上からアリコ(^&^)!その12
『フフ、降参かな?』
下足室で靴を履きかえようとして、声をかけられた。
「今日は、クラブばなかと?」
「あ、忘れてた」
履きかけのローファーに足を取られて、つんのめってしまった。
「忘れとっとね」
楽しそうにチマちゃんが言う。
「体育委員会に出てたら忘れちゃった。チマちゃんも来る?」
「チマちゃん、軽音こっちだよ」
階段の上の方から声がした。
「あ、今から行くと。じゃあね」
どうやら、チマちゃんは、自分で居場所を探しにいけるようになったようだ。ちょっと寂しい気もしたが、それだけチマちゃんが学校に馴染み始めているということで、喜ぶべきだと思い直して、千尋は図書室に向かった。
「いんどぅれの、おほぉん時にかふぁ知らねどぅも、にょんご、こぅういあまたさんぶらいたまいける中に、いとぅ、やんごとぅなききふぁにふぁあらねんどぅも……」
――アハハ。
みんなが笑った。
「なんですか、それ?」
美藤先輩が聞いた。
「源氏物語のイントロのところを、平安時代の発音でやってみたのよ」
「なんだか、とってもゆっくりで、東北弁みたいですね」
カチューシャの美奈先輩が、思ったままを言った。
「そう、いいところに気づいたわね!」
パチンと指を鳴らして、アリコ先生。
「東北弁なんかに、昔の日本語の名残が残ってんのよ。いいこと、たとえば、濁音の前には、必ず〈ん〉が入るの。〈いずれ〉は〈いんずれ〉だし、〈にょうご〉は〈にょんご〉で、〈ゆうべ〉は〈ゆんべ〉てな感じ」
「あ、それ、うちのヒイジイチャン今でも言いますよ」
これは、部長の加藤先輩。
「でも、先生、なんで、そんな昔の言葉がしゃべれるんですか?」
この素朴な質問は、単細胞な分だけ鋭い千尋である。
「お勉強したからよ」
「でも、そんな昔の日本語が、どうやって分かるんですか?」
興味を持った千尋が食い下がる。
「いい質問ね。そういう単純な疑問好きよ。脳みそがシンプルでなきゃ出てこない質問」
「あ……それって、あんまし誉め言葉に聞こえないんですけど……」
頭を掻く千尋に、三人の先輩の笑いがおこる。
ちょうど、そのときテニス部の「がんばろー!」の声が、すぐ外のテニスコートから聞こえてきた。テニス部は試合が近く、「がんばろー!」にも気合いが入っている。
文芸部にテニス部ほどの緊迫感はないけど、先輩や千尋の目は、気合いの入った光があった。
「昔の資料で分かるのよ。例えば、桃山時代の日本語をポルトガル語に訳した辞書にね、屏風のことを〈BYONBO〉と書いてあるの」
アリコ先生がホワイトボードに書いた。
「……ビョンボって、読むんですか?」
「そうよ、それから、こんなことからも分かるの。平安時代のナゾナゾ、分かるかなあ?」
アリコ先生は、イタズラっぽく、四人の部員を見渡した。
――父には一度も会わず、母には二度あうものはな~んだ?
ホワイトボードには、そう書かれた。
「ええ、オヤジには一度も会わずに、オフクロには二度あうもの……?」
加藤先輩が腕を組んだ。他の三人も頭を捻った。テニス部の〈がんばろー!〉が、文芸部への応援に聞こえてきた。
「フフ、降参かな?」
アリコ先生が、勝ち誇ってにやついた時に、ドアが開いて声がした。
「その答、僕が言ってもいいですか」
みんなが振り返ったドアのところに卓真が真面目な顔で立っていた。
「卓真、キミは、懲戒も解けたし、もうわたしにつき合わなくってもいいのよ。それとも、純粋に文芸部に興味が出てきたのかなあ?」
「興味があるから来たんです。いけませんか」
無心な言葉だった。卓真には、もう皮肉でひねくれた印象は無かった。
「いいわよ……ただし『去る者はいない』は、分かってるわよね」
千尋がビビッた言葉を、アリコ先生は確認した。千尋は、もう、ビビリも後悔もなかったけど、卓真に、わざわざ確認するのが、少し気になった。
「答、言っていいですか」
「いいわよ。でも、答が正解だったら、入部は認めない」
――え!? その場のみんなが意外そうな、ズッコケたような顔になった。アリコ先生と卓真の目が一瞬鋭く絡んだような気がした。しかし、それは、ほんの刹那のことで、アリコ先生の次の言葉で千尋の、この感覚は消えてしまった。
「アハハ、うそうそ。卓真がずいぶん変わっちゃったから、ちょっとからかっただけ。どうぞ、答を聞かせてちょうだい」
卓真の顔がほころんだ。
「じゃ、正解を言います」
卓真が、少し大げさに息を吸い込み、みんなは、卓真の口元に注目した。
――ファイト!
タイミングよく、テニス部の張り切った声がした……。
つづく