あるきメデス

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甲府市街北郊、古湯坊から武田神社を経て甲府駅へ(山梨)

2015-10-29 16:06:03 | カントリーウオーク
 2015年10月25日(日)

 宿泊した、甲府駅北口のビジネスホテルを8時30分に出た。駅北口のファミリーマー
トで昼食を調達後、駅前から4台のタクシーに分乗する。

 武田神社横を経て、標高約700mの積翠寺(せきすいじ)温泉・古湯坊(こゆぼう)
の駐車場で下りる。

 積翠寺温泉は信玄の隠し湯のひとつと伝えられ、要害山の北側山間にあり、泉温は15
~20℃度と低温だが、リュウマチや神経痛などに効果があるという。
 
 ここには、やまさんの国際ウオーキングトレイル実踏で2008年11月12日、西側
の千代田湖畔のYHを出発して興因寺山(こういんじやま)を越えて下り、太良峠(たら
とうげ)を越えて東の山梨市牧丘町に向かった時以来で、約7年ぶりである。

 今日は、武田神社を経て甲府駅まで、南南西へ向かうほとんどが下り道。今朝は快晴だ
が冷え込み、まだ陽の差さない駐車場はヒンヤリとして涼しい。記念撮影後、9時21分
に出発する。


 舗装路に滑り止めの横筋の入った結構急な斜面を下って行くと杉林が途切れ、眼下の甲
府市街や南アルプスなどの展望が開ける。




 車道が広がったところで東側に回り込み、要害温泉に接する積翠寺に入る。


 積翠寺の標高は約530m、行基(ぎょうき)の開祖といわれ、古くは石水寺と呼ばれ
たとか。南北朝時代に夢窓(むそう)国師の高弟、竺峰(じくほう)が中興開山し、戦国
時代に武田信虎がそばの要害山に築城し、嫡男の晴信(信玄)が要害山城にて誕生した際、
この寺の境内にある井戸から産湯(うぶゆ)をくんだという。寺は、甲斐百八霊場の61
番札所でもある。


 その産湯の井戸は、本堂背後にある日本庭園の東側に残されていた。
    

 本堂左手には武田不動尊が祭られ、境内には、付近の道路拡張で移設したという「蠶神」
碑や石造のほこらなどが並んでいた。正面の参道入口でもう一度、記念撮影をした。


 積翠寺の南東、すぐ近くに瑞岩禅寺がある。

 天平18年(746)、聖武天皇が全国に国分寺・国分尼寺を発願に際して行基菩薩を
伴い各地を巡幸の途次、当地の風景が殊に勝れていることを賞賛してここに一宇を創建、
随行の行基が十一面観音菩薩を作り、本尊として安置したとか。現在の本堂は、平成22
年の再建である。

 さらに進んで、集落東端にある日吉神社に行く。祭神は大山咋神、近江国日吉神社の分
霊を勧請したもので、旧上積翠寺村の氏神として篤く崇敬されているという。

 秋祭りが近いのか拝殿には紅白の幕が張られ、開放的な境内の一隅にモミの大木がそび
える。
       

         
 その下には大きな「蠶神」碑があり、この地がやはり養蚕の盛んだったことがうかがえ
る。そばに大きな柿の木もあり、たくさんの実が色づき始めていた。
       

 神社の背後からさらに東へ、東沢川右岸沿いの車道に出ようとしたが見つからない。畑
の人に聞いたら、廃道になっていてもう少し下からしか無いとのこと。集落内を南に下り、
車道の終端に入る。

 集落の西側から、生活道路になっている広い車道があるので、この旧道は車の通行を気
にすることなく安心して歩ける。


 少し下ると甲府市街や南アルプスの展望が開け、さらに下ると西側の尾根の上に、わず
かに冠雪した北岳(3,193m)の上部が姿を見せた。



 それらの展望を楽しみながら、高度はどんどん下がる。


 1.5㎞前後下った辺りで休憩した。


   
            
 カリンが実り、ツタが色づく道、正面から暖かな日射しを受けて気持ちよく下る。


 標高450m付近で右カーブし始め、左手の森に若宮八幡神社が祭られていた。

 創建年代は不明だが、鳥居には寛文9年(1669)と記され、貞享元年(1684)、
代官に差し出した書に若宮八幡の名があるとか。かやぶきらしい屋根にはトタンが被され
ているが、スギなどの木々に覆われた古びた社殿が、その歴史を感じさせてくれる。

       
 西に回り込んだ車道は古府中町の家並みへ。十字路を左折して南に向かい、石積みの龍
華池の下を通過し、国史跡・武田氏館跡(やかたあと)の東側、大手門周辺ゾーンに入る。


 武田氏館跡は、武田氏3代(信虎、信玄、勝頼)の本拠として築かれ、一辺約200m
の正方形の居館。東に位置する躑躅ヶ崎(つつじがさき)と呼ばれる尾根のふもとにある
ので、一般には「躑躅ヶ崎館」で親しまれているという。


 大手門周辺ゾーンは戦国時代の正面玄関にあたり、広い草地の一角に↑厩(うまや)跡
が復元されていた。

 堀割に囲まれた館跡に大手門から入ると、豊富な木々が伸び伸びと枝を広げ、その中心
に武田神社が祭られている。

 神社の祭神は武田信玄、大正4年(1915)、大正天皇即位に際して信玄公に従三位
追贈が報告されたのを機に、県民に武田神社創建の機運が沸き上がり、大正8年に社殿が
竣工し、以来、甲斐国の総鎮守として崇敬を集めているという。

 拝殿には早めの七五三詣での家族など次々に参拝者が訪れ、柏手を打っていた。


 神楽殿の横を抜けて11時50分頃、西側の広い草地に回り、芝生にシートを広げて昼
食をする。



 食事を済ませ、南側から西へと巡らす水堀の内側の土塁に上がって見たら、東南方向に
冠雪した富士山の上部が望まれた。


 12時35分に出発し、堀の西南端近くから東へ。



 正面の朱塗りの橋の前を通過し、堀の東南端まで行くと、永禄4年(1563)の川中
島の戦いなどで活躍した、高坂弾正忠昌信(こうさかだんじようのじようまさのぶ)の説
明板があった。


 大手町三丁目の北部を進み、護国神社境内に入る。護国神社は、明治12年(1879)
に招魂社(しようこんしゃ)として創建、昭和19年(1944)に護国神社としてこの
地に遷座された。戦争で尊い命を捧げた山梨県出身の約2万5千余人を、神様として祭っ
ているという。



 大鳥居を出た南側の参道では、骨董品などの市がそろそろ店じまいをはじめたところ。


 県道119号を東へ、県道が90度左折するところを右折し、すぐ先で折り返すように
右折した岩窪町に、武田信玄の墓があった。
       
 天正元年(1573)4月、信州伊奈で53歳の生涯を閉じた信玄は、臨終に際して3
年間の秘密を命じ、嫡子勝頼はこれに従い3年後、武田二十四将の一人、土屋右衛門邸で
荼毘(だび)に付したとのこと。この場所がその土屋邸跡、思いのほか簡素な墓地である。

 墓地のそばに「岩窪のヤツブサウメ」と呼ぶ、山梨県天然記念物で樹高約7m、根回り
約0.8m、3個結実するものが多いという梅の古木が立っている。
       

 岩窪町の住宅街を南西に進み、寺の西側、垣根の切れ目から大泉寺に入る。大本堂では
法事が執り行われていた。

 本堂の左手奥には、信玄の父、武田信虎の墓である五輪塔を祭る小さい建物があり、墓
は山梨県指定史跡となっていた。


 信虎は、永正4年(1507)武田氏の家督を継ぎ、武力で甲斐国内の統一に成功した
が、嫡子晴信(信玄)と対立して駿河に追われ、流浪の末に天正2年(1574)信濃国
高遠(たかとう)で病没し、ここ大泉寺に葬られたという。

 寺には国の重要文化財の「絹本著色武田信虎像」も所蔵され、境内の大イチョウが色づ
き始めていた。


 境内を南に抜け、黄檗宗(おうばくしゆう)様式の門として甲府市指定文化財になって
いる惣門を出て休憩する。


 愛宕山山麓を走る旧道を南進し、元紺屋町を抜ける。県道6号が愛宕トンネルに入る辺
りは寺院が多く、広大な墓地が眼下に見下ろせ、街並みの西方には、甲斐駒ヶ岳や鳳凰三
山などの稜線が望まれる。


 トンネルの先の台地の縁にある八雲神社境内を抜けて、下の道に下りる。



 堂々たる本堂の妙遠寺前を通過して小さい流れを渡り、北口二丁目を南下、甲府駅北口
の歴史公園に山手渡櫓門(やまてわたりやぐらもん)から入る。


 山手渡櫓門は、甲府城にあった3つの出入口のひとつで、武器庫としての役割も果たし
ていたといわれているとか。1700年頃の絵図をもとに、柳沢吉保が城主だった時代の
姿に復元したのだという。

 公園内には、国重要文化財の旧睦沢(むつざわ)学校校舎が移築復元されていた。

 旧睦沢校舎は、明治8年(1875)に巨摩郡睦沢村(現甲斐市)に建設された学校の
校舎。当時の県令、藤村紫郎にちなんで藤村(ふじむら)記念館ともいわれている。


 公園の南側の線路沿いには、木造の大きな火の見櫓(やぐら)や明治か大正期のものら
しい建物が幾つか並ぶが、観覧する時間は無い。



 今日のゴール、JR中央線甲府駅に14時33分に入る。土産物など購入する時間も少
なく、14時48分発の高尾行き上り電車で帰途についた。

(天気 快晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 甲府北部、歩行地 甲府市、歩数
 17,700、累積標高差 上り約90m、下り約500m)




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コメント (2)
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