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物部瑠璃のスタッフ細胞は、ラット実験の段階だった。
スタッフ細胞は、簡単な細胞の操作で、どんな細胞や器官でも作れるというシロモノで、再生医療の新時代を切り開く可能性を秘めていた。
大西教授は、長年の勘で、このスタッフ細胞はとんでもない力を持っていると確信した。
なんとか、瑠璃の業績を広く世に出してやりたい一心で、自分の身体で実験してみることにした。
自分の腕から取った細胞をスタッフ細胞化し、それを自分に移植したのである。
「お早うございます……」
瑠璃は、いつものように教官室に入り、いつも自分より早く来ている大西教授に挨拶した。
が、返事が返ってこない。
「あれ?」
と思うと、実験室に通じるドアが開いていることに気が付いた。
瑠璃は実験着であるお祖父ちゃん譲りの白衣を着て実験室に足を踏み入れた……まるで人の気配が無かった。
しかし、大西教授のデスクには、プレパラートやシャ-レが置かれ、今の今まで教授がいたような雰囲気であった。椅子の座面に触れると、ほのかに暖かかった。
なにか、用事で席を外したんだろうぐらいに思って、瑠璃は二秒で教授のことは忘れてしまった。彼女の仕事への没頭ぶりもはんぱではない。
気づいたのは、昼前だった。
昼食のため席を立とうとして、電源を切っていたスマホのスイッチをいれた。留守電が一件入っていた。再生するととんでもないものが入っていた。
「これなんです。聞いて下さい」
大西教授は夕方になっても姿が見えないので、瑠璃は教授の妻と娘を呼んだ。
――瑠璃クン、大西だ。実験は成功した。だけど、とても変なんだ。ここは三十年前の研究室なんだ――
「イタズラじゃないんですか、うちの主人じゃないですね、声が若いし、三十年前だなんて」
妻は、関心を示さなかった。
「もう一度聞かせてください」
娘の明里(あかり)は引っかかった。明里は、父とは疎遠であったが、大学生になってからは、大学の事情も分かり、父への反発心は薄れていた。ただ、血のつながりが無いことで、後一歩馴染めずにいた。
「どうですか?」
「……良く分からない。でも何かあったら、あたしに知らせてください」
スマホには、それ以来かかってくることは無かった。教授も戻ってはこなかった。大学は、教授を失踪したものと考え、とりあえず休職扱いにした。
気になった瑠璃は、携帯電話の音声分析を音響学をやっている仲間のところでやってもらった。
「声は若いけど、声紋検査……大西先生と一致」
「どういうこと?」
「分からない。ただ、他にもね、微かに時計の音や、車の音が入ってるでしょ」
「そう、聞こえないけど」
「増幅してみるわね」
友人はイコライザーのフェーダーを操作した。確かにアナログ時計と、車の通過音が入っている。
「時計は、セイコーの電池時計。今は生産されていないわ。いまの研究室のは電波時計だし……それに、走ってる車、エンジンの音がみんな三十年以上前のものばかりなのよ」
「というわけなんです……」
「それって……?」
「よほど、大規模な音響トリックを使わないと、出来ないことです」
「お父さん、口には出さないけど、だいぶ大学に不信感があったんじゃないかしら」
明里は、少し的の外れた推理をした。
「大西先生は、そんな人じゃないわ。特認教授での残留も、ほぼ決まっていたし」
二人の思考は、そこで停まってしまった。
明里は話題を変えた。
「瑠璃先生の研究は進んでるんですか?」
「進んでるってか、足踏みね。このごろ実験用のラットが……」
瑠璃は、言葉を濁した。その分明里の感覚が鋭くなった。前回来たときよりもラットの数が減って、何匹かは入れ替えられていた。
そして、それは直感だった。
スタッフ細胞には、大きな副作用……多分、若返ると同時に過去に戻ってしまうんじゃないだろうかと。
明里は、大胆なことを考え始めていた……。
つづく