心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

青色のバラに思うこと

2010-04-25 09:14:35 | Weblog
 すかっと晴れわたった休日の朝、しかしとりあえず暖房のスイッチを入れてしまう、そんな一日の始まりです。それでも一歩街に出ると若葉が映える季節、淡い緑に囲まれた季節、なんとも心躍る季節です。そうそう、先週の日曜日に近所の園芸店でヤマモモなる苗木を買ってきて植えました。1メートルほどの若い苗ですから、実がなるまでには少し年月がかかるのでしょうが、気長に待つことにいたしましょう。
 さて、本日のお題は、「青色のバラ」です。先週の初めに経済団体主催の会合に出席した際、バイオテクノロジーを駆使し世界で初めて「青色のバラ」を開発した研究者の方のお話を聴く機会がありました。自然界に青色のバラは存在しないところ、数種のバラを人為的に交配して2年前にやっと製品化にこぎつけたのだそうです。アップした写真は、帰り際に会場の片隅に飾ってあった数本の「青色のバラ」を撮影したものです。携帯で撮ったので肝心の「青色」が表現できていませんが、もう少し濃い青さは今後の開発目標なのだそうです。それでも確かに神秘的な雰囲気を醸し出しているし、未知の世界に挑戦する人間の「熱い思い」が伝わってきます。でも、心の片隅に人工的に色をつくることに対する違和感もありました。一時期、遺伝子組み換え技術に対する拒否反応が広くマスコミを賑わしたことがあります。いまではごく当たり前に使われているらしい。時代の流れに竿さす気持ちは毛頭ありませんし、「青色のバラ」もほんとうに美しい。しかしどうなんでしょうか。春夏秋冬、春は春。赤は赤。バラはバラ。それを人為的に覆す?いつの間にか恐ろしい世の中になってしまうのではないか。そんな保守的な思いが私の心の中に充満します。
 話は変わりますが、先週末仕事帰り、駅のプラットホームで独りのご老人に出会いました。よれよれの帽子をかぶり、年季の入ったショルダーバッグを肩にかけ、軽いオーバーを着たその姿。誰?だれ?10㍍ほどまで近づいたところで「やあやあ」と。13年ほど前に定年退職された方で、30数年前私が就職して最初に配属された部署の、当時の係長さんでした。職場の大先輩です。当時、勤めながら夜間の大学に通っておられ、昼休みにはその日の授業の準備に余念がない、そんな勉強家でした。その姿勢にずいぶん影響を受けて今の私があります。といっても過言ではないのです。
 久しぶりの再会でした。一時、米国独り旅の時期もありましたが、いまはお家に落ち着いて余生を送っておられる由。駅前の居酒屋で一献傾けました。といっても、もう80歳に近いご年齢です。若い頃のようには呑めません。1時間をかけてお銚子1本、その間に私はロック3杯もいただいておりましたが、お元気でお暮しのご様子に安堵いたしました。

 かく言う私も還暦を迎える年齢に。6月上旬には還暦記念の同窓会があります。こんな年代になると、時にリタイア後のことを考えがちですが、とにかくそれまでの間に、当面の課題に道筋をつけておくこと、そして何よりも後進を育てておくこと、それが私に課せられた最後のご奉公とわきまえていいます。色や形に惑わされない「心」「マインド」を大事にしていきたい。ただただそれだけを考えて毎日を過ごしている、そんな自分に気づくことがあります。いやあ、こういう発想自体が老いの始まりなのでしょうか。昨日は、仕事を早めに片づけると、職場近くの公園を横切って週末の街に繰り出し、久しぶりに中古LPショップを訪ねました。グレングールドの若き日の作品を見つけて何を思う。温故知新といえば恰好いいのですが、これもやはり老いの始まり??


コメント

本醸造「熊楠」に酔う

2010-04-18 09:51:21 | 愛犬ゴンタ

 4月も3週目の日曜日を迎えました。桜花も散ったはずなのに、このところ急に寒さが舞い戻ったようで身体に応えます。でも、きょうは朝から快晴、愛犬ゴンタと近くの里山を散歩しました。木々が芽吹き、その生命力にこちらまで元気をいただいたような、そんな爽快な気分になりました。きょうは午後、園芸店でも覗いてみることにしましょう。

 さて、職場の私宛に送られてくる和歌山県の広報誌「和(なごみ)」最新号の特集記事は「時代が彼にあこがれる“知の巨人・南方熊楠」でした。カラー刷りの表紙には、暗闇に幻想的に光るキノコ(シイノトモシビタケ)の写真が載っています。1900年、英国から帰国したあと、粘菌類やキノコの採取のために熊野の森に籠った熊楠は、こんな幻想的なキノコの生態に惹かれたのでしょうか。それとも深い原生林の中で人生のなんたるかを考えたのでしょうか。

 見慣れた熊楠の史料を眺めながらページをめくっていくと、「和歌山県城下の老舗酒蔵に熊楠のルーツを探る」という頁がありました。そう言えば、熊楠の実家は酒造業でした。冊子には、父・弥兵衛が明治17年に創業した酒蔵会社「世界一統」(当時は南方酒造と言っていました)のことが紹介されていました。その2代目が、熊楠の弟、常楠です。そのお店が今も健在だったとは知りませんでした。なんと大吟醸、本醸造の「熊楠」なる清酒まで販売されているではありませんか。さっそくインターネットで注文させていただきました。掲載した写真が、数日前に届いた本醸造「熊楠」です。パッケージもなかなか洒落ていて、熊楠の略歴やら採取した菌類、キノコの熊楠自筆のスケッチが印刷されています。う~ん、今年は絶対に和歌山にでかけなければなりません。久しぶりに白浜の温泉にも浸かりたい。

 話は変わりますが、先週、京都の帰り道に、牧山桂子著「次郎と正子~娘が語る素顔の白洲家」(新潮文庫)を手にしました。自由奔放に生きたお二人の素顔を娘の桂子さんの視点から眺めたもので、さすがに母親譲りというのか心地よい文体が仕事の疲れを癒してくれました。お二人とも、激動の時代に何某かの拘りをもって生きてきたという意味で、なんとなく南方熊楠にも似たところがあります。そんなお二人の人となりを、娘という近しい方の視点で紹介されていて、まさにお二人の「素顔」に迫るものでした。
 昨夜は本醸造「熊楠」をいただきながら読み終えました。戦後の、私が生を受けた前後の時代風景、次郎さんの晩年の仕草が私の父の姿と何やらだぶって見えてきて、なぜだろうと思い両者の年齢を照らし合わせてみました。すると、なんと私の父母とお二人が、ほぼ同じ世代であることに気づきました。次郎さんより2歳年下、亡くなった年も2年の差。考えてみれば私の長男が80歳にも迫ろうとしているのですから。私は、無意識のうちに、私の両親が生きてきた時代と重ね合わせて読んでいたことになります。ひょっとして、昭和の初期、銀座を闊歩していた父親とすれ違っていたことだってあったかもしれない、正子さんが一時期出店されていた着物の店「こうげい」に母親が顔を出していたのかもしれない。そんな根も葉もないことを思ったものです。戦時中の混乱期に家族を実家に疎開させて、企業戦士を貫いた父。疎開後に田舎で末っ子として誕生した私。生涯、父親と身近で一緒に暮らすことのなかった60年を振り返ってみると、考えるところ大です。
 次郎さんは遺言状に「葬式無用、戒名不用」と記されたとあります。仰々しいお葬儀よりも、身近な近親者による弔いの方が、私にも向いているような、まだまだ先の自分の行く末を思いながら、深い眠りにつきました。

コメント

春と戯れる

2010-04-11 09:45:23 | Weblog
 今朝は雨音で目が覚めました。やはり天気予報どおりかと少し残念に思いながら、また浅い眠りに。でも、6時には起床、薄っすらと濡れた街を愛犬ゴンタとお散歩に出かけました。公園の桜も散り始め葉桜に変わろうとしている季節、ふと枝先に薄緑色をした鶯の姿が見えました。私の歩みに沿って枝をつたっていく愛らしい姿に、なんだか嬉しくなりました。鶯は用心深い小鳥ですから、田舎にいた頃は直に目にすることはなかったのです。それを思うと都会の鶯はずいぶん人慣れしています。
 そんな春の土曜休日、医師の完治宣言がまじかい家内のリハビリを兼ねて、きのうは春の鞍馬散策を楽しみました。大阪から京阪電車に乗って出町柳駅へ、そこで叡山鉄道のパノラミック電車「きらら」に乗り換えます。窓に向かって並行に並べられたシートに座って沿線の早春の風景を楽しみながら、そう30分ほどでしょうか。鞍馬駅に到着です。

 まずは少し遅めの昼食をとりました。お蕎麦を食べようと入ったお店の自慢のメニューは猪肉入りの「ぼたんシチュー」でした。美味しかったです。腹ごしらえを終えると、さっそく仁王門を通って鞍馬寺をめざします。家内を気遣ってケーブルカーを利用して多宝塔へ。でも、そこから鞍馬寺まではつづらおりの山道と階段の連続です。案の定、途中の休憩所で家内はリタイア。私1人で本堂まで登ってお参りをしてきました。
 次に向かったのは天然硫黄温泉の鞍馬温泉でした。小鳥たちの囀りに耳を傾けながら、桜花舞う山間の露天風呂に浸かってゆったりと春を体感する。これもリハビリのために選んだコースです。そうそう、お客さんがいなくなったのを見計らって、パチリと写真撮影も。前回訪れたのは小雪舞う季節でしたが、早春の露天風呂もなかなか風情があります。眺めも良し、泉質も良し。心身ともにリラックスしました。

 そういえば、先週末、春の味覚「筍」を大小合わせて5個もいただきました。さっそく家内の出番です。竹の皮をむいて糠であくを抜きます。出来たてほやほやの、まだ調理が残っている筍を一切れいただいて、お醤油を垂らして味見をすると、ほんのり春の香りが口の中に広がりました。田舎の家の近くに竹林があって、子供の頃はこの季節(といっても田舎では、もう少し後の4月下旬頃)になると筍掘りに出かけたものです。竹の皮をむくのは私の役目でした。ほど良い大きさの筍が揃うと、母が炭火を熾した七輪を用意してくれて、その上に載せて焼いて食べるのです。50年近く前の、そのときの味わいを、ふと思い出しました。雪に閉ざされた寒い冬から一気に明るい春の陽に満ち溢れる山間に、春は開放感、躍動感を与えてくれたのです。
 ふと手許をみると、きのう乗った鞍馬山ケーブルカーの参拝記念切符が1枚。それに、こんな言葉が添えてありました。「まず自らの心に ともし灯をともそう」。確かに、自分の心が萎えていたら世の中楽しくないですね。まずは自分の心に灯をともす。こんな言葉を素直に受け入れることができるのも、しばし春と戯れたためでしょうか。
コメント

「心の風景」も5年を経過

2010-04-04 10:14:29 | Weblog
 朝夕の電車のなかで新入学生、新入社員の姿をみかけるようになりました。4月1日、そう、みんなが新しい生活に戸惑いながら、しかししっかりとした夢をもって歩きだした、そんな清々しさを感じさせる今日この頃です。もちろん、街の風景も、日に日に淡い緑の色が増します。少しひんやりはするけれども陽の光が眩しく温もりを感じる、4月最初の日曜日。バス停横のヤナギの樹は淡い緑に身を包んでいます。我が家のポポーの枝先には早くも花芽のお姿を確認しますが、どうなんでしょう、今年も結実は無理かもしれません。
 さて、今朝は、辻井伸行君のCD「ヴァン・クライバーン国際コンクール」からショパンのピアノ曲を聴きながら、PCの前に座りました。窓の向こうは春の陽に庭の木々の緑が映える空間のなかで、きょうもブログを更新します。奇しくも今月の雑誌「ユリイカ」の特集は「現代ピアニスト列伝」です。表紙にはアルゲリッチ、内田光子、ブーニン、ポゴレリチ、辻井伸行の名前。アリス=沙良・オットーって誰?そんなことを思いながら、昨夜はリストの「超絶技巧練習曲」のCDを手にしてみる。そんな、ゆったりとした時間を過ごしました。
 昨秋の後半から4月にかけての半年、4月から今秋にかけての半年、わたしの仕事上の緊張感には異質なものがあります。1日の辞令交付を終えて、やっと次のステージに向かう、その端境期にあって、むしょうに本を読みたくなるのが、この季節です。
 2月の半ば、私の尊敬する先生から直々にご紹介をいただいた、坂本光司著「日本でいちばん大切にしたい会社」。それまで読み進んでいた須賀敦子さんの全集第7巻を横に置いて、読みました。経営戦略やらなにやら舶来言葉が飛び交うご時世のなかで、この本は、経営者の「こころ」に注目したものでした。ついつい時流に流されがちな私も考えさせられること大。この1月末に発売された2冊目「日本でいちばん大切にしたい会社2」まで一気に読みました。
 でも、それですぐ須賀さんの本に戻ることはなく、前から気になっていた福岡伸一先生の「生物と無生物のあいだ」に手を伸ばしました。そこでは、「動的平衡」という言葉が気になりました。分子は個々ばらばらに動いているけれども均衡を保ち続ける不思議。この書で福岡先生は、砂上の楼閣という表現をつかって門外漢にも判り易く説明されました。それは分子レベルの話ではなく、まさに人間行動にも当てはまるのではないか、そんなことを電車のつり革に身を委ねながら、ぼんやりと考えました。それにしても福岡先生の文章は美しい。なかでもエピローグは須賀さんのエッセイ―を想わせるものでした。
 そんな遍歴を経て、きのう久しぶりに須賀さんの本に戻りました。その一節に「ゆうべTre anni ancora treだとか、insalata mattaなどを読んだが、みんな甘えていて幼稚でいやな作品と思った」(日記1971年3月28日)というくだりがありました。それが妙に心に残りました。「甘える」「幼稚」、私の最も恐れる言葉です。それで思ったこと、それはブログのことでした。2004年末にこのブログ「心の風景」を公開して以来、実に5年が経過しています。私のなかで、このブログはどういう位置づけにあるのか真剣に考えもせずに、ただ、だらだらと書き綴っていますが、須賀さんがこのブログをご覧になったら、即座に「読んだが、みんな甘えていて幼稚でいやな作品と思った」となるのでしょう。「それなら止めればいいのに」と、もうひとりの私がそっと耳打ちしてくれます。でも、もう一人の私はなぜかその忠告に耳を貸そうとしない。
 いずれにしても、このブログも公開後5年を経過しました。貴重なお時間を割いていただくほどの内容では毛頭ないにもかかわらず、何度となくお越しいただきました皆さまには、この場を借りて厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。
コメント