信長狂詩曲(ラプソディー)・4
『広がる世界・1』
信長という姓は山陰地方に多く見られ、広島県尾道市から岡山市の間に集中してみられる。信永氏、延永氏からの転化だといわれ、けして冗談や気まぐれで付いた苗字ではない。これは、そんな苗字で生まれた信長美乃の物語である。
目の前が開けたような気がした。
荒木夢羅(あらきむら)をコテンパンにやっつけたあと、一年A組はガラリと変わってしまった。男子で幅をきかせていた滝川浩一もペーパーナイフごと食べかけの団子を取られ、気圧されてしまった。
それまでA組は、一年生の中でも最悪のクラスと言われ担任の斯波を始め、教師は、みな嫌がった。
そんな教師の中で、今川義子だけは、なんとか教室の秩序を保ちながら授業ができた。ちなみに、この学校で、なんとか教師がましく授業ができるのは、二年の武田、三年の上杉、北条ぐらいのものであった。
そんな今川義子でも、A組の子達に「起立、礼、着席」をさせることは諦めていた。
それが、教室に入ったとたん日直の「起立!」の声で全員が立ち上がったのだ! 今川義子は、この道三十年のベテランだが、こんなことは初めてだった。立ち上がった生徒を見ても、だらしなくシャツを出しているものもおらず、スカートの下にハーパンを穿いている者もいなかった。
さすがにベテランの今川義子は、その驚きを顔にも出さず、涼しげに「礼」を受け着席させた。
今川義子は現代社会の教師である。で、自分の信念通り「日本国憲法」から入った。
「ええ、四月から憲法の話をしてきたけど、今日は、みんなキチンと聞く姿勢があるから、ざっと復習してからいくわね」
そう言って今川義子は憲法の三原則を書いた。
国民主権 基本的人権の尊重 平和主義
「えー、そもそも日本国憲法は、七十年余りにわたって改正されることもなく、この三原則を貫き、特に、平和主義を貫いてきたことは、日本の誇りとするところです」
私語一つしない授業は快感そのものだった。今川義子は、調子にのって持論の憲法論を述べた。
「……よって、日本は『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』ここ大事。この信頼から、戦力の不保持、憲法第九条が生まれるの!」
今川義子は、勢いよく黒板にアンダーラインを引いた。
「ウフ、フフ、フハハハ!」
突然の笑い声に、今川義子はたじろいだ。一瞬だれが笑っているか気付かなかった。そして数秒後、それが信長美乃のものであることが分かって腹がたった。
「なにがおかしいの、信長さん!?」
「先生、国家の三要素を教えてください」
「な、なによ、いきなり」
「憲法を論ずるなら、まず、国家の定義が必要だと思います。教えてください」
「いいわ、これよ!」
今川義子は、目にも止まらぬ早さで国家の三原則を書いた。
国民 主権 領域(領土、領海、領空)
ピシっと定規で引いたようなアンダーラインを引くと、美乃が爆笑した。
「なによ、信長!」
「その三要素って、みんな守らなきゃ保持できないものばかりじゃないですか」
「だーからあ、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してえ!」
「馬鹿ですか先生?」
「ば、馬鹿とはなによ!?」
「公正と信義に信頼できる国、そんなのどこにあるの?」
「そりゃ、現実にはいろいろあるけど、これは、日本が世界に誇る信念なの、だから、戦後70年戦争にまきこまれずに……」
「先生は、知らないか目をつぶっているだけ。朝鮮戦争に日本がまきこまれたのは、ジブリの『コクリコ坂』見ても分かる。朝鮮戦争中に戦死者の中に日本人が混じっているって苦情が、ソ連とかから国連に言われてるの知らないの? 台湾や東南アジアの独立のために、どれだけ日本人が血を流したか知らないの? 戦後、国の独立のために戦争をしたことないのは、スイスとリヒテンシュタインとバチカン市国だけ。もっともスイスは国民皆兵だけどね」
「黙れ信長!」
「第一、占領中に憲法を改正させるのは国際法に違反してる。ドイツは占領されている間も憲法と教育制度には手を付けさせなかった! 国を守るのは力と頭なのよ!」
「そ、そんな……」
「クラスだって、力を背景にした信頼感。そうでしょ荒木……さん?」
「う、うん」
今朝の荒木夢羅との鮮やかなタイマンとも言えない一方的な美乃の勝利と「クラスは秩序! 守らない奴は、第二の夢羅になると思いなさい!」という宣言を、クラスの生徒は身にしみている。そして、その宣言は、教師でさえ例外でないことを、言葉と論理の力で示した。
美乃の中で分裂していた二つの人格が一つになりはじめていた。
その日の授業の終わりには、クラスが狭く感じられた。美乃の関心は学校全体に広がろうとしていた。
『広がる世界・1』
信長という姓は山陰地方に多く見られ、広島県尾道市から岡山市の間に集中してみられる。信永氏、延永氏からの転化だといわれ、けして冗談や気まぐれで付いた苗字ではない。これは、そんな苗字で生まれた信長美乃の物語である。
目の前が開けたような気がした。
荒木夢羅(あらきむら)をコテンパンにやっつけたあと、一年A組はガラリと変わってしまった。男子で幅をきかせていた滝川浩一もペーパーナイフごと食べかけの団子を取られ、気圧されてしまった。
それまでA組は、一年生の中でも最悪のクラスと言われ担任の斯波を始め、教師は、みな嫌がった。
そんな教師の中で、今川義子だけは、なんとか教室の秩序を保ちながら授業ができた。ちなみに、この学校で、なんとか教師がましく授業ができるのは、二年の武田、三年の上杉、北条ぐらいのものであった。
そんな今川義子でも、A組の子達に「起立、礼、着席」をさせることは諦めていた。
それが、教室に入ったとたん日直の「起立!」の声で全員が立ち上がったのだ! 今川義子は、この道三十年のベテランだが、こんなことは初めてだった。立ち上がった生徒を見ても、だらしなくシャツを出しているものもおらず、スカートの下にハーパンを穿いている者もいなかった。
さすがにベテランの今川義子は、その驚きを顔にも出さず、涼しげに「礼」を受け着席させた。
今川義子は現代社会の教師である。で、自分の信念通り「日本国憲法」から入った。
「ええ、四月から憲法の話をしてきたけど、今日は、みんなキチンと聞く姿勢があるから、ざっと復習してからいくわね」
そう言って今川義子は憲法の三原則を書いた。
国民主権 基本的人権の尊重 平和主義
「えー、そもそも日本国憲法は、七十年余りにわたって改正されることもなく、この三原則を貫き、特に、平和主義を貫いてきたことは、日本の誇りとするところです」
私語一つしない授業は快感そのものだった。今川義子は、調子にのって持論の憲法論を述べた。
「……よって、日本は『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』ここ大事。この信頼から、戦力の不保持、憲法第九条が生まれるの!」
今川義子は、勢いよく黒板にアンダーラインを引いた。
「ウフ、フフ、フハハハ!」
突然の笑い声に、今川義子はたじろいだ。一瞬だれが笑っているか気付かなかった。そして数秒後、それが信長美乃のものであることが分かって腹がたった。
「なにがおかしいの、信長さん!?」
「先生、国家の三要素を教えてください」
「な、なによ、いきなり」
「憲法を論ずるなら、まず、国家の定義が必要だと思います。教えてください」
「いいわ、これよ!」
今川義子は、目にも止まらぬ早さで国家の三原則を書いた。
国民 主権 領域(領土、領海、領空)
ピシっと定規で引いたようなアンダーラインを引くと、美乃が爆笑した。
「なによ、信長!」
「その三要素って、みんな守らなきゃ保持できないものばかりじゃないですか」
「だーからあ、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してえ!」
「馬鹿ですか先生?」
「ば、馬鹿とはなによ!?」
「公正と信義に信頼できる国、そんなのどこにあるの?」
「そりゃ、現実にはいろいろあるけど、これは、日本が世界に誇る信念なの、だから、戦後70年戦争にまきこまれずに……」
「先生は、知らないか目をつぶっているだけ。朝鮮戦争に日本がまきこまれたのは、ジブリの『コクリコ坂』見ても分かる。朝鮮戦争中に戦死者の中に日本人が混じっているって苦情が、ソ連とかから国連に言われてるの知らないの? 台湾や東南アジアの独立のために、どれだけ日本人が血を流したか知らないの? 戦後、国の独立のために戦争をしたことないのは、スイスとリヒテンシュタインとバチカン市国だけ。もっともスイスは国民皆兵だけどね」
「黙れ信長!」
「第一、占領中に憲法を改正させるのは国際法に違反してる。ドイツは占領されている間も憲法と教育制度には手を付けさせなかった! 国を守るのは力と頭なのよ!」
「そ、そんな……」
「クラスだって、力を背景にした信頼感。そうでしょ荒木……さん?」
「う、うん」
今朝の荒木夢羅との鮮やかなタイマンとも言えない一方的な美乃の勝利と「クラスは秩序! 守らない奴は、第二の夢羅になると思いなさい!」という宣言を、クラスの生徒は身にしみている。そして、その宣言は、教師でさえ例外でないことを、言葉と論理の力で示した。
美乃の中で分裂していた二つの人格が一つになりはじめていた。
その日の授業の終わりには、クラスが狭く感じられた。美乃の関心は学校全体に広がろうとしていた。