御宿ひぐらし日記

田舎暮らしをはじめて、、日々の閑話、、

マニフィカト

2022-02-05 11:55:01 | 日記・エッセイ・コラム

      

この病院では、21:00消灯、6:00起床。

   

三週間近く居るとさすがに慣れた。

    

私は起きて即点滴。

    

寝惚け眼でradikoをonするとバッハのマニフィカートが。

   

あれっ、『受胎告知(最近は神のお告げと言うらしい)』って、来月じゃ

と思ったら、別に深い意味は無く流していたらしい。

    

重厚長大がトレードマーク(?)のバッハにしては、この曲は制約された

中での研ぎ澄まされたような表現に凄みさえ感じる。

    

バッハの最高傑作というヒトも少なくない。

    

私も最近はそう思う。

   

この曲は話題が多い。

   

素晴らしい改作前の変ホ長調版や、その中で完全な形では残されなかった

曲のハナシ等々書きたいことは一杯ある(一般のヒトには全く興味が

ないと思われるけど)。

     

今回はマニフィカートについてではなく、最近気になるシャイベのことを

書きたい(長くなりそうなので、興味ない方はこの辺りで切り上げて

ください)。

   

シャイベはバッハの弟子であったくせに、後にその作品を痛烈に批判

している。

   

私は子供の頃、センスのないやつだ。お前のせいでメンデルスゾーンが

取り上げてくれるまで、バッハは干されたと思っていた。

   

ただ大人になって当時のことを考えると、ルソーの啓蒙的な考え方が

一般的になる中、バッハの事を時代遅れの作曲家と言うのは、仕方

なかったのではと思う。

   

旋律とその伴奏的な、わかりやすいホモフォニーでギャラントな音楽が

好まれつつある時代に、声で器楽的なフーガを歌わせるのはさすがに

マズかったのだと思う。

   

でも、バッハは当時の先進的な大天才であるペルゴレージの音楽を

よく知っていて、『悲しみの聖母』を自ら書き直したりしてる。

   

『オレ、時代遅れかも知れないけど、このまま行くもんね』という自覚が

アリアリだったに違いない。

   

私たちにしてみれば、それで大正解。

   

バッハが鍵盤の左手でアルベルティバス(ドソミソみたいな)を弾いて

右手でクリスティアン・バッハみたいなメロディを書き出したら世も

終わりである。

   

終わりよければ全て良し。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする