上からアリコ(^&^)!その10
『そんな子、来なかったよ』
「わたしが、いてもいいんですか?」
アリコ先生からの携帯に、千尋はたずねた。
――ええ、本人が、そう言ってるから。じゃ、わたしが、ちょっと話した後で連れていくわね……あ、お祖父さまもご一緒でいいって。じゃあね。
アリコ先生は、けして大きな声じゃないけど、よく通る。オジイチャンは、アリコ先生の最後の一言を聞き逃さなかった。
「その卓真とかいうのは、どんなやつなんだ……!?」
興味津々のオジイチャンは、千尋に覆い被さるように聞いてきた。
五分ほどかけて、事のあらましを伝えたころに、アリコ先生は卓真を連れてやってきた。
「まあ、そこに座って」
「まずは、お詫びからです」
椅子を勧めたアリコ先生に遠慮……したのではなく、卓真は、きっぱりと言った。
「先生にはお詫びしたけど、君達にも迷惑をかけてしまったね。ごめん、誤ります」
卓真は六十度ほど頭を下げた。
「なかなか礼儀正しい青年じゃないか。千尋の話と、ちと印象が違うなあ」
「オ、オジイチャン!」
千尋は、あわててオジイチャンの口を封じようとした。
「阿倍野さんのお祖父さんでいらっしゃいますか?」
「そうだよ。これでも若い頃は修羅場をくぐり抜けてきたからね、人を見る目はあるつもりだよ」
「ありがとうございます」
卓真は、過不足のない礼を言って、うながされた椅子に座った。窓からの日差しが良いあんばいに壁に反射して、卓真の横顔を柔らかく際だたせた。それは初対面だと、とても好ましく、自然に見えたが、昨日までの卓真を知っている千尋には奇異に見えた。
「あ……やっぱり変にみえるかなあ、僕?」
「あ……いえ、そ、そんなこと」
卓真と同じだけの間を空けて、千尋は意味のない返事をした。
「変に見えるよね」
「うん、見える」
アリコ先生は、そう言いながら、卓真にお茶をいれてやった。
「すみません、藤原先生」
「フフ、昨日までは、アリコって呼び捨てだったのにね」
「それは、もう言わないでくださいよ」
「じゃあ、その変貌のあらましを、千尋にも言ってあげて」
卓真の話は、なんだか神がかっていた。
夕べ、祖父が従姉妹を連れて、留置所に面会にきてくれた。従姉妹とは五年ぶりだった。両親を事故で失って、荒れ始めてからは、祖父を除いて相手にしてくれる友だちも、親類さえもいなくなった。この一つ年下の従姉妹も、その一人で、卓真の意識の中では、とうに赤の他人であった。
それが、祖父の横で、しゃべりはしないが、ニコニコと頬笑み、二人の話を聞いていた。
面会が終わりに近くなったとき、衣類を差し入れてくれた。
「ケンカして、汗かいてるでしょ。お風呂は無理だろうけど、せめて着替えぐらいと思って」
そのときの従姉妹の眼差しは、今まで見たこともないような優しさに溢れていた。
「お、おう」
ぞんざいに返事だけはしておいたが、そんなものに着替える気などサラサラなかった。
留置所にもどると、なんだか寒気がして、従姉妹の言った通り、ケンカの汗が利いてきたのかと思い、差し入れの衣類に着替えた。少しラベンダーの香りがしたような気がした。そして……眠りに落ちてしまった。
朝、目覚めると、心がザワザワとしてきた。いや、このザワザワで目が覚めたのかもしれない。最初にやってきたのは、後悔と贖罪の念であった。
――なんて、オレは……僕はイヤな奴だったんだろう。
世界中に謝りたい気持ちになった。
「おまえ、どうしちゃったんだよ……?」
看守の巡査に声をかけられて、初めて気づいた。制服をちゃんと着て、床の上で正座をしていた。
「俺が、日勤についてから、おまえずっとそうやってるぞ。朝飯食えよ。ほら……」
「ありがとうございます」
素直に礼を言う自分に、少しだけ驚いたが、直ぐにそれが自然に思えてきた。
朝食をとるため、差し入れ口まで、立って、ほんの二三歩歩いてみたが足も痺れていない。正座なんて、ここ何年もやったことがないのに……でも。箸を持ったときには自然に納得できた。
そして、調書をとられたあと、直ぐに保釈になった。
祖父が迎えにきてくれた。祖父一人だったので、夕べの従姉妹のことを聞いた。
「なに言ってんだ、夕べは俺一人。あの子らはお前のこと毛嫌いしてっから来るわけねえじゃねえか」
「え……」
刹那、そう思ったが、すぐに「そうだったんだ」と納得していた。
そして、卓真の説明が終わったあと、千尋は、もう一度聞いてみた。
「で、その従姉妹の子は?」
「え……なんの話?」
「だから、差し入れに来てくれた従姉妹の子ですよ」
「そんな子、来なかったよ」
オジイチャンといっしょに、千尋は「?」という顔になった。
アリコ先生は、平然とした顔をしている。糺すの森のお香の匂いが強くなったような気がした。
「で、保釈になったのに、なんで覆面パトが付いてるんだね」
警察にはうるさいオジイチャンが聞いた。
「ああ、これから怪我をさせた相手に謝りにいくんです。またケンカになっちゃいけないんで、警察の人が付いてきてくれているんです。じゃあ、これから、そっちの方をまわりますので、これで失礼します」
そう言うと、卓真は立ち上がり、再び礼をすると部屋を出ていった。
「警察は、これに便乗して、不良グル-プに釘を刺しておくつもりでしょうな……」
したり顔で、オジイチャンは呟いた。千尋はアリコ先生といっしょに窓から、玄関の車寄せに目をやった。
「あ」
思わず声が出てしまった。
「千尋も気づいた、あの私服の婦警さん、影が薄いでしょ」
そう言われれば、中年のオバサン(警察だったんだ)の影は、その側にいる刑事さんの影の半分の濃さも無かった。
しかし、千尋が声をあげたのは、そのことでは無かった。
また、チマちゃんのあれが、切れ切れに聞こえてきたからである。
――でんでれりゅうば出てくるばってん、でんでられんけん、出てこんけん……。
これは、アリコ先生にも聞こえてはいなかったようだ……。
つづく