ライトノベルベスト
オジサンともオニイサンともつかない人がナナソの壁のペンキ塗りをしている。
なんだかとても楽しそう、ピンクレディーの歌をいい喉で歌いながら、見事なハケ遣いだ。
「あの、ペンキ屋さん……」
奈菜さんの姿が見えないので、ペンキ屋さんに声を掛けた。
「あの、ペンキ屋さん!」
「え……俺のことかい?」
「他にペンキ塗ってる人いませんから」
「は、ちげえねえ……その時なの~君たち帰りなさい~と(^^♪」
ペッパー警部の一節を歌いながら、楽しげに続けている。
「ねえ、ペンキ屋さん。奈菜さん……管理人さん、どこに行ったか知りませんか?」
「さあね、おいら、ペンキ塗るのに熱中してたから分かんねえな……それから、おいらペンキ屋じゃねええからね」
「え、じゃあ、なんでペンキ塗ってるんですか?」
「ハケで」
「あ、そういうことじゃなくて」
なんだか楽しげな、ペンキ屋モドキだ。
「おれ、ここの住人。白戸っての。ペンキ塗りは、おいらの趣味……畳の色~がそこだけ若いわ~(^^♪」
歌はいつのまにかキャンディーズに替わっていた。とにかく楽しそうで、ほとんど会話にはならない。
「そんなに楽しいですか?」
「おうよ、多少ガタがきてても……あ、これは奈菜ちゃんにはないしょ。こうやってペンキかけるとなんだか自分まで楽しいって気になる。そこんとこがたまんないね……おかしく~って、涙が出そうよ(^^♪」
なんだか、ボクもやりたくなってきた。
「白戸さん、ボクにもやらせてくれません」
「冗談いっちゃいけねえよ。こんな楽しいこと、おいそれと人様にやらせられるかって……好き~よ 好き~よ こんなに好き~よ(^^♪」
ボクは、もうたまらずにハケを持って足場に乗ってしまった。
「あ、もう、勝手に……そんなにやりたいの?」
「え、うん。それに塗ってる方が、白戸さんと話できそうだし。塗ってるうちに奈菜さん帰ってきそうだし」
「しかたねえなあ……じゃあ、おれ向こう側の塗り残しやっつけてくるから、ここ頼むな。すぐに終わるから、いっしょにコーラでも飲もうぜ」
そう言って、白戸さんは、ナナソの向こう側に行った。
……ところが、待てど暮らせど白戸さんは現れない。
「白戸さ~ん……」
向こう側に行ってみると、白戸さんの姿もペンキを塗った形跡もなかった。
白戸さーん!
奈菜さんが、白戸さんを呼ぶ声がしてナナソの正面に回った。
「白戸さん、向こうを塗ってくるって、それっきり」
「で、なんでキミがペンキ塗ってるわけ?」
アハハハ……。
管理人室で、コーラを飲みながら、奈菜さんと大笑いになった。
「白戸さんはね、家賃貯めちゃって、その代わりにナナソのペンキ塗り買って出たのよ。まあ、それで差引つけようって、コーラまで買ってきたんだけどね」
「あんちくしょー!」
ボクは二階の「白戸」と張り紙のされた部屋に向かった。ドアにカギはかかっていなかった。
「やられたわね……」
「いいんですか?」
「いいのよ、ボランティアみたいな管理人だったし」
「だったし……どうして過去形なんですか?」
「もう、住人は、だれもいないから」
「誰もって……クミちゃんと大介くんとかは?」
「あの二人は、お風呂屋さんに行ったきり帰ってこない」
奈菜さんは筋向いの部屋を指さした。そのドアには「空室」の張り紙がされていた。いや、二階の部屋全てに貼ってあった。一階の住人は、とうに誰もいない。ナナソは奈菜さんだけになってしまった。
「まあ、広すぎるけど、あたしの書斎ね、このナナソは……どう、越してこない? もう家賃なんか、どうでもいいから」
「ええ……」
「まあ、考えてみて」
ボクは、一晩考えて、ナナソに行った。
ところが、ナナソのあった場所はコインパーキングになってしまっていた。周りの景色もガラッと変わっている……。
いま思い起こすと、ナナソは、ちょっと変わっていた。奈菜さんはじめ住人の人たちはスマホはおろか携帯も持っていなくって、管理人室の前にピンクの電話があるきりだった。テレビもアナログの箱型だったし……。
なんだか長い夢を見た後のようだった。
ひょっとしたら、昨日の返事次第では、夢の向こう側にいられたような気がした。