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「神の御声についてお話を……」
優しげで寛容そうな声で、その青年はインタホンに向かっていた。
わたしは文筆を生業としているので、たいがい家に居る。
セールスの営業にしろ、政党の勧誘にしろ、宗教団体の訪問者にしろ、ノルマがあることを知っている。
門前払いでは成績にならない。
訪問先の家人と話をし、パンフレットだけでも置いていくと最低の成績にはなる。
だから、わたしは門前払いにはせずに、一階のわたしの部屋に通して話をする。
「わたしは、浄土真宗仏光寺派の門徒で、改宗することはありませんので、それをご承知の上でお話しください」
きちんと前置きをしておく、始めに言葉ありきである。
「信仰があるというのは幸いなことです。まずあなたが信仰をお持ちなことを祝福とともに尊敬いたします」
と、つづく。
彼は、チラシの他にパンフレットを出した。
なにか言おうと空気を吸った。かれが音声とともに空気を吐き出す前に切り出す。
「宗教の概念から考えたいと思います。失礼ですけど、あなたはゼロを認識できますか?」
「え……?」
「ゼロです。100-100=0のゼロです。お分かりになりますか?」
「はい、分かります」
「では、X=1 Y=1の点を座標軸に想像できますか?」
「え、ええ……」
わたしは、ここで雑記帳を出し、フリーハンドでグラフを書く。X=1 Y=1のところに点を打つ。
「これって間違えてますよね?」
「え、そうですか?」
「点と言うものは面積を持ちません。わたしが書いたものは目に見えています。ということは面積を持ってしまって点とはいえません」
続いてゼロを書く。
ただの0である。
「これは、ただの円形です。ゼロではありません。ゼロは、我々の心の中にしかないんです。神や仏も同じです、目には見えません。見えないものを信じている。これを互いに認めましょう」
彼の目が輝く。宗教とゼロの概念は似ている。信じるか信じないかである。まず、共通の土俵ができる。
「あなたは、もう救われています。それをまず祝福したいと思います」
彼の言葉ではなく、わたしの言葉である。
彼は一瞬意味が分からない。
「弥陀の本願は衆生を極楽に済度することです。この済度にはなんの条件も修行も信仰も要りません。100-100=0と同じことなのです。ゼロには全てのものが含まれます。ゼロに何をかけてもゼロなんですから。南無阿弥陀仏は、ただ感謝の言葉です。南無とはサンスクリット語で呼びかけの言葉です。『もしもし』『おーい』と同義です。だから口語訳すると『もしもし仏様』ですなあ。極楽往生は仏さん……あんたさんら風に言うと絶対者になりますな。せやから、あんたさんも極楽往生間違いなしです」
そんな風に続ける。
「これを他力本願と言います。ただあんたさんらのように、自分の信仰に身を挺する方々も尊敬します。我々は、あんたさんらみたいな方々を自力作善の人々と言います。真理への近づき方がちがうだけで、けして否定したり、間違っているとは申しません。それは本願誇りいうて、浄土真宗では開祖親鸞聖人のころから厳しく戒められてます」
彼は、二の句がなくて聖書を取り出した。
よほど勉強しているのであろう、受験生の辞書のごとく手垢にまみれ、書き込みやアンダーラインがいっぱいであった。いよいよ、真面目に対さなければ礼を失すると思った。
残念なことに、彼は次の予定があるらしく、40分ほど語り合い次週の邂逅を約して出て行った。
次週は、あらかじめ時間を切り、30分の約束で話し始めた。
彼は、クリスチャンでありながら、三位一体を認めない。父と子と聖霊は別であると、聖書を開いて丁寧に解説した。
わたしはクリスチャンではないが、三位一体の正しさを分かりやすく説明した。
「普通文章を書く場合、『わたしは、わたしの手を持って茶碗を持った』とは書かへんでしょ『わたしは茶碗を持った』が普通です。そう言う感覚で聖書を読んだら、いちいち神の子とは書かへんでしょ」
彼は、とっさに言う言葉と時間が無かった。
「あの人らとは話合わんのは分かり切ってんねんから、もういらん話したらあかん!」
カミさんに叱られた。
偶然か、それを汐に我が家には来なくなった。
数か月後、別の青年二人がやってきた。わたしがインタホンに出る前にカミさんにとられた。
「そう言う話は、全部お断りしてますんで、すんません!」
ニベもなく切ってしまい、わたしの数少ない「真剣にものを聞いてくれる人」をとりあげてしまった。
我が家には神も仏もない。カミさんの鶴の一声があるのみである。