情致の線の局所を求め工夫致居候。
局所は美にてはなく超越的玄妙なるものに帰し可申存候、
美を八釜敷云出したるは西洋舶来にて
東洋的には美は極致には無之候。
小川芋銭
趣のある描線の極みを求めて色々工夫してきたのです。
その求める極みは、「美」に繋がるものでなく、どうやらそれを超越した世界、
つまり幽玄の世界、無の世界に至る道筋にあるように思えます。
「美」について、とやかく言い出したのは西洋舶来文化であって
東洋的には「美」の概念は芸術の求める極致には存在していないように思えます。
誠に勝手な解釈ながら、私は芋銭の言葉をこう捉えさせていただきました。
さて、先のいくつかの記事に書かせて頂いたように
身土不二。
また1960年代から始まるカッコイイ。
から察するに、私たちには今
せっかくこの日本に育んできた美意識をどこかに忘れてきてしまったか??
或いは初めから持っていなかったのか??という疑問がわいてきます。
勿論、私にもその答えは持ち合わせませんが
唯一、少し分かったことがあります。
それは、
佐橋美術店が多く選ばせていただく作品達が持つ情致は、どうやら「美」「かっこよさ」に繋がるものではなく
玄妙の世界。筆を動かし続けた者だけが至る境地に由来するものである。
ということ、そして
それならば、「かっこいい」や「美」を越えて。。。
私たち「鑑賞者」も、美術鑑賞を通して、更なる高みに自分を精進させていくことができる!
ということです。
美意識やカッコイイの感覚は生理的なもの。
その感覚をさらに超えて、もっと自由で広い世界に誘ってくれる作品達をこれからも求めていきたいと思います。
絵の上手い!下手!を超える、絵がわかる!わからない!を超える作品。
ひたすら自然、宇宙に帰ろうとする作品。
そして、唯一、生きる愉しさをひそかに讃える作品を!です。
本日も最後までお読み頂き光栄に存じます。ありがとう存じました。
本日ホームぺージの更新をさせて頂きました。
よろしければご覧ください。
現在の流行について少し考えてみました。
ツイッターやフェイスブックなどに代表されるソーシャルメディアには共感を簡単に表明できる、そして拡散できる機能がついています。ワンクリックで、とても簡単にです。こうした機能が利用されて日々新たな流行が生まれています。それはあるときはたわいもない動物のしぐさであったり、あるときは大統領のメッセージだったり実に様々なのですが、少なくとも20年以上前よりも安価に容易に流行が生まれる環境にあることは間違いないと思います。
つまりかつてのような資本を投資して、用意周到に練られた上で演出される流行と、現代のそれとは(部分的に旧態依然たるものが残っているものの)質的にも量的にも違ってきていると言えるでしょう。
しかし、感覚をシェアすることは本当にそんなに容易なことなのでしょうか。いいねボタンを押す人たちは、誰かが投稿したツイートやユーチューブの画像に本当に共感しているでしょうか。
最近はどうも中途半端な年齢のくせに、昔見た映画や小説や音楽などを妙に懐むようになりました。今ほどテクノロジーが進んでいない時代にVHSやCDで触れた感覚は頭の片隅に残っていて、こうしたものに触れてみたいという懐古主義はどこか自己防衛本能と繋がっているのではという気がするのです。
芸術の分野においてもこうしたノスタルジーを重視する人たちがいます。
福井県の美術館で春草や大観、古径といった院展系の錚々たる中に小杉放菴の軸があったのですが、そこにはっきりと文人画の系譜を伺うことができました。彼は伝統の中に生きたのですが、それにはかなりの鍛錬や苦労を必要としたに違いありません。何より先人の優れた作品にどれだけ触れてきたことでしょう。
同じように小川芋銭の言葉からも、伝統の中に生きる極意のようなものを感じます。
優れた作品から多くのことを感じ、学び、愛す。それはこれほどソーシャルメディアが発達した現代においても、それを心から求める人ならば実践できることなのではないでしょうか。
芸術の本質は常に手の届かない領域にある。それほど深遠なものと捉えているので、受ける側にも常に努力は必要なのだと思います。
私も愛してやまない小杉放庵については、いろいろな意味においてますます深めて参りたいと考えております。
もう少し世の中が落ち着くと良いのですが。
コメントをありがとうございました。
流行! なるほどという言葉でした。
麦僊は「自分はもっと現実に生きたい。人間を超えた精神の深さよりも、人間そのものの精神の深さを求めて居るからである。」という言葉を残していますが、どんなに自分を深めても、人は決して神の領域には近づけない。極端な話で恐縮ですが、このコロナ問題をどのように解釈、自分の問題として深めても、感染し入院してしまったら、隔離され、今現在は、死に至れば感染汚物として処理される。結婚式にもお葬式にも流行があるように、今を生きるということはそういう現実、流行の中に生きるということなのだと思います。それを重々知りながら、今は何がしたいか?と問われたら、やはり神の領域に近づこうとした人間、現実の哀しみも知り、それでも最後まで絵を描くことしかしなかった画家達の作品に触れていたい!出来るのであれば、三島が求め続けた「母親の愛情のような」人の孤独と悲しみを包み込んでくれるような深く優しい作品に触れていたい。佐橋も私も、きっとKさんもそう思っているのだと感じます。
そして、問題は「渋好み」の佐橋美術店が次にどんな作品に出会うのか? それをお客様方にどうご覧いただくか?ということです。
こういう時代になると、以前にも増して美術品に癒やしを求める人々が増えるかもしれません。
何に幸せを見出すのかは人それぞれですが、芸術という分野は、捉えどころのなさ故に独特な魅力を持つように思います。
一枚の絵画を介して、その背景を共有できるということは幸せなことなのだと思います。