栞のセンチメートルジャーニー・3
『栞の終わりから始まる話』
玉串川から帰ってきて、和尚からもらった地図と、年表を広げてみた。
「どないして使うんやろ。栞、分かるか?」
「分かんないよ。どうして使い方聞いてこなかったのよ」
「栞かて、聞けへんかったやないか」
「だって、兄ちゃん知ってるって思ったから」
「なんで、オレが分かるねん?」
「だって、もともとは、社会科の先生だったじゃない」
「これは並のもんとは、ちがう。枯れる寸前の桜を満開にして、とうの昔に亡くならはった今東光和尚を呼び寄せたんは、栞の力やろ。せやから栞は分かってる思た」
「桜はわたしだけど、あの和尚さんは知らないもん」
「そんなこと言うたかてな……」
「そんなに頼りないから、早期退職なんか、するはめになったんじゃん!」
「じゃんとは、なんじゃ!」
……と、兄妹げんかになってしまった。
そして、気が付くと、ここに居た。二十歳過ぎまで住んでいた、大阪市の東北の町はずれ。O神社の秋祭りの真っ最中。
この近所に、終戦後、まだ少年だった野坂昭如が、赤ん坊の妹と一時期住んでいた。O神社自体、その縁起は源義経にまで遡る由緒正しい神社である。
栞と二人で現れたのは、神社の前ではない。鳥居の前を東西に走る道の西の外れあたり、見覚えのある御旅所に御神輿が据えられ、町内の大人や子供たちで賑わっていた。
道沿いの様々な出店が黄昏の中に、ポツリポツリと電球を灯し始めていた。
「あたし、ちょっと遊んでくるね」
あたりをグルリと見渡して、栞は気楽に、そう言った。かなたに学校帰りの女学生の一群がいて、たちまち、その中に紛れてしまった。
電気屋の前は人だかりがしていた。覗き込むと、ショ-ウインドウの中のテレビが大相撲の秋場所を中継していた。
「がんばれ、千代の山!」と子どもの声がした。行司の呼び出しで、千代の山と東富士の横綱同士の対戦と分かったが、記憶にない。おそらく大鵬、柏戸以前の横綱だろう。道路が舗装されていないことや、映画の看板から、昭和三十年代の初めごろと感じられた。
町行く人たちに、ボクの姿は見えているようで、ぶつかるようなことは無かった。しばらく行くと『祝政令指定都市』の横断幕が目に付いた。錆び付いた記憶をたどってみると、大阪が京都や横浜などと並んで政令指定都市になったのは、昭和三十一年である。良く覚えていたものだと、自分で感心したら、横断幕に昭和三十一年九月一日と書かれていた。我ながら間の抜けたオッサンである。
タコ焼きや イカ焼きの良い匂いがしてきた。値段を見ると十個十円と書いてある。そう言えば、物心ついたころ、タコ焼きは十円で十個と八個の店があり、値段の端境期であった。姉は友だちと足を伸ばして遠くの店まで十個十円のタコ焼きを買いにいっていたっけ。安いと思った。が、この時代の金は持っていない……と、ポケットをまさぐると、百円札二枚と、十円玉八個が入っていた。念のため十円玉を調べると、みんな、この年以前のギザ十だった。
「おっちゃん、二十円で」
「はいはい」
オッチャンは経木の舟に手際よくタコ焼きを並べ、ハケでソースを塗って、青のり、粉鰹をかけて新聞紙でくるんでくれた。この時代は、マヨネーズをかける習慣はまだない。
栞が戻ってきたら食べようと、両手でくるむようにして持った。
首を向けると本屋が目に入った。『三島由紀夫 金閣寺発売』の張り紙が目に飛び込んできた。『金閣寺』の初版本は古本の相場でも十万円はするだろう……値段を見てガックリきた「二百八十円」 タコ焼きを買わなければ買えた。と、よく見ると、発売は十一月で、予約受付中になっていて苦笑した。
キキ、キー……と微かな音がした。向こうの大通りを走る市電のきしむ音だ。あの通りと川を越えると、当時住んでいた社宅がある。そこには三十を超えたばかりの両親と六歳の姉、そして三歳の自分自身が居るはずだ。でも、とても見に行く気にはなれない。ここに来たのが唐突であったこともあるが、ボクにとっては、昭和というのは、忘れ物と同義である。だが、この忘れ物に正対する性根がボクには無い。
突然悲鳴がした。キャーともギャーともつかない断末魔のような悲鳴が……!
悲鳴の方角には路地があり、路地の入り口には古ぼけたブリキの看板があった。
『S産婦人科→』
他の人たちには聞こえなかったようで、みな、電気屋のテレビや、屋台の出店、本屋に群がり、あるいは、そぞろ歩いていた。何十分かがたった……路地の向こうの産婦人科の出入り口から小男が出てきた。小さな体からは罪ともやるせないとも取れる気持ちが滲み出て、小さな体を俯かせ、さらに小さくしていた。
小男が、ボクの前を通り電車通りの方に向かった。刹那、その横顔が見えた。
――と、父ちゃん……!?
父の背中を見送って、ノロノロ振り返ると、栞がションボリと立っていた。
「兄ちゃん、見てしまったんだね……」
「し・お・り……」
「なんで、こんな時代、こんな場所にタイムリープしちゃったんだろうね」
「ここは……?」
「そう……わたしが死んだ場所……お母ちゃんは、明日の朝には帰る」
秋祭りの賑わいの中、手の中のタコ焼きは、すっかり冷めてしまった……。
秋物語り・6
『とりあえず一週間』
主な人物:サトコ(水沢亜紀=わたし) シホ(杉井麗) サキ(高階美花=呉美花)
開店三日目で、女の子にとって大事なものを失った……。
何を想像してもいいけど、多分あなたの想像しているものではありません。名前です、名前!
もともと偽名なんだけど、サトコの「サ」が取れてトコになってしまった。
理由は二つ、わたし以外は、シホ、サキ、メグと二文字なのでいつのまにか、まずメグさんが「トコ」って呼び始め、お客さん達も「トコ」と呼ぶようになった。
もう一つの理由は、近所のガールズバー『リョウ』ってとこにサトコって売れっ子がいるので、元もと店の名前も紛らわしいので、トコで定着してしまった。
それから、三日目には、メグさんが新しいスマホを、わたしたちにくれた。
「今までのは、使うなって言わないけど、できたら電源切ってしまっとき。意味は分かるなあ」
「業務用ですよね?」
「せや。ときどきウチが履歴チェックするけど、悪う思わんといてな。あんたらみたいな子使おと思たら、これくらいはしとかんとな」
ガールズバーってのは、むろん若いサラリーマン風やら、自由業風(この範疇は広い)の人。たまに芸能関係のハシクレみたいな男の人が多い。
メグさんは話術が上手く、それ目当てのお客さんもつき始めた。わたしたちは、教えられたとおりカクテルこさえたり、ときどきAKBの歌を歌ったり。あとはお客さんの話を聞いて上げる。大阪の特徴かもしれないけど、お客さん同士も、よく喋る。話しているうちにボケとツッコミができて、店全体がバラエティーのスタジオみたくなることもある。で、冷房がよく効いているので、Tシャツのお客さんなんか30分ほどで寒くなってきて、店は程よく回転していく。
サキのシェイクが、ちょっと評判になった。身長が148しかないサキはシェイクすると、体中がブルブル振動する。で、眉がアニメキャラが困ったときのようにヘタレ八の字になり、とてもケナゲで、お客さんに人気になった。
「あ、そーなんだ」
これが、わたしの口癖らしい。「エー!」とか「ヤダア!」とかをかわいく言えないわたしは、ついなんだか無感動に「あー、そうなんだ」を言う。塾の先生をやってるお客さんに、距離感の取り方のいい言葉だといわれた。大阪弁は「ほんま!?」「そー!?」と音節が短く、その分、言葉にパワーが要る。これは、メグさんや、厨房(と言っても客席からはムキだし)のタキさんの担当。
あ、タキさんてのは滝川さんのこと。昼間は南森町ってとこで『志忠屋』って洋食屋さんのオーナーシェフ。最近は、別のシェフにほとんどまかせっきりで、どっちが本職か分からない映画評論なんかもやっている。で、元気を持て余して、リュウさんのお父さんに頼まれて期間限定で厨房に入っている。週末には、タキさんがガールズバーで厨房に入っていることを知った女の人たちもやってくるようになった。
メグさんといい、タキさんといい、歳は親子ほどちがうけど、話題が豊富で、人の気をそらさないところは、さすがだ。
四日目に、秋元さんが来た。最初は私服なんで分からなかったけど、目力で分かってしまった。
「三人とも、すっかり板についてきたなあ。これもメグさんの仕込みがええからかなあ」
「いややわ、この子ら、飲み込みがええんですわ。なあ、トコちゃん」
「え、どうでしょ、アハハハ」
わたしは愛想笑いしている自分に感動してしまった。
そして、週末の土曜日。その日は11時の早じまいになった。
「みんなお疲れさん。第一週の売り上げは、148万5000円。目標達成!」
「ヒュー、サキの身長といっしょだ!」
「あ、ほんとだ148・5センチ」
早明けした三人は、お好み焼き『雪月花』に行った。
そこに、ガールズバーの先輩である『リョウ』のサトコが居た。
なんで、分かったかというと、向こうから声をかけてきたから……。