10月15日の産経新聞に掲載された小論「慰安婦呪縛解いた安倍政権」(阿比留瑠比)は、13日の同紙に掲載された安倍元首相とのインタビュー記事の裏話がテーマである。以下、産経新聞から引用する(赤字)。
産経紙面では紙幅の限界もあって書いていないが、安倍氏はインタビューでこうも語っていた。「慰安婦の証言がどのように構成されたかということは、産経新聞のスクープによって国民の皆さんに明らかになった」。
安倍氏がいうスクープとは、産経新聞が韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査報告書を入手して書いた平成25年10月16日の記事「報告書、ずさん調査 氏名含め証言曖昧 河野談話、根拠崩れる」である。
証言の事実関係は曖昧で別の機会での発言との食い違いも目立ち、氏名や生年月日すら不正確な例もあり、慰安所のない場所で働いていたと主張するなど、河野談話の根拠が極めてずさんであることを明らかにした。
また、平成26年元日の記事「河野談話 日韓で『合作』要求受け入れ修正」は、河野談話が原案の段階から韓国側に提示され、相手の指摘に沿って細部まで修正されるなど、日韓合作にほかならない実態を暴いた。
要するに、河野談話の原稿は、韓国との合作、というより、韓国の指示どおりに作られたと解せられる。では、なぜ河野氏は唯々諾々と、韓国の要求を受け入れたのか。
Wikipediaの「河野洋平」の項に次の記述がある(青字)。
河野談話は証拠に拠るものではなく、河野の個人的な政治信念に基づくものであることは、本人により認められている。『朝鮮日報』(2012年8月30日付)の取材に対して「私は信念を持って談話を発表した」「(慰安婦の徴集命令を裏付ける証拠資料がないとする批判には)処分されたと推定できる」と述べている。
ここにある河野氏の「信念」とは、朝日新聞の誤報を信じたことであり、「信念」というより「思い込み」という表現の方が適切である。
売春禁止法が施行された1956年(昭和31年)当時、爺はは大学2年生だったが、女郎屋にいる女郎たちは自分の都合で、もしくは彼女らの親が貧乏だったために、身を落とすことになった事情はなんとなく知っていた。
女郎屋は「拉致」などという荒業に頼らずとも、女性を集められた。爺より年上の男性なら誰でも、そんなことは常識である。そして、高給で釣れば女郎たちは戦地に職場を移すことを厭わなかったはずである。慰安婦の中には親に売られた素人女性もいたが、大半は女郎や妓生からの転職者(やる作業は同じだから、転籍者か)だったと推測する。
そんなわけで、爺は朝日新聞の「拉致」誤報は信じていなかった。しかし、河野氏は売春禁止法が施行された時は未成年だったから、売春婦の実態が分かっていなかったのではないか。だから、慰安婦の「拉致」も信じていたのでないか。そして、それが同氏の「信念」ないしは「思い込み」になった!
ともあれ、河野談話は河野氏の無知によって生まれた。そして、その河野談話が日本の手かせ、足かせになり、10億円を支払っての日韓慰安婦合意(2015年)につながった。
朝日新聞は2014年になって拉致の誤報を認め謝罪したが、韓国では「拉致」がすでに事実として定着してしまっていたから、朝日の謝罪を意図的に無視した。
慰安婦問題を歴史的に辿ってみると、放火したのは朝日新聞だが、そこに油を注いで大火事にしたのは河野氏だったことがわかる。放火の材料を朝日に提供した故吉田清治も含め、慰安婦問題は日本人の自作自演による三文芝居だった。
知れば知るほど、腹の立つ話である。