巷説志忠屋繁盛記・19
マスターの喜怒哀楽の半分は演技である。
子どものころから心がけていて、生の感情は見せないようにしている。
生の感情をむき出しにしたとき、かならずトラブルがおこるからだ。
捨てられていた子犬がめっぽう可愛くて抱きしめているうちに心肺停止状態にしてしまったり、煽りをかけてきた車にブチ切れて、車を降りて相手のフロントガラスを軽くたたいただけで粉みじんにしてしまったり、愛おしさのあまり彼女を抱きしめ肋骨を折ったりした。
子犬を仮死状態にしてしまった時など、最初に見つけた幼なじみの百合子に鬼畜のようになじられた。
いっしょに居た酒屋の秀が「おばあに頼もや」と提案、おばあとは町内で古くからオガミヤをやっているヨシ婆で、子犬を連れて行くと「このバカタレが!」と一括した後、見事に子犬を蘇生させた。それ以来、なにかにつけて生の感情を爆発させないようにしている。ヨシ婆は向かうところ敵なしのマスターにとって数少ない鬼門筋になった。
だから、このロケでの驚きを制御するのは並大抵ではなかった。
「マスター……やっぱ怒ってる……?」
中川女史が恐る恐る声を上げた時は、撮影が中断してしまった。
マスターの驚きオーラが強すぎて、人には静かに激怒しているように見えるのだ。
「な、なにかありましたか!?」
ロケ現場の異様な空気に交番の秋元巡査まで飛び出してきて、マスターの大魔神のような顔に思わず拳銃のホルスターに手を掛けたほどだ。
「みなさん、滝川浩一はただただ驚いているだけです! 秋元はん、拳銃は抜かんように!」
長年の付き合いの大橋が出てきて、真実を叫ぶまで呪縛は解けなかった。
「え……あ……いや、さっき夢子やってたんもお母ちゃんやってたんも上野百合さんなんでっか!!??」
「え、あ、は、はい……」
身体を張って百合の縦になったチーフADの陰から小動物のように百合は応えた。
な、なんちゅうーーーこっちゃーーーーー!!
マスターの雄たけびで半径五十メートルの建物のガラスにヒビが入った。
「百合さんは、うちのはるかが居た乃木坂学院高校の先生だったんですよ。分けあって退職されてからは女優に転身されたと聞いていましたけど……いや、こんなに演技幅の広い女優さんだとは思いませんでした! 夢子の時は完全にハイティーンでしたもの!」
「え、え、じゃ、坂東はるかさんのお母さんでしたの……?」
「はい、はるかの母でございます。『春の足音』でははるかがお世話になりまして」
「いえ、あ、その節はこちらこそなんですけど……てっきりアルバイトの女子大生くらいにお見受けしておりました」
これには志忠屋の一同も驚いた。
毎日接しているから分からなくなっているが、トモちゃんは、とても二十歳の娘の母親には見えなかったのだった。
ロケは、協議の結果、月に二回のペースで行われることになった。