心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

2006年を振り返る

2006-12-31 11:29:14 | 旅行

 年末年始休暇の初日、家内と二人で小旅行に出かけました。行き先は、飛騨の白川郷。1995年に世界文化遺産に登録された合掌づくりの集落です。幸い天候に恵まれて現地まではスムーズに辿り着いたのですが、合掌づくりのお家を公開されている長瀬家を拝見させていただいたあたりから雲行きがおかしくなりました。いつの間にか雪が舞い始め、それもどっしりと重みのある雪でしたから、見る間に一面雪景色に。30分も経つと積雪も10㌢ほどになり、自然の厳しさを改めて思ったものでした。車を走らせ何とか富山方面に抜け出し、温泉で一泊をして帰りました。こうした空間移動は、日々時間と睨めっこをしている現代人には、自らの存在を原点に立ち返って考えさせるきっかけを与えてくれます。あまりにも軽薄な自らの人生を、時間(歴史)の重みとの対比のなかで考えさせてくれました。
 今年も、いろいろな出来事がありました。このブログを振り返ってみると、新年の「御神籤は小吉」から始まって、概ね毎週日曜日ごとに他愛ない事柄を綴ってきました。年の前半にはNHK講座で出会った白州正子さんに強い影響を受け、それを糸口に小林秀雄や柳田國男の扉を叩いた1年でした。レコード音楽に火がついたのも、今年の大きな特徴です。中古レコード店に足繁く通いました。西本智実さん指揮のチャイコフスキー未完成交響曲および第5番との出会いが、例年以上に音楽の世界にのめり込むきっかけを与えてくれました。
 その一方で、仕事の上でも大きな変化がありました。素晴らしいプランナーの方との出会いがあった反面、社内体制の急変に相当なプレッシャーを感じ落ち込んだ時期もあって、その時期のブログを振り返ると内向きなテーマが多かったように思います。無意識のうちに何かに救いを求めようとする幼稚な「心」の動きが垣間見えます。しかし、塩野七生さんの歴史小説に励まされ、周囲に迎合するでもなく一貫して自らの足元を見つめながら踏ん張ってきたことが功を奏したのか、ぶれることなく新しい方向性を見い出せたのは幸いでした。
 今年は、長男君にお嫁さんをお迎えしたことも我が家の重大ニュースのひとつです。ハワイで楽しく結婚式を挙げました。わたしたち夫婦がめでたく真珠婚を迎えたのも今年、大学時代の友人と嬉しい再会を果たしたのも今年でした。この年末年始は久しぶりに家族全員が勢ぞろいです。きょうは小沢征爾指揮のチャイコフスキー交響曲第5番を聴きながらの更新作業、今年の聴き納めです....。
 最後になりましたが、この1年間、他愛ないわたしの戯言にお付き合いをいただきました皆様方には、この場を借りて厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。どうぞ良いお正月をお迎えください。

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現在・過去・未来

2006-12-24 15:12:41 | Weblog
 師走の休日の朝、愛犬ゴンタとお散歩に出かけました。地面一面に敷き詰められた木の葉を踏みしめ、晩秋の風情を感じながらのお散歩でした。ことしも、もうあと1週間で幕が閉じようとしています。
 考えてみれば、このブログを始めて2年が経ちます。最初の頁をめくってみると、2004年12月18日「愛犬ゴンタの部屋」でデビューを果たしました。そうなんだ、ゴンタも7歳になったんだ。以前の個人ホームページは「My Coffee break」というタイトルでした。その中から「愛犬ゴンタの部屋」を独立させたのが、このブログですが、なにやら方向性がずいぶん違ってしまいました。
 ところで、このブログの書き出しで、私は、努めて肌で感じる季節感を表現します。他愛ないものですが、それでも、自らの存在を現在・過去・未来という時間軸で捉えることによって、ひとりの生き様を確認するという思いがあります。現在を起点にしてただ単に明日を夢見るのではなく、現在を軸足に置きながらも、過去と未来を行ったり来たりしながら明日を考えることで、不安定な足場に一定の存在感を付与したいという思いです。
 私が「歴史」に関心を寄せるのも、同じ理由です。歴史的事実という知識を身につける、いわゆる物知りになろうというのではありません。その時代その時代に、この地球上に生きたある人物が、何を見つめ、何を考え、どのように判断して行動したのか、という視点から歴史を眺めれば、それが古代ローマ時代であろうと、ルネッサンスの時代であろうと、あるいは近代であろうとも、共通した人間臭さのようなものを感じることができます。そこから、大きな勇気をいただくことができます。
 最近、「ローマ人の物語」全15巻(新潮社)を完結した塩野七生さんのインタビュー記事を、朝日新聞と日本経済新聞で拝見しました。塩野さんは、古代ローマ1200年の歴史を15年かけて毎年1冊ずつ上梓されました。学術書ではなく歴史小説なのですが、塩野さんの鋭い歴史観、人間観に支えられた、この遠大な歴史小説は、私たちに多くのことを気づかせてくれました。インタビュー記事では、「帝国」の意味を問い、ローマの多様性(多神教)と寛容の精神をお話しになっていました。敗者をも同化していく共存共栄の精神による多民族の運命共同体が1200年のローマを支えたといい、今日の複雑にして多様性に富んだ時代環境に問題提起をする。これが塩野さんのテーマでした。
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音楽と戯れる

2006-12-17 00:20:33 | Weblog
 先日、植木屋さんに庭のお手入れをしていただいて、その翌朝、散髪を済ませた庭木の枝先に数羽のシジュウガラが止まっているのに気づきました。白い胸にネクタイを締めたような黒いラインが特徴なのですが、敏捷なしぐさを見せながらチッチッっと鳴く姿がなんとも愛らしいのです。我が家にもいよいよ野鳥たちがやってくる季節を迎えました。
 ところで、週末を迎え仕事を終えると、意識的に仕事から遠ざかろうとする私がいます。いろいろ気がかりなことがないわけではないけれど、極力それから遠ざかろうとする私がいます。一人の身体の中に二人の私が鬩ぎあう、なんとも不可思議な現象なのですが、これも現実世界に対する私の小さな抵抗なのかもしれません。自らの存在感を確かめようとしているのかもしれません。
 今夜は久しぶりにMJQ(The Modern Jazz Quartet)のレコードを聴きながら更新作業を進めています。なぜ週末の夜に?実は明日の日曜日は滋賀県彦根市にお出かけなのです。大学時代の友人と琵琶湖河畔で美味しいお酒を呑もうと決めています。そんなわけで、今夜は学生時代に聞いたMJQのレコード「The European Concert」を探し出して聴いています。1960年代のスウェーデンでのライブ録音で、心地よい「のり」が気に入っています。
 ジャズといえば、忘年会のお店に向かう途中、中古レコード店に立ち寄って、珍しく「オスカー・ピーターソンの世界」とダラーブランドの「賛歌」を手にしました。いつもクラシックばかり聴いているようでも、実は思考が硬直化したとき、あるいは目の前に大きな壁が立ちふさがったとき、そんなときに脳味噌を揉み解すために、ジャズのレコードを持ち出すことがあります。ジャズピアノの渦のなかに身をおいて、無心でいる時間、これをわたしは大事にしています。座禅に近いものを感じながら、舶来の音の世界に身を投じます。
 中古レコード店では、他にジョージ・セル指揮とハイティンク指揮のチャイコフスキーの交響曲第5番のLP2枚もしっかりゲットしました。最近は、休日前夜ともなれば、分厚いスコア(楽譜)をめくりながら第五番を楽しむという贅沢な時間を過ごすこともあります。クラリネット、オーボエ、フルート、ファゴット、トランペット、トロンボーン、チューバ、ティンパニー、それにヴァイオリンが加わり、何重にも重なる旋律を追っていると、交響曲というとてつもない世界が現れます。音符という「記号」を用いて、チャイコフスキーが何を考え何を伝えようとしたのか。そんな好奇心が頭をもたげます。こんな調子で、週末の長い夜は、まだまだ続きます。
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地域との絆

2006-12-10 13:15:07 | Weblog
 師走の慌しさを横目に、昨日今日と久しぶりに連休を楽しんでいます。休日返上で忘年会をこなしながら、まだまだ続く年末行事に備えて少し小休止といったところでしょうか。昨日は朝からベートーヴェンの「第9」を鳴らしながら、音楽雑誌に目を通したり、レコードを磨いたり。最近は比較的静かな曲を好んで聴いていますが、年末はやはり「第9」が良く似合う。そんなことを思いながら、ゆったりとした時間を過ごしました。
 そうそう、先日、東京に日帰り出張したとき、新幹線の車窓から雪帽子を被った富士山を見ました。裾野は穏やかな天候につつまれているのに、山頂付近は真っ白な雪が積もっている風景は何とも凛々しいものでした。やはり富士山は美しい山です。微動だにすることなく、どっしりと構え、人間たちの行動をときどき心配しながらも温かい眼差しで見つめている。神々しい、何かそんな印象を受けました。
 神といえば、先日、田舎の友人から一通の手紙が届きました。内容は神社保存募金のお願いでした。古事記にも登場するほどの来歴をもつ、わたしの田舎の古い神社が、だんだんと管理が手薄になって荒廃が進む現状を放置できない、なんとか助けてくれ、という窮状が書き綴られていました。「改修に浄財呼びかけへ」と題する新聞記事も同封してありました。小さい頃、友人と一緒に神社の境内でよく遊びました。夏や秋のお祭りは楽しみのひとつでした。そんな懐かしい風景が浮かんできます。町会議員でもある彼に、早速、電話を入れて、話を聞きました。彼の郷土に対する熱い思いがひしひしと伝わってきました。自分のためではなく、世のため、人のために努力を惜しまない、そんな彼の行動をある意味、羨ましくも思いました。さっそく翌日、幾ばくかの募金をいたしました。
 戦後の民主教育を受けて育ったわたしたちは、「ムラ」社会に対して余り良い印象は持っていません。閉鎖社会、タコツボ社会、島国....。近代的な企業組織でさえも独特の「ムラ」社会を構成していることだってあります。それが談合というかたちで表面化する。だから、それは悪だと教わってきた。「ムラ」という狭い共同体のなかで育んできた独特の文化、行動様式を時代錯誤と受け止めた。でも、冷静に考えてみると、こんな安易な二元論的思考で良かったのかどうか。狭い個人主義の隘路に陥り、人間不信に陥り、隣近所、地域といった共同体を見失いつつはないか。
 最近の様々な出来事を思うと、須らく二元論的思考が、社会全体を狂わせているような気がしてなりません。「戦争」に対する総括が曖昧だったために、「二元論」という悪魔が闊歩してはいないでしょうか。親を愛せない人間、子を愛せない人間、どうしてこんな世の中になったのか。精神的な拠り所を見失い放浪する現代精神が気になります。戦後教育の在り方が問われているのは、案外、身近なところに解決すべき課題があるような気がします。それを政治問題化するから話がややこしなくなってしまいます。
 こんなことをつらつら考えならが、師走の日曜日の午前は、地元自治会の「餅つき大会」に汗を流してきました。ぜんざい、やきもち、きなこもち....。今日は昼食はなしと決めました。(^^♪
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アンドレア・ボチェッリ

2006-12-03 10:50:54 | Weblog
 わたしの職場は電車の駅から歩いて18分のところにあります。その途中に小さな公園があります。それを通り過ぎると遠くに職場の高いビルが見えてきます。毎日、少し早足で歩くこの往復が、わたしのささやかな運動です。
 その僅かな時間を、ときには音楽を聴いたり、ラジオニュースを聞いたりしているのですが、昨日は少し考え事をしていて、何かの拍子に天を望むと、公園に聳える大きなイチョウの黄色い葉っぱが陽の光に輝いて、わたしに迫ってきました。一瞬、目が眩み、立ち止まり、心臓がドキンと大きく鼓動するのを感じました。視界には、真っ青な空に真っ黄色のイチョウの葉っぱ。このコントラストが、ある種非現実な世界にわたしを誘うかのようでした。この不思議な体験をわたしは一日中引きずっていました。
 ところで12月に入ると、さすがに愛犬ゴンタとの夜のお散歩も、厚手のジャンパーが要ります。それでも、毎年この時期になると、住宅街の庭々に様々なイルミネーションが輝き、昼間とは違う表情を見せてくれるから嬉しい。澄みわたった夜空には綺麗な星座を仰ぐことができます。なんだか「温かさ」をいただいたような気分になります。人間って不思議ですね。環境の変化にきわめて敏感な生き物なんだとつくづく思います。やはり地球空間の中に生かされている小さな存在なんだと思います。
 こんな季節は、ジャンパーのポケットにデジタルオーディオプレイヤー忍ばせ、イタリアのテナー歌手アンドレア・ボチェッリのCD曲を楽しみながらのお散歩になります。ですが、ついつい遠回りをしてしまい、帰宅がずいぶん遅くなって、家人に心配をかけることもあります。彼のレパートリーは、ポップスからオペラまで幅広く、ファンの裾野には広いものがあります。「夢の香り」「ロマンツァ」「アモーレ~オペラ・アリア集」「セイクリッド・アリアズ~アベ・マリア」「ビアッジョ・イタリアーノ」「愛のために」「燃える心を~ヴェルディ・アリア集」「トスカーナ」「アランフェス~センチメント」「アンドレア」など。最近、サラ・ブライトマンと歌う「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」が、テレビCMなどで登場していますから、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
 以前にもご紹介したことがありますが、ボチェッリは子供の頃の怪我がもとで視力を失いました。しかし、「こころ」は失っていない。それ以上のものを彼は育みました。自らが「在る」空間を全身で受け止め、自分の思いを素直に表現できることの素晴らしさを思います。自著「沈黙の音楽」(早川書房)を読んで、その彼から、わたしは「真摯に生きること」を学びました。病める現代人に、一筋の希望を与えてくれます。悩める若い方々も、すぐに自死なんて考えないで、不思議な地球号に乗って楽しい旅をしようよ。先は長いんだから。

アンドレア・ボチェッリのWEBサイトをご紹介します。http://www.andreabocelli.com/2006/home.html
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