6月も残すところあと僅か。きょうは、伸び放題になった庭の木々を剪定したので、身体の節々が悲鳴をあげています。身体を労わるように、ベルガモットの花を摘んでお茶をいただいたり、庭中のハーブを集めて入浴剤にしたり。そんな1日でした。
梅雨明けには、まだまだ日にちがかかりそうですが、7月に入れば夏も駆け足でやってくるのでしょう。そうこうするうちに8月になり、65歳になります。そこで今夏は、気分を一新するため、高野山夏季大学に参加することにしました。7月31日から2泊3日の日程で、宿坊に寝泊りして、識者のお話を聴いたり、阿字観(真言宗の瞑想法)を体験したり、大杉が林立する聖の世界を散策したり.....。
ビジネススーツを脱ぎ捨てて、一期一会の出会いを楽しむ。千二百年の時空間を彷徨いながら、これからの生き方を考えます。きょうは松長有慶著「高野山」(岩波新書)をめくりながら、夜な夜な過ごしています。
ところで、きょう近くのスーパーにお買い物に行ったら、不意に後ろから話しかけるお婆さんがいました。「おたくのワンチャン、お元気?」。振り向いても、面識がありません。聞けば、私がゴンタ爺さんと散歩している姿をよくご覧になっているのだと。少しベンチに座ってお話をしました。
「うちのワンちゃん、16歳なんだけど、14歳頃から元気がなくなり、今はお散歩にも行けないの。腎不全で毎日、点滴を打っているの」と。「うちの犬と1歳しか違いませんね。まだ散歩には出かけていますが、以前に比べるとずいぶん弱くなりました」とお話すると、「そうでしょう。人間と一緒なのよ。私も同じよ」と.....。30分ほど話し込んでしまいました。ペットと人との共生。高齢社会にとってひとつのテーマかもしれません。
最初から横道にそれてしまいましたが、先日の朝、バス停でバスを待っていると、道路の反対側の木立の中から鶯の鳴き声が聞こえてきました。春先の幼鳥とは全く違い、ときおりホーホケキョ、ケキョ、ケキョと「谷渡り」の技を交えながら、朗々と唄います。と、一瞬、静かになります。聴衆に「拍手が足りない」と無言の催促をしているご様子です。しばらくすると、またもや歌い始めます。しばし聞き惚れてしまいました。
そうそう、昨日の朝、睡蓮の鉢を覗いてみると、まだ開花する様子はなし。が、お昼過ぎに家内から「睡蓮が咲いたよ」と写真付きのメールが届きました。帰宅したときは閉じていましたが、今朝もういちど覗いてみると、しっかりと花弁を広げていました。これを数日繰り返して束の間の世を楽しむのでしょうか。上の写真は家内がスマホで撮ったもの、下は私が今朝デジカメで撮ったものです。
睡蓮。英名はWater lily と言います。睡蓮といえば、クロード・モネの絵を思い出しますが、花言葉は「清純な心」「信頼」「信仰」。英語では「purity of heart(清らかな心)」と言うのだそうです。
萼(がく)が割れて真っ白い花弁が開き、その中央に黄色い雄しべが見えます。なんと清楚なお姿であることか。今夏はいくつ開花してくれるのでしょう。鉢の中には、白色と桃色の二種類植えています。何年も咲くことのなかった睡蓮が、我が家の鉢の中でやっと花開きました。梅雨の鬱陶しさもどこかに飛んでいってしまいました。
きょうは久しぶりにLPレコードを聴きながらのブログ更新でした。取り出したのはマルタ・アルゲリッチが奏でる「トッカータ」と「パルティータ」、そして「イギリス組曲」です。いずれもバッハの作品ですが、同じ曲を私はグレン・グールドの演奏でなんども聴いています。
このLP、1979年2月にベルリンで録音したものですから、LP時代晩年のものになります。あの頃、あっという間にCDに変わったことを覚えています。社会人になって10年も経っていない頃のことでした。でも、最近、LPへの郷愁、回帰現象がみられます。
<番外編>
何気なくネットを彷徨っていたら、「心の風景」の中国語バージョンを発見しました。おそらく機械翻訳でしょうから、正確な中国語ではないにしても、昨年2月14日の記事「小雨の中を能楽堂に行く」が翻訳されていました。翻訳までしてお読みいただくような代物ではございません。ご迷惑をおかけしております。m(_ _)m