徒然草 第五十五段
家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪え難き事なり。
深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は、蔀の間よりも明し。 天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。
日本の家屋は、弥生の昔の高床式倉庫から、夏の暑さと湿度を気遣った作りになっていました。むろん一般の人々の家屋が高床になるのは、都市部では江戸時代。地方にいくとどうかすると昭和に入ってからというところもあります。
では、庶民の家屋は夏に弱かったか。いや、エアコンなど無くても、けっこう涼しかったようです。
江戸時代までの庶民のほとんどは、弥生の昔の縦穴住居とあまり変わらない住まいに住んでいた。近代に入り庶民の家も人がましくなっても、夏には強い生活空間でありました。
日本建築では、壁というものが、あまり存在しません。たいがい障子一枚が外界との境であり、屋内の部屋の仕切も襖一枚であります。
南こうせつの『妹』という名曲の中にもあります。
~妹よ~襖一枚隔ててぇ~いまぁ~小さな寝息をたててる妹よ~♪
そう、夏は障子を開け放ち、襖を取り払えば涼しかった。都市部でも緑が多く、地面もアスファルトで塗り固められるということもありません。昼過ぎの暑い盛りになると、近所のオバチャンたちがホースで盛大に水を撒きます。打ち水などというヤワで上品なものでなく。ちょっとした防火訓練並の撒きようでありました。
ホースから放たれる水に、時に小さな虹がかかることもあって、子どもたちは、オバチャンたちがホースで盛大に撒く水の中をキャーキャー言いながらくぐり抜け、程よく濡れて涼んでいました。
土がむき出しの道路は、すぐに水を吸い込んだし、お日さまは残りの水を蒸発させ、その蒸発していく中で道路の空気は冷まされ、開け放った家の玄関や襖、障子を緩やかな冷風となって、通り抜けていきました。
七十年代の歌に、こんなフレーズのものがありました。
~通り雨、過ぎた後に残る香りは夏このごろぉ~♪
そう、夏には香りがありました。今よりも、もっと濃厚な香りが。
あれは、地面がアスファルトで塗り固められることもなく、家々の玄関や障子が開け放たれていたからこそ感じられた香りなのでしょう。
夏の朝などは、集団登校のため、ちょっと遅れたりすると、同じ班のガキンチョ仲間が、玄関の中まで入ってきて、呼ばわった。
「むっちゃん、もう時間やでぇ」
近所のオバチャンたちもよく玄関に立っていた。
「田舎から、こんなん送ってきたよってに、少ないけど、どうぞ」
あるときは、裏庭が共用になっている縁側に、友だちや、オバチャンたちが顔を出した。
「むっちゃん、熱下がったんかいな」
明治生まれの隣りの年かさのオバチャンなど、そのまま上がり込んで、おでこの熱を診てくれたりしてくれたりしました。
わたしは三歳のころ行方不明になったことがあります。もちろん、わたし自身には記憶がありません。
しかし、そのときはご近所総出で探して下さったそうです。三軒となりのオッチャンは元陸軍の優秀な下士官で、瞬くうちに近所の人たちに捜索の手はずを指示しました。当時の大人達は、子どもの遊び場所をよく心得ていて、三十分ほどで心当たりの捜索を終えたそうです。
しかし、わたしの行方は要として知れない。元下士官のオッチャンは三人のオッチャン、オバチャンを指揮して、所轄の警察署までの道の角に配置し、いつでも捜索願を出せる体制をとった。そして索敵範囲を電車道の向こうまで広げました。
「電車道やと、難儀やなあ……」
なんせ、交通事故の死者が年間数万人の時代であります。
「もう、捜索願出したほうがええで」
元陸軍准尉のパン屋のオッチャンが、作戦変更を提案。筋向かいの元海軍さんが走りかけたころ、わたしは、見知らぬオバチャンに手を引かれて戻ってきた。
「カネボウの方から来ました」
その人は、電車道のその向こうの方でウロウロしていたわたしを不審に思い、訪ね訪ねしながら、わたしを連れてきてくださったそうでした。
丙種で、戦争に行けなかった父は、元陸軍さんや、海軍さん、国防婦人会、女子挺身隊のみなさんに頭の下げっぱなしであった……そうです。
まさに『三丁目の夕日』の世界でありました。
夏の日本家屋の有りようから三丁目の夕日まで行ってしまいました。