心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

小雨けぶる初春の奈良に酔う

2022-04-01 22:24:16 | 西国巡礼

 暖かくなったり急に寒くなったり。でも、庭の草花はしっかりと成長しています。70歳を過ぎると、そんな何気ない自然の変化に心躍ります。この春、もっとも嬉しかったこと。それは5年ほど前に種から育てたカリンの木に初めて花が咲いたことでした。近所のお爺さんから大きなカリンの実を2個いただき、さあてどうしたものかと迷ったあげく「カリン酒」なるものを作りました。その時の種を庭に植えて、ようやく花開きました。といっても花芽は八つほどですから、ことし実がなるのかどうかは分かりませんが、5年の歳月を経て咲いた花に「こんにちわ」。愛おしささえ感じます。ちなみに下の写真は垣根を這うアケビの花です。
 そんな春のある日、仲間たちと小雨舞う奈良に行ってきました。まずは奈良県庁の屋上から奈良市内を展望したあと、興福寺へ。これまで何度も訪れながら、いつも忘れていた西国三十三か所第9番札所「興福寺南円堂」の御朱印を、今回はいただいてきました。これから暖かくなりますから、西国巡りを再開することにいたしましょう。
 名だたる観光スポットは皆さんよく行っているので、少し足を伸ばして浮見堂へ。桜咲くこの季節、小雨を押して結婚式の前撮りをする方々が数組。結婚式なんてシニアの私たちにとっては半世紀近くも前のこと。懐かしさと共に、齢を重ねた今の自分を見つめてしまいます。
 昼食は築140年の町屋を改装したという食事処「粟 ならまち店」です。予約しておかないとなかなか入れないお店ですが、大和伝統野菜をふんだんに使ったランチをいただきながら大和のお酒を味わいました。
 お店を出ると、酔い覚ましに「依水園」そのお隣の「瑜伽山園地」へ。しっとりと雨に濡れた初春の日本庭園を見て回りました。終日、晴れの日とはひと味違う奈良の街を楽しむことができました。

◇  ◇  ◇

 そんな呑気な時間を過ごしている間も、ウクライナの状況に変化はありません。停戦交渉が進んでいるようですがロシアの動きが不透明。よその国に土足で入り込んで徹底的に街を破壊しなければ気に済まないプーチン。彼はいったい何を考えているのでしょう。単なる権力欲?それとも何かに怯えている小心者?困ったものです。第三次世界大戦を避けるため西側諸国も打つ手が限られている状況のなかで、なんとか停戦合意に至ってほしいと願っています。
 そんななか時事通信は、公演を自粛していたロシアの世界的ソプラノ歌手アンナ・ネトレプコさんが、ウクライナ侵攻を非難し5月から公演を再開すると発表したとのこと。なんとも勇気ある行動です。最近こうした動きが目立ってきました。一人ひとりの反戦への意思表示が歴史を動かす原動力になろうとしています。
 ネトレプコさんといえば、15年ほど前でしょうか、デビューした頃の強烈な印象が記憶にあります。ドニゼッティ:歌劇DVD「愛の妙薬」、ヴェルディ:歌劇DVD「椿姫」、そしてCD「花から花へ」があります。今夜は、椿姫、夢遊病の女、清教徒、ランメルモールのルチア、オテロ、ジャンニ・スキッキのアリアを聴きながらのブログ更新でした。

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西国4番札所「施福寺」を訪ねて

2021-09-09 23:22:03 | 西国巡礼

 初秋の香りを求めて、先日、わずかに残る街はずれの田圃道を自転車で走ってきました。半世紀も前なら一面田園風景だったのでしょうが、今は視界の一部だけ。遠くには高速道路が見えます。赤とんぼと一緒に稲の香りを楽しみました。
 そんなゆったりまったりの昼下がり、長椅子に座って髙村薫の「空海」を読んでいました。.....遣唐使として唐の長安(西安)に赴いた空海は、2年間の研鑽を積んで806年の秋、九州博多津に帰着したのですが、お国の情勢の変化もあって3年余りの間大宰府に留め置かれたそうです。その空海が、いつ畿内に移動したのかについては歴史家の関心事でもあるようで、この本には「809年2月に空海が最澄に面会を求めた記録があるので、そのころまでには和泉の槇尾山寺(大阪府・施福寺)に移っていたという説もある」と書かれています。
 施福寺は西国三十三カ所の第4番札所になります。ひと山越えた和歌山には6月に訪ねた第3番札所「粉河寺」があります。ガイドブックによれば、「金色の諸仏を祀る施福寺」「葛城連峰を一望する西国巡礼難所のひとつ」などと記されています。私の悪い癖です。思い立ったら止まらない。翌日出かけました(笑)。
 大阪南部の泉州地区を歩くのは初めてです。大阪・天下茶屋から南海電車に乗って和泉中央駅、そこで南海バスに乗り換えて槇尾中学校前、そこから和泉市の路線維持運行バス「オレンジバス」に乗って12分、槇尾山のバス停に到着しました。大阪なのに四国遍路と同じような風景が目の前にあります。大阪も広いなあと改めて思いました。
 施福寺は、欣明天皇の命を受けて、行満上人が弥勒菩薩を本尊として建立したお寺で、役小角(役行者)、行基、空海が修行した道場でもあります。舗装されたなだらかな坂道を歩いて10分、仁王門の前に到着です。
 そこからは急な山道、石段を登って30分。途中、空海が剃髪し得度したという愛染堂や弘法大師髪堂などを巡って、やっと本堂が立つ境内に到着します。四国遍路でも思いましたが、お山のてっぺんに立派なお堂を建てた昔の人々の熱い思いに驚きます。そんなお寺も、過去には織田信長の焼き討ちで焼失、その後豊臣秀頼によって再興されますが山火事で伽藍を焼失するなど幾多の困難を乗り越えて、いまこの地にあります。
 拝観料500円で本堂内にあるご本尊にお会いすることができました。それも写真撮影可です。真ん中に行満上人が創建したという弥勒菩薩像が鎮座しています。その右には奈良時代の高僧・行基による文殊菩薩像、左側には行基の高弟・法海上人が祀る十一面千手観音像(札所本尊)。1500年もの間、じっと目線を下に人の世を思う。その前に座して、時の流れと人の心の在り様を思ったものでした。
 裏手後堂に回ると、長寿延命、身体健全の守護尊 方違大観音、花山法皇足守の馬頭観音坐像など多くの仏様が並んでいました。それぞれに独特の風貌があり、なんとなく見入ってしまいます。贅沢な時間を過ごさせていただきました。
 そのあと、遠くに高野山方面の山並みを眺めながら、ベンチに座ってコンビニで買ってきたおにぎり2個を食べて一服です(笑)。すると、初老の男性がやってきました。聞けば泉州33カ所巡りをしているのだそうです。地図を片手に熱い思いを語っていただきました。これもひとつの出会いです。

    いつの間にかこんな時間になってしまいました。............本来なら、毎週土曜日にブログを更新するのですが、明日から数日お出かけすることになりましたので、今夜少し早い目に更新をさせていただきました。次回は9月18日になります。

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初夏の紀三井寺と粉河寺を巡る

2021-06-16 10:18:24 | 西国巡礼

 晴れのち曇り、時に雷雨、そして晴れ、小雨、曇り.....。何とも落ち着きのないお天気が続きます。そんなある日、庭のあちらこちらに繁るドクダミを刈り取って軒下に吊るしました。ドクダミ茶(十薬)を作るためです。古来、乾燥した葉や茎を煎じて飲むと利尿作用、動脈硬化の予防、解熱や解毒などに効果があると言われています。でも、我が家で常飲しているのは私だけ(笑)。家内も子供たちも敬遠しています。自然の恵みをいただくのは健康に生きる術のひとつなんですけどねえ(笑)。
 今週も、お散歩と庭のお手入れ、そして読書に音楽鑑賞とゆったりまったりの日々を過ごしました。変わったことと言えば、隣町の図書館におじゃましたときのこと。朗読CDに目が留まりました。そうか、文字ではなく音声で小説を楽しむ方法もあるんだと。加齢と共に小さな文字が見えにくくなってきましたので、一度試してみようということで、新潮CDシリーズから泉鏡花の「高野聖」を借りて帰りました。
 本を開いて活字を追っていると、ついつい難しい文字の前で立ち止まってしまうことがあります。でも、音声だと話の流れをいちいち止めるわけにもいきません。流れに任せるしかありません。すると、文字とは違った世界が広がります。不思議なものです。
 泉鏡花の「高野聖」を実際に手にとったのは今回が初めてでした。ある旅僧が飛騨の山越えをしたときに出会った奇妙なお話です。山深い旧道を歩いていると、木の枝から蛭(ひる)が降ってきて身体にへばりついて血を吸う。その場から逃れようとすると、偶然にも色白の美しい女性(男を誑かしては蛭や獣に代えてしまう魔力の持ち主)に出会う。ついつい魅せられてしまいそうになるけれども、翌朝、旅僧は邪心を振り切って飛騨に旅立つ。.....なんとなく、村上春樹の世界を彷彿とさせる怪奇かつ幻想的な昔話のようでありました。

         ◇       ◇       ◇

 それはともかく、飛騨に向かう山道の描写を聴きながら、ふと四国八十八カ所(歩き遍路)に出かけていた頃のことを思い出しました。昼間だというのに薄暗い杉林の中を独り歩き続けたこと。旧道を選んだばかりに途中で道に迷ったこと。遠くに聞こえる海の波の音だけを頼りに歩き続けたこと。土砂降りの雨の中をずぶ濡れになって山を下ったこと....。今となってはよくもまあ歩けたものだと感心するばかりです。
 なにかしら心の中に蠢くものがありました。朝夕のお散歩だけでは心を満たすことができないもどかしさ。穏やかな仏像の表情が懐かしい。....しばらくしてふと思いついたのが「西国三十三カ所巡り」でした。これまでにお参りしたのは三十三カ寺中9カ寺に過ぎません。ならば、未だお参りをしていない24カ寺を巡拝しよう。そんな気持ちが膨らみました。といっても四国お遍路のような巡礼スタイルは採らず、公共交通機関を利用して気軽にふらっと日帰りできる、そんなのんびりした巡礼も悪くないかもと。
 思い立ったらじっとしてはいられない性分です。翌日の朝、さっそく和歌山に向かい、第2番札所の紀三井山金剛宝寺(紀三井寺)と第3番札所の風猛山粉河寺をお参りしました。
 早朝JR天王寺駅を出発、和歌山駅で各駅停車に乗り換えて二つ目の駅が紀三井寺駅です。そこから歩いて10分ほどのところに金剛宝寺(紀三井寺)はありました。朱塗の楼門をくぐって境内に入ると、230段ほどの急な石段がお出迎えです。その石段を一歩一歩踏みしめながら登っていくと、和歌の浦を一望できる境内に到着します。室町時代や安土桃山時代に建立された建物が立ち並ぶ奥に、立派な本堂がありました。お参りした後、真向いの新仏殿にいらっしゃる日本最大の大千手十一面観世音菩薩(高さ12m:平成20年開眼)にお会いすることができました。
 次は粉河駅へと向かいます。紀三井寺駅を出発し和歌山駅での乗り換え時間を含めておよそ1時間。駅前から通じる門前町通り(でも人影がない)を歩いて15分、朱塗りの大楼門がお出迎えです。さらに進むと紀州徳川10代藩主・治宝直筆の扁額(風猛山)を掲げる中門が現われ、その先にそれは見事な本堂がありました。
 豊臣秀吉の焼き討ちにあい全山焼失のあと江戸時代に再建されたという歴史をもつお寺でした。あいにくご本尊をまじかに見ることはできませんでしたが、帰りがけ丈六堂内に安置されている阿弥陀如来像にお目にかかりました。風雪に耐えて鎮座するお姿にしばし見とれてしまいました。
 初夏の紀州路、久しぶりの古寺巡りでした。お天気にも恵まれ、千数百年という長い年月を経て今もなお庶民の信仰を集める古寺の風情を心ゆくまで堪能しました。宗教心に乏しい私ですが、仏様のお姿を前に身も心も洗われる思いがいたしました。

 さあて、明日は事務所にご出勤です。来週から再開する講座の準備です。いったん緩んだ緊張感を元に戻すのは大変ですが、徐々に軌道修正をしていくことにいたしましょう。

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忘れていた結婚記念日😨

2019-11-04 21:06:08 | 西国巡礼

 秋の陽を浴びてぼんやり過ごしていた某日の昼下がり、家内が言いました。「きょう何の日か知ってる?」。「えっ?何の日?」。「結婚記念日!」。なんともはや。今年はすっかり忘れていました。指折り数えてみると結婚して43年になります。ひょっとして痴呆症の始まりかも。結婚のお祝いにと知人からいただいたネジ巻きの掛け時計は、今も元気に時を刻んでいます。
 というわけで、どこかに出かけようとネットで探してみますが、11月の3連休を前に人気コースはすべて満室。となると日帰りしかありません。相談した結果、遠そうで近い「姫路」に行くことにしました。
 どうせ姫路まで行くならと、まずは西国三十三カ所二十七番札所の書写山・圓教寺(えんぎょうじ)に向かいました。姫路駅からバスに乗って、その後ロープウェイに乗ってお山のてっぺんに登ります。山頂には、深い杉林の中に点在する大小さまざまなお堂が立ち並び、「西の比叡山」と称される修行の道場に相応しい雰囲気が漂っていました。ふと思い出しました。社会人1年目のとき全国レベルの研修会が、この書写山でありました。ずいぶん前のことです
 本堂にお参りし御朱印をいただいたあと、大講堂と食堂と常行堂が並ぶ広場に向かいました。なんと、以前、映画「ラストサムライ」やNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のロケ地になったところです。食堂の2階から広場を眺めながら、古き良き時代を思ったものでした。
 お参りが終わると、急ぎ姫路城に向かいました。実をいうと、中学校のとき関西への修学旅行で最初に訪れたところが姫路城でした。それ以来の訪問です。まずは、西御屋敷跡庭園「好古園(こうこえん)」へ。紅葉には少し早いかと思っていましたが、ところどころ色づき始めて、美しいお庭の風情を楽しみました。素晴らしいお庭でした。
 天守閣に向かう途中、三の丸広場では「人間将棋」が開かれていて、大勢の見物客で賑わっていました。天守閣の入口では「ただいま30分待ちです」のアナウンス。連休中でもあり、大勢の観光客が押しかけていました。結局、登って降りるのに40分もかかりました。
 早朝から急ぎ足で姫路の街を見て廻りましたが、なんとなく札幌や仙台、熊本や鹿児島に似た空気感があります。ふと浮かんできた言葉、それは「街の個性」でした。最近はどの都市に行っても金太郎飴のように同じ顔に見えてしまいます。でも、こうした地方都市にはその地域の文化と溶け込んだ顔があります。自力があります。何か根深い時代的な課題を突き付けられたような気がしています。
 夕刻4時。でも、これで帰宅する私たちではありません。せっかく姫路まで来たのだから、明石に寄らない手はないと。昔、明石海峡大橋が出来るまでは、明石港からフェリーに乗って淡路島に行ったことがあります。その街は今どうなっているのかと途中下車することにしました。行き先は当然、商店街「魚の棚(うおんたな)」です。昔ほどの賑わいはありませんでしたが、明石海峡で採れたての鯛と蛸をゲッ
トしました。

 そしてその夜は、明石が誇るB級グルメ「明石焼き」と海鮮料理、そして美味しいお酒が、結婚43周年記念に花を添えてくれました。

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急に思い立った南紀・勝浦の旅

2018-05-31 20:34:58 | 西国巡礼

 梅雨入りを前に、ドクダミを摘んでドクダミ茶を作りました。その横で家内が、新梢が伸びたイチジクの葉っぱを剪定して、その葉っぱを天日干しにしています。「どうするの?」と聞くと、イチジク茶を作るのだと......。
  ネットで調べてみると、高血圧や動脈硬化の抑制に効果があるとか。ほかに、悪玉コレステロールを減少させる効果やダイエット効果などがあり、さらには血糖値の抑制、皮膚がん抑制効果などがあると、良いことづくめの効用です。半信半疑ながら飲んでみると、まさにイチジクの香り。なんとなく身体に良さそうです(笑)。でも、紫外線への過敏性を高めてしまう働きがあるそうで、朝よりも夕方に飲んだ方が良いとも書かれていました。
 そのイチジクですが、葉っぱを摘むと切り口から白い液が出てきます。ものの本によれば、この乳液にはたんぱく質を溶かす酵素があって、昔の人は「イボコロリ」といって、イボを取るのに利用したのだそうです。ほんとかなあと思いながら、数か月前コメカミ付近にできた小さなイボに塗ってみると、2回目から変化が見えはじめ、4回目できれいになくなってしまいました。不思議ですねえ。それほど強力なので多用は禁物ですが、こんなところにも昔の人の知恵がありました。
 ところで、先週、4日ほど空白期間ができたので、家内が「どこかに行こう」と言い出しました。ネットを駆使して捜したのが南紀・勝浦です。それも午後になって翌日の宿を探す強引さですが、あるものですねえ。温泉宿をみつけました。白浜から先(南)には行ったことがありません。本州最南端の潮岬があり、西国三十三カ所の第一番札所である那智山・青岸渡寺があります。伝統捕鯨で知られる太地町があります。
 大阪から4時間ほどかけて紀伊勝浦駅に到着。宿にチェックインしたあと、まずはその日最終便の遊覧船くじら号に乗って「紀の松原めぐり」を楽しみました。そして夕刻、温泉に浸かったあとは美味しいお酒をいただきながら南紀・勝浦温泉の夜を楽しむ....。
 翌朝、紀伊勝浦駅前からバスに乗って25分。那智山に向かいました。参道の長い石段を登って熊野那智大社に参拝したあと、隣接する青岸渡寺へ。いずれもちょうど改修工事中で全景は望めませんでしたが、青岸渡寺では般若心経を唱える多くの方がお見えになっていました。

 三重塔に移動する途中、熊野本宮大社に向かう熊野古道を覗いてみました。いつの日か熊野古道を歩きたくなりました。そして最後は、三重塔の横を歩いて那智の大滝に向かいます。写真やテレビでよく見る風景です。
 思い出しました。那智といえば南方熊楠。英国から帰国して1年ほど経った明治34年の秋、熊楠は隠花植物の研究のため、紀伊勝浦に向かいました。その後の3年間、彼は思想的に最も重要な時期をこの那智で過ごすことになります。
 「南方熊楠アルバム」(中瀬喜陽・長谷川興蔵編=八坂書房)によれば、熊楠は「那智滝(一ノ滝)の背後の原生林を、二ノ滝や三ノ滝あたりまで、また那智川の支流にかかる陰陽ノ滝付近を歩きまわり、粘菌類や菌類その他の植物採取に励んだ」とあります。同時に熊楠は、長文の英文論文の発表や「方丈記」の翻訳、さらには学僧・土宜法竜宛ての書簡に記された、いわゆる「南方マンダラ」などの思想的な代表作を、この那智で書き上げました。
 急に思い立った南紀・勝浦の旅でしたが、温泉だけでなく、西国1番札所青岸渡寺へのお参り、そして南方熊楠が3年間を過ごした勝浦の風景を体感するという贅沢なものになりました。ちなみに、和歌山にある西国三十三カ所には、青岸渡寺のほかに2番札所の紀三井寺山金剛宝寺と3番札所の風猛山粉河寺があります。いずれ機会をみてお参りしたいと思います。
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初春の明日香村を歩く

2018-03-22 20:26:32 | 西国巡礼

 きょう水彩画教室の帰り、環状線の大阪城公園駅からおおぜいの着飾った若者たちが乗ってきました。大阪城ホールで大阪大学の卒業式があったようです。3月も下旬、彼ら彼女たちの前途洋々たる旅立ちを思いました。おめでとう♬
 そんな華やいだ季節のある日、長い仕事人生を終えたシニアの学生たちは、雨の合間を縫って奈良の明日香村にでかけました。関西に暮らしながら明日香村を歩くのは初めての私ですが、観光マップをみると飛鳥の時代の遺跡が広範囲に点在しています。今回訪ねたのは飛鳥寺と岡寺でした。天王寺・阿部野橋駅から近鉄に乗って橿原神宮前駅下車、そのあとバスに乗って飛鳥寺に向かいました。
 いただいたパンフレットによれば、588年蘇我馬子が発願し596年に創建された日本最初の寺なんだそうです。創建当時は、壮大な伽藍をもつ本格的な寺院だったけれど、1196年落雷により焼失、その後1632年に再建されますが、その規模はずいぶん小さなものでした。
 さっそくご住職のご案内で日本最古の仏像「本尊飛鳥大仏(銅造 釈迦如来坐像)」にご対面です。法隆寺金堂の釈迦三尊像を制作した鞍作止利の作だそうですが、1196年の落雷で大きく損傷したあと仏師ではない鋳造職人によって慣れない修復が施されたためか国宝にはなっていません。創建当時の姿をそのまま残しているのは頭部だけだそうです。創建時と同じ場所に座して1400年、飛鳥の大仏さまは、手を合わせる人々に何を見、何を思ってきたことでしょう。
 ボランティアガイドさんから、往時の伽藍があった場所や蘇我入鹿首塚を案内いただいたあと、田畑が広がる明日香村をぶらり歩きです。歴史風景を後世に残すため、このいったいは原則として建物を建てることができないとか。屋根瓦の色も制限され、木を一本切るにも許可が要るのだと。村の方々の、そんな努力が今の明日香村を支えています。
 古い町並みの一画で昼食をとったあと、次は西国三十三カ所第7番札所・東光山龍蓋寺「岡寺」に向かいました。この岡寺は「日本最初のやくよけ霊場」と言われ、「663年草壁皇子のお住みになっていた岡の宮を仏教道場に改め、当時の仏教の指導者であった義淵僧正に下賜され、創建1300有余年の歴史」を有するのだそうです。
 こちらのご本尊は如意輪観音像(重要文化財)。日本最大、最古の塑像観音像で、弘法大師がインド、中国、日本の三国の土で造ったものと伝えられています。観音像を拝観したあと、開山堂や書院、三重塔、奥の院などを見て回りました。このお寺はシャクナゲの名所としても知られています。
 観光マップをみると、橘寺、天武・持統天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳、石舞台古墳など見所たくさんの明日香村です。もう少し足を伸ばすと、西国三十三カ所の第6番札所「壺阪寺」、第8番札所「長谷寺」もあります。機会をみて、また歩きたいと思いました。この日は、夕方5時前に阿部野橋駅に戻り、反省会という名の呑み会があって、元気なシニア学生たちは夜遅くまで語り合いました(笑)。

 そうそう書き忘れていました。先週末、「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXVI」を聴きに京都岡崎にあるロームシアター京都に行ってきました。この日の演目は、ラヴェルの歌劇「子どもと魔法」(全1幕)」とプッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」(全1幕)でした。
 残念だったのは、「子どもと魔法」を指揮される予定だった小澤征爾さんが、直前になって病気のため降板されたこと。毎年、長野県松本市で開かれるセイジ・オザワ 松本フェスティバルに行ったことがないので、ぜひお目にかかりたかったのですが適いませんでした。一日も早いご回復を祈念するばかりです。(下の写真は配付資料に入っていた小澤征爾さんからのメッセージ)
 ロームシアター京都のメインホール。4層バルコニー構造(約2000席)の本格的なホールは初体験でした。なんと、前の列に前職でお世話になった研究開発部門の方がご夫婦でいらっしゃっていました。奇遇というべきか、仕事を離れての人と人の出会いは楽しいものです。

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シニアにしてなおも「迷えるヒツジ」??

2017-12-15 21:17:30 | 西国巡礼

 先日、カレッジの校外学習の一環として、滋賀県の西国第13番札所「石山寺」とMIHO美術館に行ってきました。近畿地方にも寒波が押し寄せた日で、時々みぞれが舞うそんな寒いなか、元気なシニアたちは出かけました。
 石山寺は、聖武天皇の勅願により天平勝宝元年、良辨僧正によって開祖され、歴朝の尊崇あつい由緒ある寺院で、一時期、戦の舞台になったこともあります。ご本尊さまは如意輪観世音菩薩。本堂は縣下木造建築では最古のもので、内陣は平安中期、外陣は淀君の修補になるものだそうです。堂内には紫式部が「源氏物語」を書いたと伝えられる「源氏の間」がありました。硅灰石という奇岩の上に立つお寺ということで「石山寺」と名づけられました。
  ボランティアガイドさんの案内で、石段をのぼって御影堂、毘沙門堂、観音堂、蓮如堂などを見て回り、本堂にお参りしたあと、鎌倉時代に建築された多宝塔とご対面です。長い年月、風雪に耐えた多宝塔、昔の切手のデザインに採用されたこともあるのだそうです。ここ石山寺を舞台に様々な人間模様が繰り広げられたであろうことに思いを馳せながら、御朱印帳に記帳をいただいて帰りました。
 次に向かったのは、「MIHO MUSEUM」でした。とある宗教団体の創始者が収集したという国内外の美術品コレクションが展示されている美術館ですが、私の関心は、仏ルーブル美術館のナポレオン広場あるガラス製のピラミッドを設計した建築家I.M.ペイ氏が手がけたMUSEUMの建築空間でした。
 バスを降りると階段を登ったところに広場があり、その先にMUSEUMに通じる正門があります。門をくぐると、しだれ桜並木が続き、しばらく歩くと美しいトンネルが見えてきます。MUSEUMは、そのトンネルを抜け、橋を渡ったところにありました。ガラスと枠組で構成された近代的な建物が、広大な山の中に佇んでいます。
 ちょうどこの日は、開館20周年記念特別展「桃源郷はここ~I.M.ペイ氏とMIHO MUSEUMの軌跡」が開催されていました。日本の仏像、古美術のほか、エジプト、西アジア、南アジア、中国など世界各地の彫像、装飾品、金細工、彫刻などが配置され、なかには紀元前2千年も前の精緻な金具細工もありました。国や地域によって微妙に異なる古代の人々の感性に見入ってしまいました。
 ところで、今年は南方熊楠生誕150周年の節目の年にあたります。そんなわけで先日、NHKテレビ(Eテレ)で放映された「TVシンポジウム」の録画を見ました。10月22日に和歌山県田辺市の紀南文化会館で開かれた南方熊楠生誕150周年記念シンポジウム「いのちのマンダラに生かされる~今に息づく南方熊楠の思想」です。エコロジー、神社合祀反対、粘菌研究、南方マンダラ。訪米・訪英時代の生きざまを含めて、熊楠の魅力に迫るものでした。
 基調講演は生物学者の池田清彦さん、演題は「南方熊楠と生物多様性」でした。続いて、人類学者の中沢新一さんがコーディネーターを務めるパネルディスカッションです。タレントの篠原ともえさん、占星術研究家の鏡リュウジさん、栄福寺住職の白川密成さんという異色のメンバーでした。注目したのは、高野山大学時代に論文「密教と現代生活―南方熊楠・土宜法龍往復書簡を中心にして」をまとめた白川住職でした。その論文は、熊楠と土宜法龍が交わした書簡を通して熊楠の生命観に迫る労作なんだとか。
 中沢さんは「南方マンダラ」についてこう説明します。熊楠は、因果関係の連鎖から法則性を考える西洋の近代科学に限界を感じて、東洋の「縁起」の論理を提起したのだと。ふたつの事柄の因果の関係性だけではなく、「顕在化しているもの」と「潜在化しているもの」が複雑に絡み合って物事は動いているのだと.....。中沢先生には、来年の2月に京都で開かれるシンポジウムで直接お話を伺う予定です。
 パネリストの白川住職、どこかで聞いたことがあるお坊さんです。思い出したのがお遍路で参拝した四国八十八カ所第57番札所・栄福寺。境内にある看板に映画「ボクは坊さん」のポスターが貼ってありました......。すっかり忘れていました。さっそく近所のTSUTAYAで借りてきました。伊藤淳史主演、新米住職の奮闘と成長を描いたドラマ、とあります。もちろん物語の主人公は、白川住職でした。
 ...........石山寺、MIHO MUSEUM、南方熊楠、白川住職。こうして1週間を振り返ってみると、なんとなく人の「生きざま」「生き仕方」、そして「社会の在り様」を考えている私に気づきます。長い仕事人生とは違う何かを考えている。そうなんでしょうね。明日は、広井良典先生ご登場の「いま」を考えるトークシリーズ 「定常型・高齢化社会の“創造的”生き方を考える」に出かけてきます。シニアにしてなおも「迷えるヒツジ」は、先行き不透明な時代に自分の立ち位置を求めて右往左往しています(笑)。
 そうそう、さきほど年明けの1月半ばに出かける「歩き遍路」第三弾の宿と高速バスの予約を済ませました。宿の主人に「冬の時期に歩き遍路する人はいますか」と尋ねると「寒いですからね。少ないです」と。かの家田荘子さんのブログをみると、ちょうどこの週末、私が歩く予定の太龍寺、鶴林寺、平等寺あたりを歩いていらっしゃるご様子です。太龍が岳の下も雪が舞ってキーンとした寒さなんだとか。体調を整えて挑むことにいたしましょう。

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ひたすら歩く~西国三十三カ所巡礼

2017-09-08 20:12:05 | 西国巡礼

  今週のカレッジのテーマは「おとぎ話の音楽~ラヴェルのピアノ連弾のための『マ・メール・ロワ』」でした。がちょうおばさんのお話、といったところでしょうか。お二人のピアニストの連弾やギュスターヴ・ドレの挿絵を交えて、4時間にわたって先生の講義をお聴きしました。
  楽しかったカレッジも、今月で1学年が終わり、10月から始まる新学期には班編成もがらりと変わります。授業のあと、同じ班の仲間たちと呑み会をしました。お別れ会?それとも慰労会?。名目はともあれ、お酒も進み、楽しいひとときを過ごしました。様々な仕事人生、家庭人生を終えた大阪のおばちゃん、おじちゃんたちと学んだこの1年。たくさんの出会いと気づきをいただきました。

 ところで、話は変わりますが、四国八十八カ所「歩き遍路」の出発が1週間後に迫ってきました。何かを思い詰めてのことではありません。ただただ、四国の畦道、原風景を歩きたくて.....。今回は、第一番札所の霊山寺から第十一番札所の藤井寺までの約38キロを、2泊3日の日程で歩いてきます。
 「歩き遍路」ということで、二巡目の今回から菅笠、金剛杖も事前に注文してホテルで受け取ることにしました。30Lのリュックも新調しました。テーピングや外傷治療セットも用意しました。きょうネットでJR高速バス(大阪駅⇔徳島駅)の切符の手配も終わり、いよいよ出発の日を待つばかりです。
 とは言え、夏の間はウォーキングへの参加を控えていましたので、2日間で38キロという距離は少し心配です。そんな折、古本フェアで手にした白洲正子著「西国巡礼」を眺めていて、急きょ、予行演習のために西国三十三カ所を巡ってみることにしました。行き先は、京都市内の第十五番札所の観音寺(今熊野観音寺)から第十九番札所の行願寺(革堂)までの5カ寺。およそ12キロの道のりを4時間かけて歩きました。
 まずは、京都駅からひと駅目の東福寺駅を出発して、第十五番札所・観音寺(今熊野観音寺)に向かいました。8月初旬に座禅と写経を体験した勝林寺、東福寺の横を通って、月輪山の麓に佇む泉涌寺をめざします。せっかくだからと泉涌寺を拝観しました。天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだことに由来するお寺のようですが、大門をくぐると、その先に大きな仏殿と舎利殿がみえます。仏殿に安置される三世仏にご対面したあと、境内を散策しました。
 第十五番札所・新那智山 観音寺はそのお隣にあります。鳥居橋を渡って境内に入ると大きな本堂が見えてきます。略縁起によれば、平安時代の825年頃、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創したお寺で、ご本尊は「大師が熊野権現から授かった一寸八分の観音像を胎内仏として自ら彫刻した十二面観世音菩薩」だそうです。
 西国三十三カ所巡礼用の「納札」を求め、持参した線香と蝋燭を供えて本堂をお参りしました。納経所で御朱印をいただいたあと、大師堂をお参りして失礼をしました。
 京都一周トレイルコース標識に沿って次に向かったのは、第十六番札所・音羽山 清水寺です。ご本尊は十一面千手千眼観世音菩薩で、延鎮上人が778年に創建したお寺です。観音寺からはおよそ3.5キロほどの距離ですが、どうやら道を間違ったようで、40分もかかってしまいました(笑)。
 こちらはさすがに京都を代表する観光地です。仁王門前には午前中から多くの外国人観光客で溢れ、有名な「音羽の滝」には長い長い行列ができていました。あいにく「舞台」が工事中だったので、本堂でお参りし御朱印をいただいて失礼をしました。
 観光客を避けながら清水坂を下って東大路通りに出ると、今度は第十七番札所・補陀洛山 六波羅蜜寺に向かいます。ご本尊は十一面観世音菩薩、空也上人が951年に創建したお寺です。京の街中にあって、念仏をすすめ、病人や貧者を助け、橋を架けたり井戸を掘ったりしたことから「市の聖」と呼ばれているのだそうです。念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れる伝承を表した「空也上人立像」が安置されていることで有名なお寺です。
 松原橋を歩いて鴨川を渡ったところで、いったん昼休憩です。
 そのあと新京極通りを北上し、途中で六角通りを西に歩いていくと、ビルに囲まれるように佇む第十八番札所・紫雲山 頂法寺(六角堂)が現れます。こちらのご本尊は如意輪観世音菩薩。聖徳太子が587年に創建したという古いお寺です。太子が沐浴をされた池のほとりに小野妹子が始祖の池坊とよばれる住坊があって、そこの僧侶が御宝前に供えた花が、生け花の始まりなのだそうです。境内の隣には池坊会館が建っていました。
 この日最後のお寺は、第十九番札所・霊鹿山 行願寺(革願)です。御所に向かって北上し、裁判所のところで東に入ると、細い道の先の寺町通りと交差するところに行願寺が見えてきます。六角堂からは約1.5キロの道のりでした。ご本尊は千手観世音菩薩、行円上人が1004年に創建したお寺です。古めかしい立派な本堂が印象的でした。
 西国三十三カ所巡礼は、近畿2府4県と岐阜県にまたがる三十三の観音霊場を巡るものです。その始祖は大和国長谷寺を開いた徳道上人、再興の祖が花山法皇と言われています。この6月に第十番札所・明星山 三室戸寺に参拝したときに御朱印帳を戴いていましたので、今回の5カ寺を含めると6カ寺を巡ったことになります。ただ、京都を除いてお寺が広域に点在していますので、年限は設けず、気の向くままに1カ寺ないし数カ寺単位で根気よく歩いてみようと思っています。

 時々、家内から「うちは浄土宗なのに、なんで身体を酷使してまで真言宗のお寺巡りをするの?」という素朴な質問を受けます。私にも分かりません。ただ、千数百年にわたって庶民の信仰の対象であり続けた古めかしいお寺の、本堂や大師堂の薄暗い奥に安置されている仏像に対面したときの不思議な感覚。その一瞬であっても、長い仕事人生の過程で纏った鎧を、一枚また一枚と脱ぎ捨てていく清々しさ。最後に残るものが「私」なんでしょうか.......。答えはいずれ、歩いているうちにぼんやりと見えてくるんだろうなと思っています。 

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京都・宇治の三室戸寺(通称あじさい寺)を訪ねて

2016-06-11 22:36:57 | 西国巡礼

 きょうの土曜休日は、京都・宇治の三室戸寺、通称あじさい寺に行ってきました。かの平等院とは2キロほどの距離にあって、西国観音霊場十番の札所、約1200年前に創建されたお寺です。この時期、50種・1万株の西洋アジサイ、額あじさい、柏葉アジサイのほか新種のあじさいを楽しむことができます。きのうの朝のテレビニュースで紹介されたためか、若い方をはじめたくさんの方々がお越しになっていました。本堂のある境内で、ベンチに座って休憩をしていたとき、お隣のご老人が言うには、この時期、三室戸寺は雨の日が一番美しいと。なるほどと思いました。.......妙な言葉より、まずは写真をご覧いただきましょう。
 夕刻、長女のご自宅におじゃまして、久しぶりに孫君たちと近くの料理屋さんで夕食会をして帰りました。...きょうは7時間もお留守番をしていただいたゴンタ爺さん、帰宅すると、あきれ果てたのかお眠りになっておりました。
 先週は弱々しかったゴンタ爺さんですが、今週は比較的落ち着いています。ちゃんとお散歩ができるようになりました。でもひとつだけ事件が.....。お散歩に行くとき、抱っこをして玄関口まで行って、外に出た瞬間、右の手のひらに湿っぽい温もりが。我慢できなかったのでしょうね。お漏らしをしてしまいました。申し訳なさそうな顔をしていました。様々な機能が徐々に弱くなってきているでしょう。仕方ありません。いいよ、いいよと言ってあげました。
 飼い主である私も先日、3カ月検診のため仕事帰りに病院に行ってきました。ずいぶん待たされたあと、検査結果に特段の懸念はなし。休肝日のことは話題になりませんでした。(-_-;)
 「でも、お薬は続けましょうね」と女医先生の優しいお言葉。次回診断日の話になって「来月でリタイアするのでいつでも結構です」と言うと、「運動量が違うのに現役の時と同じ量の食事をしていると健康によくありませんから、仕事をお辞めになって当分の間は食事に気をつけてくださいね」。優しいアドバイスが胸に響きます。確かにそうです。時間だけでなく身の周りのすべての微妙な変化に身体を慣らしていかなければなりません。
 そう言えば、きのうの毎日新聞夕刊で「お遍路逆打ち人気。4年に一度、レアな功徳」という記事に目が留まりました。四国八十八カ所霊場を巡るのに、ふつうは一番札所の霊山寺から回るのだそうですが(順打ち)、うるう年の今年は八十八番札所の大窪寺から逆に回る「逆打ち」が功徳があり、人気があるのだと。そのため人の流れが変わり、お店や宿が困惑しているのだそうです。わたくしは、ぶれることなく計画どおり「順打ち」で進めます。
 四国遍路に関する今週の学習は、「山折哲雄の新・四国遍歴」(PHP新書)でした。お遍路というよりも、四国の文化を海と山の両方から眺めた旅行記です。山折さんが注目したひとつに、平安時代、瀬戸内海に君臨した水軍のことがありました。江戸の末期に活躍した「咸臨丸」の乗組員の半数近くが、丸亀港からほど近い塩飽諸島の出身だったとか。四国の歴史と文化の奥深さ、幅広さを思ったものでした。
 また、山折さんは「青少年のいじめや自殺といった問題と向き合い、歴史や民俗、宗教学の視点から解決への糸口を探って、精力的に著作や講演を重ねている」のだそうで、「若衆」という青年の自治組織、その場としての「若衆宿」にも注目します。地域の防災や祭りなども担うなど、若者がある種の社会性を身に付けることに大きな役割を果たしたのだそうです。終戦を境にドラスティックに軸足を移した日本、その前後に大きな文化の断絶があります。その評価には、まだ少し時間がかかりそうです。

 この時間になって、身体に疲れが感じられます。スマホの万歩計、きょうは1万歩のちょっと手前でした。今夜は早く眠ることにいたしましょう。 

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