滅鬼の刃 エッセーラノベ
元日の新聞を一文字も読むことなく古紙回収に出してしまいました。
幼稚園の頃には、ろくに文字を読めないにもかかわらず読んでいました……いや、眺めていたというのが正しいでしょうか。
ヘッドラインの文字の面白さや、写真の面白さ、四コマ漫画、風刺漫画、広告の新鮮なデザインなどを子ども心に楽しく眺めていました。
くしゃ~み三回 ルル三錠♪
風邪薬のフレーズは、テレビが来る前に新聞の広告で知っていました。
そうそう、夕刊だったと思うのですが、連載小説も面白かったですねえ。
うちは、ほとんど産経新聞でした。おかげで、朝日や毎日の色には染まらずにすみました。
むろん、子どもが新聞の銘柄を選ぶわけはなく。大正生まれの両親の都合です。当時は、産経が他紙よりも安かったのが理由でしょう。
あ、連載小説です。
産経の連載と言うと、わたしぐらいの歳では司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』ですね。小学生には難しい字がいっぱいありましたが、日露戦争の旅順攻略、203高地のくだりや、奉天会戦、日本海海戦などは拾い読みでしたがワクワクして読んだ、いや眺めていました。
203高地を奪取に成功したと聞き、児玉源太郎が、すぐに野戦電話を掛けるところがあります。
「旅順港は見えるか!?」
電話を受けた隊長が、こう言います。
「はい、丸見えであります!」
丸見えという言葉が面白く、また雰囲気を良く表しています。子ども心にも嬉しくて、安心して思わず笑ってしまいました。旅順の下りは長くて三か月ぐらいやっていた記憶がありますので――やったあ!――というカタルシスがありました。
小学生でも、ある程度は読める、眺められるようにお書きになった司馬さんはすごいですね。
まだ、ろくに字が読めない頃は、小説の真ん中に載っていた挿絵を眺めて喜んでいました。『坂の上の雲』の前は今東光氏の『河内太平記』でした。文章はさっぱり読めませんでしたが、挿絵は、子どもの目ではありますが漫画的に面白く、納得もしていました。
例えば、戦で人の首を獲る時は、相手をうつ伏せに組み伏せ、兜の眉庇に手をかけ喉首を晒して、鎧通で一気にかき切るのを見てなるほどと思いました。テレビや映画では、馬乗りになって突き刺したら、次の瞬間に首が取れていたので納得していなかったんですね。
挿絵の人物の描写も、時には三頭身や四頭身。戦の様子などは幼稚園で見た猿蟹合戦と被ってワクワクしていました。
あ、また少しずれてますねえ。元日の新聞です。
元日の新聞は、一面と他の何ページかがカラー印刷でした。今でこそ、新聞の色刷りは当たり前ですが、当時は新鮮でした。三つ上の姉が、富士山の写真が載っているのを見て「うわあ、天然色やあ!」と叫んでいました。
当時は、カラーとは言わずに天然色でした。
カラーという言葉が天然色を凌駕するのは、カラーテレビの普及と重なっていると思います。
テレビ欄は、普段の夕刊ぐらいの別冊になっていて、三が日分のテレビ番組表が載っていて、新番組の特集とかがあって、本紙よりも家族で取り合いでした。
東海道新幹線のことを『夢の弾丸列車』という見出しで出ていたのは、ローマオリンピックの次の年の元日の新聞だったと記憶しています。紙面の半分近くが新幹線の完成予想図、いや、イラストでした。そして、三年半後、新聞の通りの新幹線が開通し、首都高速が開通。親父の給料もボチボチ上がって、ひょっとしたら高校ぐらいは行かせてもらえるかと思いました。
なんというか、自分の成長と日本の成長が並行していて、世の中は、どんどんいい方向に向かっているんだと思えました。むろん、不便なことや、しんどいことも多くありましたが、総じて面白い時代ではありました。面白さの予感と元日の新聞の分厚さと天然色ぶりが重なりました。
今年の元日の新聞は、孫の栞が年賀状といっしょにポストから出してくれていました。
「あれ、お祖父ちゃん読まないの?」
上目遣いに聞いてきました。
「え、ああ、あとでな」
実は、年賀状を見ているうちに忘れてしまったのです。
おでこの一つもたたいて「あ、いかんいかん」と座りなおせばよかったのですが、栞の目つきがお見通しと言う感じで、つい見栄を張って、とうとう読む潮を失ってしまいました。
廊下の古新聞の山に置いてあるのは承知していましたが、昔の少年雑誌並みに分厚い新聞が目に留まると、ついつい日延べになって、今朝気づいたら栞が他の古新聞もろとも縛ってしまっていたという次第です。
嗚呼、やんぬるかな!
☆彡 主な登場人物
- わたし 武者走走九郎 Or 大橋むつお
- 栞 わたしの孫娘