RE.乃木坂学院高校演劇部物語
話しは戻るけど、三月十日は乃木坂さんがいなかった。
三月十日は東京大空襲の日。
乃木坂さんの命日でもあるし、大事なあの人、マサカドさんと言おうか、三水偏の彼女と言おうか、その大切な人の命日でもあったんだもんね。
乃木坂さん自身の平気な顔は――それには触れないでほしい――という意思表示。わたしたちも、聞かないことにした。
潤香先輩はロケの疲れで二日ほど寝込んでいたけど、梅の花が満開になったころから、徐々に稽古を覗きにきてくれるようになっていた。
そして……それは起こった。
桜の蕾が膨らみ始め、新入生たちの教科書や制服やらの引き渡しの日。
稽古場の同窓会館にいても、新入生たちの初々しいさんざめきが聞こえてくる。
その日は、理事長先生と潤香先輩がピアノの傍で、乃木坂さんはバルコニー近くで、静かに稽古を見てくれていた。
それはクライマックスのシーンで起こった。
都ばあちゃんが、地上げ屋の三太にも三人の子供たちにも見放され、一人お茶をすする中、突然脚と腰に走る痛み。遠く聞こえる若き日のなつかしの歌。
埴生の宿も わ~が宿 玉の装い羨まじ……♪
都ばあちゃんの最後が迫る。登場人物みんなで「埴生の宿」の合唱になる。都ばあちゃんは最後の力をふりしぼって最後の一節を唄う。
「……楽しともぉ……頼もしや……♪」
そこで見えてしまった。乃木坂さんの体が透けてきているのを……。
「乃木坂さん!」
おきてを破って叫んでしまった。一瞬乃木坂さんは「だめじゃないか」という顔になり、そして……気がついた。
自分にその時がやってきたことを……。
「あ、あなたは……」
潤香先輩にも見えてしまったみたい。
「水島君……」
理事長先生は、驚きもせずに、静かに、そして淋しそうに乃木坂さんの本名を呼んだ。
「……先生、ご存じだったんですか」
「三月の頭ごろからね……この歳になるととぼけることだけは上手くなるよ。本当は、イキイキとした君の姿を見られて、とても嬉しかったんだ」
「……僕の役目は、もう終わっていたんですよ……それが、この子達と居ることが楽しくて、嬉しくて……ちょっと長居をしすぎたようです」
「わたしを助けてくれたの……あなた……あなた、なんでしょ?」
潤香先輩が、ささやくように言った。
「君は、こんなことで死んじゃいけない人だもの……僕は、昔、助けたくても助けられなかった人がいる。自分の命と引き替えにすることさえ出来なかった……みんな、最後は願ったんだ。自分は死んでも構わない。その代わり、他の誰かを生かして欲しい……親を、子を、孫を、妻を、夫を、教え子を、愛しい人を一人だけでも……みんな、そう思って、身も心も焼き尽くされて死んでいったんだ」
わたしは、カバンから、あの写真を取りだした。
「この人だったんでしょ。乃木坂さ……水島さんが守りたかったのは、苗字の上の字が三水偏の女学生」
「……そうだよ。あの時は仲間に申し訳なくて言えなかった。今、ここに居る仲間は喜んで許してくれる。その子は、十二高女の池島潤子さん。潤子の潤は……」
「わたしと同じ……?」
「そう……不思議な縁だね」
「水島さん。下のお名前も教えてください。わたし一生、あなたのことを忘れません」
「それは、勘弁してくれたまえ。僕たちは『戦没者の霊』で一括りにされているんだ。こうやって、君達と話が出来ることも、とても贅沢で恵まれたことなんだよ。苗字を知ってもらったことだけで十分過ぎる。高山先生、こんな何十年も前の生徒の苗字、覚えていただいていて有難うございました」
「もう歳なんで下の名前は……忘れてしまった。でもね、僕は時々思うんだよ……この歳まで生かされてきたのは、君達の人生を頂いたからじゃないかと」
「先生……」
「だとしたら、そうだとしたら、僕はそれに相応しい……相応しい仕事ができたんだろうか」
水島さんは、仲間の承諾を得るようにまわりを見渡し、ニッコリとした笑顔で大きくうなづいた。
「ありがとう、水島君。ありがとう、みなさん」
空気が暖かくなってきたような気がした。水島さんの体がいっそう透けてきた。
「それじゃ……」
と、水島さんが言いかけたとき、バルコニーの外の桜がいっせいに満開になった。
最初、水島さんに会ったときの何倍も、花吹雪は壁やガラスも素通しで談話室に入ってくる。
気づくと、壁に紅白の幕。理事長先生の後ろには金屏風、日の丸と校旗も下がっている。
「これは……」
と言ったのは、水島さん。わたしは思った、ここにいる大勢の水島さんの仲間がはなむけにやった演出だ。
「ありがとう、みんな……先生、最後に一つだけお願いがあります」
「なんだろう、僕に出来ることなら……」
「『仰げば尊し』を唄わせてください。僕は唄えずに死んでしまいましたから、最後にこれを……」
「では、僕たちは『蛍の光』で送らせてくれたまえ」
「僕には、もう、そこまで時間が残っていません」
水島さんの手足は、消え始めていた。
「じゃ、じゃあ、みんなで唄おう!」
理事長先生はピアノに向かった。
―― 仰げば尊し我が師の恩 教えの庭にも早幾年(はやいくとせ) 思えば いと疾し この年月 今こそ別れめ……いざ さらぁば ♪ ――
「さらば」のところでは、もう水島さんの声は聞こえなかった。そして、桜も金屏風も紅白幕も、日の丸も消えてしまった。
でも、校旗だけがくすんで残っていた。
いえ……最初からあったんだけど、だれも気がつかなかった。何ヶ月もここを使っていながら。
そして……悔しかった。わたしたちだれも『仰げば尊し』を完全には唄えなかった。ちゃんと水島さんを送ってあげられなかった……わたし達は、この歌を教えてもらったことがない。
でも歌の心は分かった。
それを忘れるところまでわたし達のDNAは壊れてはいなかった。その心が少しでも水島さんに届いていればと願った。
☆ 主な登場人物
- 仲 まどか 乃木坂学院高校一年生 演劇部
- 坂東はるか 真田山学院高校二年生 演劇部 まどかの幼なじみ
- 芹沢 潤香 乃木坂学院高校三年生 演劇部
- 芹沢 紀香 潤香の姉
- 貴崎 マリ 乃木坂学院高校 演劇部顧問
- 貴崎 サキ 貴崎マリの妹
- 大久保忠知 青山学園一年生 まどかの男友達
- 武藤 里沙 乃木坂学院高校一年生 演劇部 まどかと同級生
- 南 夏鈴 乃木坂学院高校一年生 演劇部 まどかと同級生
- 山崎先輩 乃木坂学院高校二年生 演劇部部長
- 峰岸先輩 乃木坂学院高校三年生 演劇部前部長
- 高橋 誠司 城中地区予選の審査員 貴崎マリの先輩
- 柚木先生 乃木坂学院高校 演劇部副顧問
- 乃木坂さん 談話室の幽霊
- まどかの家族 父 母(恭子) 兄 祖父 祖母