、まさに、その鳥上の地にあって、その宿の前を斐伊川の源流が流れているのです。船通山を源にして153㎞におよぶ一級河川、宍道湖に流れます。砂鉄の採れる川であり、古来、その砂鉄を原料に製鉄が盛んでした。現在は、日本で唯一「たたら製鉄」による美術刀剣用の玉鋼が作られています。アニメ映画「もののけ姫」に登場する「たたら」で鉄を吹いている場面も、まさにこの地域です。
 そんなわけで、きょうは八岐大蛇に的を絞りましたが、先日泊まった温泉宿で、夕涼みに下駄の音を鳴らしながら周囲を散策した際に撮影したのが、上の写真です。斐伊川の源流に近い風景です。近くには、「神話の里・鳥上」と銘打った看板も立っていました。8月も下旬、夕暮れの山間は、この夏の終わりを惜しむヒグラシの声で賑やかでした。
 きょうは8月30日、総選挙の日でもありますが、私の「心の夏休み」も、そろそろ終わりに近づきました。でも、きのうは職場から緊急連絡が入り、ほどなく京都から職場に直行することに。ことし後半も、なにやかやと忙しい日々を送ることになりそうです。
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4年ぶりの帰省

2009-08-26 22:47:35 | Weblog
 先日、久しぶりに両親のお墓参りのために帰省しました。兄の具合が芳しくないのも理由のひとつです。帰省を決めたのはお盆休みに入ってからですから、いたって能天気な行き当たりばったりの我が人生ですが、4年ぶりの帰省となります。「故郷」に懐かしさを思う反面、この歳になると古き良き時代への回帰に、妙な不安と恐怖が混じり合うのは、どういうことなのでしょうか。突っ張って生きている現実に目をやることの怖さ。そんなことを思いながら週末、故郷に向かいました。
 場所は中国山地の山懐。以前と違って地方のJRは、幹線以外は衰退の一途を辿っていますから、昔のように列車で移動しようものなら、ずいぶんと時間がかかってしまいます。そんなわけで、今回は伯備線の生山駅を降りると、タクシーを飛ばして40分。実家に直行するのではなく、まずは八岐大蛇の伝説で知られる船通山の麓に佇む斐乃上温泉に立ち寄りました。この温泉、知る人ぞ知る日本三大美肌温泉(アルカリ性単純温泉)で、数ある温泉地のなかで私が最も好きな温泉です。小規模な宿が2軒しかなく、客を温かく迎えてくれるのもいい。冬場には囲炉裏を囲んで岩魚を焼きながら地酒に酔うのもいい。さながら柳田國男の世界といったところでしょうか。のんびりと温泉を楽しむことができます。ところが宿に着くと、われわれ夫婦の行動を嗅ぎつけた姉たちが、松江から出雲からやってきました。ふだんの失礼を詫び、夜遅くまで語り合いました。

 翌朝、宿を跡にすると今度は実家に向かいました。大きな屋敷をいまは兄夫婦が管理していますが、奥の間の仏壇にお参りをして、昔のままの私の部屋をのぞきます。主が決して帰ることのない部屋は、そのままでした。ふっと母親が現れるような錯覚を覚え、なんだか時間が止まっているようで怖い瞬間でもあります。みんなでお墓参りをしたあと、お寺の山門から久しぶりに生まれ育った街並みを眺めました。変わっているようで何も変わっていない。いや、実際は変わっているのに、そう見えないほどの年月が過ぎた。ふっと昔友達と遊んだ風景が浮かんでくる、そんな思いがいたしました。

 残念だったのは、やはり病身の兄の姿でした。もう70代も後半になる兄は、すでに私を認識できないところまで老いが進んでいました。でも、入居している介護センターは近代的な施設と介護スタッフの方々の献身的なサポートで知られ、兄に温かく優しく接していただいている。そんな風景を見て、安心もしましたし、何よりも介護スタッフの方々の献身的な振る舞いに感服しました。こうした福祉医療現場で働く方々の存在の大きさを改めて思ったものです。いずれ、私もこうした施設のお世話になるのかもしれないと少し寂しく思いました。
 きょうは週の半ばですから、このへんでやめておきます。強行軍ながら得るものも大きかった帰省となりました。帰途、私は家内と別行動で出張先に馳せ参じ、実は昨夜遅く帰宅しましたので、少しお疲れ気味です。義務でもなんでもないのに、せっせとブログを更新する自分自身を思いました。

【写真説明】
上段は斐乃上温泉の宿、中段は船通山。その山懐に斐乃上温泉があります。下段は両親、祖父、曾祖父の墓石が立ち並ぶ我が家のお墓の一画です。今は知りませんが、この地方では土葬でした。長い行列を連ねてお寺に向かったことを覚えています。
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暑い夏に方丈記を読む

2009-08-16 10:20:09 | Weblog
 12日から16日までの5日間、お盆休みをいただいています。でも、5日間というのは長いようで短いものです。あっという間に終わってしまいます。それでも、急き立てられるようなことはないので、案外、健康的な生活をすることができました。夜は、11時には床につく。朝は5時前には目が覚める。愛犬ゴンタとお散歩をする。昼間と違って早朝散歩は爽快でもある。6時前には、いちどパソコンに向かってごそごそするのもいい。夏蝉の声を聞きながら、ベッドに横たわって読みかけの本をぺらぺらめくるのもいい。誰も咎めはしない。
 ところで、59歳を迎えた今夏、一冊の本を読んでいます。先日、大阪・梅田の旭屋書店で時間待ちをしていたときに手にした「方丈記」です。といっても古文など何十年も読んだことがないので、「すらすら読める」という副題付き、中野孝次さんの解説です。でも何故いま「方丈記」なのかって?
 1900年に英国から帰国した南方熊楠は、必ずしも肉親から歓迎を受けたわけではありません。実家のある和歌山での生活もそこそこに那智の山中に独り籠ることになります。そこで熊楠は、菌類など生物の採集と論文の執筆に明け暮れ、さらに「方丈記」の翻訳に取り組みます。そのあたりのことが鶴見和子曼荼羅のなかに登場します。ロンドンという世界都市から一転して熊野の山奥に独りで暮らすことになった熊楠が、いったい何を思い、何を考えたのか。なぜ「方丈記」なのか。少しその気持ちに近づいてみたい。そう思っていました。そしてもうひとつ。書店で立ち読みをしていて、鴨長明が「方丈記」を記したのが58歳のときであったことを知りました。これも、本を手にする大きな動機づけになりました。時代環境はまったく異なりますが、私とほぼ同年齢の長明が、世の中をどのように見つめたのか。
 そんな次第で読み始めましたが、ルビ付き原文と丁寧な解説付きとはいえ、ふだん読み慣れない古文のこと。言葉のひとつひとつに今とは異なる意味合いがあり、子供が使っていた古語辞典を引っ張り出しました。でも、あまり小さなことにこだわりすぎると、前後の文脈がみえなくなりますので、まずはさらりと通読することにしました。半分まで読み進んで、なんとなく見えてきたことは、長明の時代を見つめる視点。誇張を嫌い、個々具体的な事実を事実として書き綴っていく真摯な視点です。このあたりに、熊楠との共通点を思いました。それはまた、ハイカラな言葉で埋め尽くされた昨今の流行本の脆弱性を思うことにもなりました。
 
 ところで、休みの半ばには、次男君が半年ぶりのご帰還でありました。長女一家も孫君を連れてやってきています。こうした賑やかなひとときも、夏の風物詩のひとつなのかもしれません。次男君も聞けば素敵なお相手に出会えたようです。いずれ期が熟せば私の子育ても完璧に終わります。時は、どんどんと流れていきます。
 そうそう、孫君は亀五郎夫妻に興味を示しました。楽しそうに餌を与えてくれます。衛生上、直接触らせるわけにもいかないので、急遽、亀五郎夫妻の遊び場をつくってやりました。飼育箱のなかよりも、もっと見えやすくなりました。亀五郎夫妻も、夏の暑さにも負けず、元気に歩き回ります。それを孫君が「亀さん、亀さん」と呼びながら嬉しそうに見ています。
 来週は、両親のお墓参りにでかけますので、ブログ更新は週の半ばになりそうです。
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真夏の「西洋絵画の巨匠」

2009-08-09 10:38:51 | Weblog
 今日はあいにくの雨模様です。若干の湿っぽさはあっても、昨日のような暑い休日よりも過ごしやすいのがいい。今日は、9月下旬にある西本智実さんのコンサートの演目でもある、グスタフ・マーラーの交響曲第5番を、ショルティー指揮シカゴ交響楽団の演奏で聴きながらのブログ更新です。
 それにしても昨日は暑かった。朝方、知人にメールを返信すると、さっそく愛犬ゴンタのお世話に取り掛かりました。お風呂で全身を洗ってやりながらの水遊びです。タオルでさっと拭いて外に連れていきます。この暑さですから半時間もすればさらさらの毛並みに。ブラッシングで不要な毛を取り除いてやると、ずいぶん涼しそうな仕上がりになりました。そのあと、ドッグフードを買いに、自転車で15分ほどのところにあるホームセンターに出かけました。なんと暑かったことか。帰ったときには、もう、身体全身びっしょりでした。
 それでも懲りず、午後には、この梅雨で伸び放題になっていた庭樹の枝落としに挑戦です。脚立の上に立って恐る恐る慣れない手つきで選定バサミを使うのは、あまり恰好の良い姿ではありません。でも、少しは涼しげになったかと自己満足しています。この作業も、サウナに入っているようで、全身汗びっしょりでした。しかし意外にも、慣れてくると、なぜか爽快感を感じるから不思議です。やはり人間、身体を動かさなければならないということなんでしょうか。
 2回目のシャワーを浴びたあと、ベッドに横になってぼんやり空を見上げました。その視点から見上げたのが写真の風景です。写真では空の色がとんでしまいましたが、真っ青な空に真白い雲が浮かんで見えます。そんな「夏」の空に、軟い心が吸い上げられていくような錯覚を覚えました。
 僅かな時間うとうとしたあと、手許にあった週刊小学館ウイークリーブック「西洋絵画の巨匠」を眺めました。この週刊絵画集は全50巻で、いま27巻目まで進んでいます。とりわけ絵画に関心をもっているわけでも、相応の知識があるわけでもないのですが、毎夜、たかぶる心を静め、疲れきった頭脳をやすめるには手頃なもので、仕事を忘れて画家の心に接することで、何とか自分を生き返らせている。そんな役目を果たしています。折込で原寸美術館のページがあり、絵画の一部をきりとって原寸のままの絵を楽しむのもいい。高階秀爾氏や茂木健一郎氏らの解説も、素人には判りやすい。と、絵にのめり込み出した頃、いつの間にか心穏かになり、深い眠りにつくことができます。
 先日、あまりの暑さに耐えかねてクーラーを付けたまま眠りました。案の定、翌日には喉を痛めてしまいました。やはり人工の空調装置に私の身体は馴染めないようです。毎夜、庭に丁寧に水を撒いて、その自然の風のなかで眠るのが一番。そして今夏は、週刊「西洋絵画の巨匠」が、私の心のクーラー役を果たしてくれています。
 ・・・と書き終えたところで、マーラーの交響曲第5番も終わりました。私の横の扇風機が、静かに機械的な風を送っています。暑い夏も本番です。今週半ばには次男君が半年ぶりのご帰還です。それに併せて長女一家も合流です。59歳を迎える今夏は、両親のお墓参りも計画しています。
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時代の変わり目

2009-08-02 10:35:37 | Weblog
 8月第一週目の日曜日は、夏蝉ではなく、ざあぁという雨音で目が覚めました。なかなか梅雨が明かない今年の夏ですが、それでもブログの更新をし出す頃には、空も薄っすらと晴れ化粧です。街には元気な蝉の声が溢れ出しました。ほんの少しの時間の流れで、うな垂れていた街が何やら元気になってきたようです。
 いつも更新作業をするときは、音楽を流していますが、きょうは珍しくリヒャルト・シュトラウスを選びました。このところの様々な鬱陶しさを払い退けたい、そんな私の心理状態を表しているようです。手にとったレコードは、交響詩「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」(ロリン・マゼール指揮、グリーヴランド管弦楽団)です。1979年5月の録音です。アナログからデジタル録音方式に切り替わった時期のLP、ということはCDが登場する直前でしょうか。チラシには「レコード製造技術の限界への追及から生まれた素晴らしい音質のレコード」とあります。
 LPレコードの音質の限界に挑戦する人がいる。その一方で、その限界を見抜いていち早くデジタルという新技術をもってLPに変わるものを作ろうと苦心する人がいる。その熾烈な競争にLPは破れた。こうして時代は次のステージに進んでいくのでしょう。
 でも、私は究極の音質にこだわることはしません。このアナログのLPで十分に音楽を楽しんでいる。強がりを言えば、CDとは異なる音の温かさに惚れこんでいる。思い出したように、オーディオショップの試聴室に入ることがありますが、何か違和感を覚えて出てしまいます。まぁ、人それぞれなんでしょう。
 リヒャルト・シュトラウス。そう、それほどに意識して聴いてきたわけではありませんが、グスタフ・マーラーと同世代人。ワーグナー亡きあとを継いだ後期ロマン派の人々です。時代的には19世紀後半から第一次世界大戦までの時代。南方熊楠がイギリスにいて、毎日、大英博物館で勉強していた時代に、彼らは活躍したのです。果たして熊楠はコンサートに出かけたのでしょうか。出かけたとすれば、どういう印象をもったのか知りたいものです。
 この頃は、時代の大きな転換期でもあります。新しい時代への大きな期待とニヒリズムが混在する時代です。「伝統的な既成の秩序や価値」を見つめ直す、あるいは否定するという点では大きな違いはないのでしょうが、人が「生きる」ことに新しい意味を見出すのか見出さないかという点で人々の考え方が揺れ動いた時代でありました。そう考えると、今にも共通する課題があるような気がしないでもありません。
 きょうはシュトラウスの交響詩を聴きながらのブログ更新となりましたので、些か内省的な仕上がりになってしまいしたが、気がつけば、空はますます青さを増し、夏蝉の声はますます力強さを増しています。そろそろ梅雨明け宣言でしょうか。いよいよ暑い夏の始まりです。そして、この暑い夏に59歳を迎えます。 
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