五月五日、賀茂の競べ馬を身侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込めて、分け入りぬべきやうもなし。
かかる折に、向ひなる楝(おうち)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給え」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。
原文は長いので、読み飛ばしていただいてけっこうです。ただこの四十一段は、内容である出来事と、兼好法師の思いが三重になっているので、わたしの本文と引き比べていただくために、全文を載せました。
賀茂の競べ馬とは、平安の昔から、上賀茂神社で行われる神事で、1994年には世界文化遺産にも登録されています。
二百メートルのコースを二頭、二十組のレース(現在は二頭、十組)が行われる。
コースの両側には、青柴で芝垣のフェンスが張ってあり、観客がコース内にせり出してこないようにしてあります。この芝垣を埒(らち)と言い、「埒外(らちがい)」の語源はここにあると言われます。
で、兼好のオッサンは、ある年の五月五日に、この「競べ馬」を見に行きました。
この一つをとっても、兼好という人間の好奇心旺盛なことが分かりますね。古来文人と呼ばれる人種は馬……競馬が好きな人が多く、わたしの記憶では遠藤周作、近くは浅田次郎、佐藤愛子がこの代表であります。兼好が今の世に生きていれば、競馬愛好小説家ベストテンに入っていたでしょうね。
ところが、兼好のオッサンに勝る坊主が、向かい側の芝垣の内におりました。
このボンサン、こともあろうに、木の上に乗って見物しておりました。それだけでも「坊主とも有ろう人が……」と、思われます。
はてさて、このボンサン、木の上で、コックリコックリ居眠りをしはじめます。木から落ちそうになっては、ハッと我に返り、木の枝にしがみつき、みっともないったらありません。
「あさましい坊主やなあ」
「ほんま、みっともないなあ」
などと、みなであざけっていました。
そこで、兼好のオッサンは名言をのたもうた。
「死というモノは、今やってくるかもしれない。それはあのボンサンもわれわれも変わりはないんだぜ。そのことを忘れて祭り見物している我々もオンナジじゃないか……」兼好は、最前列で見られなかったので、少しすねて言ったのでしょう。しかし、体裁は立派なお坊様であります。前列にいた人が感心して、こう言いました。
「さすがは、エライ坊さん。その通りや。どうぞ前の方に来て身とくれやす」
で、兼好のオッサンは、尊敬されつつ、堂々と最前列で競馬を楽しむことができました。
兼好は、自分の都合で坊主のなりをしているだけであります。鎌倉仏教を興した、法然、親鸞、日蓮のように高尚な気持ちで説教をたれた訳ではありません。ただ、良い場所で競馬が見たいためにカマした一発であります。
この話しは、兼好のオチャメともとれるし、当時、まだイキイキとしていた鎌倉仏教の余熱の現れともとれます。
わたしの母と、カミサンのお母さんは、ともにお寺の長女であります。いきおい親類は坊主だらけであります。
先年、父が突然無くなったとき、葬儀屋さんに、こう聞きました。
「ボンサンよんだら、どのくらいかかりますか?」
葬儀屋のオバサンは、黙って指二本を立てました。正直「高い!」と、思いました。
そこで従兄弟の住職に電話しました。もう十何年も連絡もしていない従兄弟ではありますが、わたしも大阪のオッサン。費用対効果にはうるさいのです。
よく言えば、父が残したわずかなお金でまかなってやろうという気持ちであります。生前仕送りなどで、両親には、かなりな経済的援助をしてきました。けして口には出しませんでしたが、父は、それを気にしていたフシがあります。だから、葬儀や法事は、本人の身銭でやってやろうと思いました。
もう一面は、わたし自身、退職金の食いつぶしで年金の支給を待っている状態でありました。
それで、相場の半額のお布施でやってもらいました。
従兄弟は、真宗仏光寺派で、くわしい方ならお分かりでしょうが、仏光寺派は真宗の中で、もっとも規模が小さく、檀家が少ないのです。
そこを、従弟は文句一つ言わず、相場の半額で請け負ってくれました。
葬儀会館の、導師控え室で、お布施を渡すときには少し気が引けました。従弟とはいえ、その道のプロである。わたしたお布施袋の厚みで金額は知れています。
「ありがたく頂戴します」
従弟は、顔色一つ変えずに、薄いお布施を押し頂いてくれました。
葬儀も手抜かりなく、きちんと法話までしてくれました。
「亡くなった人は、生き残った縁者に絆の機会を与えてくださる」
日頃、仲の悪いわたしの甥二人の距離が少し縮まりました。
「亡くなった人は、人の死というものを自身の死をもって教えてくださる」
幼いひ孫たちは、恐る恐る、冷たくなったヒイジイチャンの頬に触れました。ひ孫たちにとっては、初めての死者との接触であります。
わたしは、この年下の従兄弟住職のヤンチャクレ時代を知っています。
しかし、目の前で法話をたれているのは、立派な導師の姿と言葉でありました。
これは、長年にわたって培われてきた、日本の葬儀や宗教のあり方であり、ありがたさであると思います。
父の死は突然であったので、わたしたち親子三人は葬儀場まで自転車で来ていました。葬儀が終わり参会者が居なくなると。葬儀会館に残ったのは、わたしたち親子三人だけであります。どうかとは思いましたが、父の骨箱は息子の自転車の前カゴに載せました。
それが、葬儀会館の方々にも痛々しくみえたのでしょう。
「……こないしなはれ」
わたしと、同年配の葬儀会館のオバチャンがペットボトルのお茶を四本、緩衝材として前カゴに入れてくれました。
マニュアルには無い対応ですね。一見ぞんざいに見えますが、このオバチャンのそれには、心がこもっていました。それまで、不動の姿勢で前に手を組んでのマニュアル通りの見送りでありましたが、この機転を思いついたあとのオバチャンは、近所の気の良いオバチャンのそれでありました。
少し本題から離れてしまいましたが、昔から伝えられた型というものには、日本人として心を開かせる何かを呼び覚ませるものがあると思います。兼好のオッサンは、ちょっと利用したのでしょうが、この段には、真っ正直にそれを言うことへの照れがあったと思います、深読みに過ぎるでしょうか。