セザンヌが懸命になって写実に苦しむのは林檎そのものを再現しようとしてではない。
かれは、林檎と必死に取り組むことによって個性を試そうとするのである。
個性とはなにか?個性は作品にむかっておのれを試みることによって刻々と発見され、築き上げられ、成長するものだ。
人には無論わからず、自分にもわからないのが個性というものの本質である。
あらゆる芸術家は作りながら己を知り、己を確かめ、己を育てあげていくものなのだ。
よい絵というのは個性のあらわれた絵に他ならぬ。作者の個性がいかされていない、良い絵というものはない。それなら個性が表れたり表れなかったりするのは何によるか?素朴さの有無によるものである。
すぐれた芸術の持っている力は素朴さというものの持つ力に他ならぬ。
昨年末から本日まで当店のHPに掲載させていただいた小林古径の言葉です。
二人で並んで絵を描いていた若いころ、小林古径は奥村土牛によくセザンヌの画集を見せていたと
読んだことがあります。
セザンヌに魅了された後、自身の素朴さに出会うために、古径がどれほどの修行を積んだかを想像すると、人が自分に出会うことの難しさを痛感せずにはいられません。
今の時代に、本当に「自分に出逢えた画家」の作品を見つけることは難しいものです。
道ですれ違う人のように、気づかなれば眼の前を通り過ぎていってしまうからです。
近代日本絵画の画家たちの作品は、今はもう胸に大きな勲章をぶら下げてくれていません。
けれど、もし本当に出会えたら・・
西行が旅の途中、同じように道を求める人々と寒さをしのぐ庵に夜を過ごしたとき、
向かい合って温かい言葉を交わすようなことはしなくても、お互いを思いあい、背中合わせに座り、
微かな温もりをわかちあったような
…「交わりの心」を得ることができる。
そして、普段私たちが自分以外の人に求め、大切にし続ける「間柄」の関係には生まれにくい
「交わりの心」は人のどんな孤独をも癒し、生きる力を与えてくれる。
そう感じています。
掲載させていただいた古径の言葉は
古径がセザンヌに出会った意味、また私たちが古径に出会う意味をよく教えてくれる言葉であったと
思います。
画家の言葉、明日からは草間彌生の若いころの言葉を取り上げさせて頂こうと思っています。
※画像は小林古径の画集から抜粋させていただきました。
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