信長狂詩曲(ラプソディー)
『始まり・2』
美子は水の夢をみていた。
亭主の浩太も、息子の浩一、そして娘の美乃までも楽しく泳ぎ、波打ち際を駆けた。そして大きな波がやってくると、美乃はサーフボードに乗り、その大きな波に向かってボードを漕いだ。そして波との距離が頃合いになると、スックとボードに立ち上がった。
「美乃、あなた美乃なんでしょ!?」
美乃は一瞬振り向くと、不敵な笑みをたたえ奇声を発して稲村ジェーンのような波に向かっていった。
気づくと水……シャワーの音がする。
浩一が出しっぱなしで寝てしまったんだと思った。枕許の時計は五時半を指していた。
「やれやれ……」
美子は、パジャマのまま浴室に向かった。
「もう、電気まで点けっぱなし……」
浴室から人の出てくる気配がした。そして、バスタオルで素早く体を拭く気配。
「だれ……浩一?」
すると、浴室のドアが開き、さっきの夢の中と同じ顔をした美乃が、素っ裸で現れた。
「美乃、こんなに朝早く……」
「夕べお風呂に入れなかったから」
母親の自分が見ても可憐な後ろ姿で娘は部屋に戻っていった。ただ顔つきだけが、なにか燃えたように明々としている。
美乃は、自分が信じられなかった。五時に目が覚めると、風呂に入っていなかったことが耐えられなくなり、ベッドから起きあがり、そのままの勢いでパジャマもパンツも脱いで浴室に向かった。
なんで……と思いながら男のようにシャワーを浴びて汗を流した。
心地よかった。
体を拭いて浴室を出ると母が居て、なにか喋った。たとえ母の前であろうと素っ裸で歩くなんて考えられなかった「なんで!?」と問いかけるが、もう一人の自分が「これでいい」と言っている。
部屋に戻ると、部屋のチマチマした縫いぐるみや小物たちが目障りになった……。
「お母さん、これ、捨てといて」
美乃は、そう言ってゴミ袋二杯を母に押しつけ、キッチンボードからドンブリをを出すと自分でご飯をよそい、お茶を掛けただけで、立ったまま流し込むように食べた。
「美乃……」
「学校行ってくる」
「学校って、そのジャージ姿で?」
「学校で着替える」
そう言うと美乃は、ローファーをカバンに入れ、タオル一本首に巻いて玄関を飛び出した。
「どうしたの、こんな朝っぱらから?」
浩一が寝ぼけ眼で起きてきた。時計は、ようやく六時半を指していた。
――あたしってば、どうしたんだろう?――
そう思ったが、体が先に出る。電車にも乗らずに美乃は、学校までの五キロの道を走った。ヘトヘトになりながらも四十分後には学校に着いた。運動部員たちが朝練の準備をする中、グラウンドを一周し、爆発しそうな心臓をなだめた。手足の感覚はほとんど無くなったが、再び汗まみれになった体が我慢ならなかった。
体育館横の水道で、着ているものを全部脱ぎ、水浴びをした。
――止めて、恥ずかしい!――
――うるさい、黙れ!――
二人の自分が同時に叫んだ。
水浴びは、ほんの二三分だったが、美乃の行動が異常なので、サッカー部のマネージャーが顧問の教師を呼びに言った。
「ここで裸で水浴びしてたのか?」
「はい、汗まみれだったので」
その時は、もうキチンと制服を着ていた。そして、陸上部の男子のところに足早に向かった。
「あたしの水浴び、動画で撮ってたでしょ」
美乃の鋭い眼差しに、男子陸上部員は大人しくスマホを出した。
「こんな感じで水浴びしてました」
男子部員はサッカーの顧問にこっぴどく叱られ、その場で動画を削除させられた。
半月ぶりにきた教室。
席に着いて教科書を出し、教科書を机の中に入れようとすると、一枚の紙切れが入っているのに気づいた。
「死ね、信長!」
筆跡が分からないように、定規で書かれていた。美乃はそれを黒板の真ん中にマグネットで貼り付けた。
恐怖している自分をなだめている自分がいることで、美乃は安心した。
始業はおろか、朝礼までも間があるので、美乃は教科書を取りだした。国語の漢文に目がとまった。
渭城(ゐじゃう)の朝雨 輕塵を 裛(うるほ)し
客舍 青々 柳色 新たなり
君に勸む 更に盡(つく)せ 一杯の酒
西 陽關(やうくゎん)を 出づれば 故人 無からん
「いい詩ね……」
英語の教科書も開いてみた。意味の分からない単語がいくつかあったが、音読すると耳に心地よい。
どうやら、美乃は、漢文も英語も音としての美しさに惹かれたようだ。
そうしているうちに、クラスメートがぽつぽつと教室に入ってきた。みんな美乃の姿と黒板に貼り付けられた紙切れに驚いてはいるが、表情に出す者はいなかった。
そして、数分後に荒木夢羅が入ってきた。
夢羅は入学後三日余りでクラスのスケバンを気取っている女子だ……。