ライトノベルベスト
今日は迷わずにメゾンナナソにたどりつけた。
でも、管理人の奈菜さんの姿は見当たらなかった。
「奈菜さんなら、出版社だよ」
管理人室の前で「どうしよう」と思っていると、五十代半ばのごま塩頭のオジサンが声を掛けてきた。
「まあ、おっつけ帰ってくるだろう。よかったら俺の部屋で待ってなよ」
けして愛想のいい人ではなかったけど、この人の部屋で待っていれば確実に奈菜さんに会えるような気がして、待たせてもらうことにした。
「俺、中村吾一っていうんだ。つまらんオッサンだけど、まあ、奈菜さんが帰るまでだ。今お茶淹れるから」
「あ、おかまいなく……」
おかまいなくと首を回しただけで部屋の様子が知れる。
小ぶりな洋服ダンスに座卓、あとはキッチンに小型の冷蔵庫があるくらいのもので、あっさりしている。
「まあ、何もないけど煎餅とお茶だ。酒を出すにはお天道様がまだ高いからな」
そう言うと、中村さんは、蒸らした急須のお茶を注いだ。
淹れ方が、男のボクが見ても見事だ。二つの湯呑に交互に注ぎ、瞬間急須を持ち上げるようにして、お茶の最後のエキスを落とした。
そして、座卓に置いた湯呑と塩煎餅の配置が、そのまま生物画になりそうなほどに、それぞれの位置を占めている。
「並べ方が、その……見事ですね」
「ハハ、多少はね。なんせ、この通りの男やもめ。せめて整理整頓ぐらいはね……こういうのを色気を付けるっていうんだ」
「色気?」
「ああ、軍隊用語だけどね。きちんとやるだけじゃなくて、どこか最後はスマートでなきゃいけない。ハハ、カッコつけてもただのオッサンのくせだけどね」
ゆっくり湯呑を口に持っていくと、長押に軍艦の写真が額縁に収まっているのに気付いた。
「あの船は?」
「雪風……俺が最後まで乗っていた駆逐艦だ」
「駆逐艦て、自衛隊の護衛艦みたいなのですか?」
「そうだな……この雪風は、戦争の初めから、ミッドウエー、大和の水上特攻まで、絶えず海軍の最前線にいた。その中で唯一無傷で終戦を迎えた艦だよ」
「ついてたんですね」
「ただの死にぞこないさ……戦後はしばらく復員船をやっていたけど、賠償で台湾に持っていかれた。そこで十何年働いたあとスクラップになった。返してくれって運動もやったんだけど……返ってきたのは舵輪だけだった。乗組員の大方は……人生のお釣りみたいに生きてる」
どこかで、波の音が聞こえたような気がした。
「ほう、聞こえるのかい……今の若い奴には珍しい。奈菜さんが興味を持っただけのことはある」
ボクは、密かに期待していたことを言われたようで、少しうろたえた。中村さんは、それを横顔で受け止めて微かに笑ったような気がした。
「中村さん!」
ノックと同時に奈菜さんが入ってきた。
「珍しい、奈菜さんが、そんなに慌てて。宝くじでもあたったのかい?」
奈菜さんが手にした紙切れを見て、中村さんが冷やかした。
「来たわよ、召集令状!」
「ほんとかい!?」
中村さんが出て行ったあとの部屋は、波音がいっそう大きくなった。
窓を開けると、遠く雪風が、南に向かって走り去っていくのが見えた……。
戦争が終わったのって、たしか1945年だよな?
時間の計算が合わない……でも、そんなことはどうでもいいくらい窓から見える海は爽やかだった。
『管理人室に寄ってってねぇ』
階下で奈菜さんの声。
「はい、お邪魔します」
そう答えて振り返ると、今どき珍しい……なんて呼ぶんだろう上下に開く窓の外は、どこか昭和の匂いのする街が広がっていた。