2015年10月18日(日)
JR武蔵野線の沿線を中心に歩く、「続カタツムリ歩行」の第28回例会に参加した。
集合はJR武蔵野線の越谷(こしがや)レイクタウン駅。駅の開設は、越谷レイクタウン
の「町開き」と同時の2008年3月15日である。
駅北口を9時56分にスタートして、すぐ前の見田方(みたかた)遺跡公園へ。
遺跡の説明板などは無く、公園の北西端近くに、レイクタウン町開きの記念碑が立って
いた。
公園の北側には大相模(おおさがみ)調整池の北池がある。地域を洪水被害から守るた
めに造られたもの。
池の南西端から出る川のこあじさし橋を渡り、西側の新しい住宅地へ。
対岸には、イオンレイクタウンの大規模商業施設が望まれる。
住宅地の中ほどに、越谷市指定有形文化財で、旧東方村(ひがしからむら)にあった中
村家住宅が移築公開されている。入館料100円だが、今日は無料公開されていたので観
覧した。
旧東方村は、すぐ北側の現在の大成町で、越谷レイクタウンと元荒川に挟まれた一帯。
中村家は東方村の名主で、中村家住宅は安永元年(1772)の建築とか。建築年代の
確認できるものでは越谷市最古の住宅という。
幾つもの部屋や広い土間などががあり、たくさんの家具や民具、農具なども展示されて
いる。
客人などを接待する部屋の襖絵(ふすまえ)や板戸に描かれた絵など、なかなか見事な
ものだった。
客間からは、東側の公園の緑が望まれる。
便所付近のところは改装され、見田方遺跡の出土品などが展示されていた。
西側の広い通りに出て北へ、すぐ先で県道52号バイパスを横断する。北に延びる大成
町二丁目と相模町五丁目の間の通りに入ると、右手の大成町側に、大きな松やケヤキなど
の茂る広い屋敷らしい一角があるが、建物は見えない。
ちなみに、帰宅後、中村家住宅でもらった別の資料に掲載の、明治前期の地図で中村家
の位置を確認したら、この大きな屋敷の200mほど東方辺りと分かる。
その屋敷の南西端に、「従是東忍領」の標石が立っていた。中村家住宅のリーフレット
によれば、旧東方村は、元禄11年(1698)に幕府領からから忍領(おしりよう)に
組み入れられたとか。ここが、その忍領の西端だったと思われる。
近くの相模町五丁目側の桜堂墓地に、小さなお堂が祭られていた。古い五輪塔などの並
ぶ墓地の奥には、「南無阿弥陀佛」と刻まれた文和3年(1354)造立の名号(みょう
ごう)板碑が立っていた。
古くからの県道52号を横断し、さらに進んだ正面に文久元年(1861)銘の石鳥居
が立つ。
その先の参道は車道になっていて、200m余りで大相模久伊豆(ひさいず)神社の二
の鳥居が立っていた。
二の鳥居前に、樹齢数100年といわれる2本の大イチョウが並び、鳥居を入った右手
には、ヒノキ・エノキ双樹がある。
双樹はヒノキの幹の根元にエノキが絡まるように共生しており、地域住民の融和のある
べき姿であるとして、ご神木である。
久伊豆神社は旧東方村の鎮守、この地は、武蔵七党野与党の一族である大相模次郎能高
が本拠とした地と伝えられ、野与党の氏神として勧請されたものらしい。
境内の御手洗石には、文化4年(1804)と刻まれていた。境内にはケヤキやカシな
どがうっそうと茂り、鳥のさえずりが賑やか。
二の鳥居前の通りを東へ、近くに、久伊豆神社とは対照的に木々の少ない開放的な八坂
神社がある。
八坂神社は旧見田方村の鎮守で、天王社といわれた古社。境内には、文化8年(1811)
銘の改刻賽神塔(さいじんとう)や、文久3年(1863)銘の猿田彦大神塔、地蔵塔な
ど幾つかの石像が祭られていた。
さらに東へ、沿道の柿の実が色づく。
いったん南側の県道を回って大相模小入口バス停そばから北へ折り返す。左カーブ点の
木々の下に、庚申塔が立っていた。承応2年(1653)神無月(11月)の銘があり、
越谷市有形文化財に指定されている。
東側には、真新しい山門の観音寺があり、堂々たる本堂も最近の改築らしい。
観音寺の創建年代は不詳のようだが、「新編武蔵風土記稿」には記され、武蔵国三十三
ヶ所霊場第29番札所である。
境内のアメリカハナミズキなどが色づき、そばにこれも近年のものらしい双体道祖神が
立っていた。
境内の植栽はよく手入れされ、その一角に大師堂がある。
道路を隔てた南東の浄音寺に、墓地から入る。ここもクロマツなどの植栽が見事。
山門近くのお堂には、六地蔵が祭られていた。
正午に近いので、ゴールに向かって県道52号を東へと急ぐ。北行と南行とが分離され
た幅広い県道4号・東埼玉道路を横断する。
北側には豊富な屋敷林の民家が残り、南側は水田の向こうに越谷レイクタウンの建物群
が望まれ、対照的な景観である。
大成町交差点の先で細道を南に入ると、名の知れぬ小さな社殿が祭られ、古い五輪塔も
立っていた。
東町二丁目にある、ゴールの水神社には12時10分に着いた。
水神社は、明和6年(1769)に北東300mほどの元荒川と中川との合流点右岸近
くに建立され、中川の河川改修により平成18年(2006)に、この地に改築遷座した
とのこと。
境内には、安永5年(1776)、宝永4年(1707)、元文5年(1740)銘な
どの青面金剛塔、慶応4年(1868)銘の水神天尊塔などが並んでいた。
拝殿西側で昼食後、全員での記念撮影とミーティングを終え、13時頃散会となった。
(天気 晴、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 越谷、歩行地 越谷市、歩数
10,000)
散会後は中川の吉川橋を渡り、東側の吉川市内を少しだけ巡る。そのレポートは次回と
する。
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JR武蔵野線の沿線を中心に歩く、「続カタツムリ歩行」の第28回例会に参加した。
集合はJR武蔵野線の越谷(こしがや)レイクタウン駅。駅の開設は、越谷レイクタウン
の「町開き」と同時の2008年3月15日である。
駅北口を9時56分にスタートして、すぐ前の見田方(みたかた)遺跡公園へ。
遺跡の説明板などは無く、公園の北西端近くに、レイクタウン町開きの記念碑が立って
いた。
公園の北側には大相模(おおさがみ)調整池の北池がある。地域を洪水被害から守るた
めに造られたもの。
池の南西端から出る川のこあじさし橋を渡り、西側の新しい住宅地へ。
対岸には、イオンレイクタウンの大規模商業施設が望まれる。
住宅地の中ほどに、越谷市指定有形文化財で、旧東方村(ひがしからむら)にあった中
村家住宅が移築公開されている。入館料100円だが、今日は無料公開されていたので観
覧した。
旧東方村は、すぐ北側の現在の大成町で、越谷レイクタウンと元荒川に挟まれた一帯。
中村家は東方村の名主で、中村家住宅は安永元年(1772)の建築とか。建築年代の
確認できるものでは越谷市最古の住宅という。
幾つもの部屋や広い土間などががあり、たくさんの家具や民具、農具なども展示されて
いる。
客人などを接待する部屋の襖絵(ふすまえ)や板戸に描かれた絵など、なかなか見事な
ものだった。
客間からは、東側の公園の緑が望まれる。
便所付近のところは改装され、見田方遺跡の出土品などが展示されていた。
西側の広い通りに出て北へ、すぐ先で県道52号バイパスを横断する。北に延びる大成
町二丁目と相模町五丁目の間の通りに入ると、右手の大成町側に、大きな松やケヤキなど
の茂る広い屋敷らしい一角があるが、建物は見えない。
ちなみに、帰宅後、中村家住宅でもらった別の資料に掲載の、明治前期の地図で中村家
の位置を確認したら、この大きな屋敷の200mほど東方辺りと分かる。
その屋敷の南西端に、「従是東忍領」の標石が立っていた。中村家住宅のリーフレット
によれば、旧東方村は、元禄11年(1698)に幕府領からから忍領(おしりよう)に
組み入れられたとか。ここが、その忍領の西端だったと思われる。
近くの相模町五丁目側の桜堂墓地に、小さなお堂が祭られていた。古い五輪塔などの並
ぶ墓地の奥には、「南無阿弥陀佛」と刻まれた文和3年(1354)造立の名号(みょう
ごう)板碑が立っていた。
古くからの県道52号を横断し、さらに進んだ正面に文久元年(1861)銘の石鳥居
が立つ。
その先の参道は車道になっていて、200m余りで大相模久伊豆(ひさいず)神社の二
の鳥居が立っていた。
二の鳥居前に、樹齢数100年といわれる2本の大イチョウが並び、鳥居を入った右手
には、ヒノキ・エノキ双樹がある。
双樹はヒノキの幹の根元にエノキが絡まるように共生しており、地域住民の融和のある
べき姿であるとして、ご神木である。
久伊豆神社は旧東方村の鎮守、この地は、武蔵七党野与党の一族である大相模次郎能高
が本拠とした地と伝えられ、野与党の氏神として勧請されたものらしい。
境内の御手洗石には、文化4年(1804)と刻まれていた。境内にはケヤキやカシな
どがうっそうと茂り、鳥のさえずりが賑やか。
二の鳥居前の通りを東へ、近くに、久伊豆神社とは対照的に木々の少ない開放的な八坂
神社がある。
八坂神社は旧見田方村の鎮守で、天王社といわれた古社。境内には、文化8年(1811)
銘の改刻賽神塔(さいじんとう)や、文久3年(1863)銘の猿田彦大神塔、地蔵塔な
ど幾つかの石像が祭られていた。
さらに東へ、沿道の柿の実が色づく。
いったん南側の県道を回って大相模小入口バス停そばから北へ折り返す。左カーブ点の
木々の下に、庚申塔が立っていた。承応2年(1653)神無月(11月)の銘があり、
越谷市有形文化財に指定されている。
東側には、真新しい山門の観音寺があり、堂々たる本堂も最近の改築らしい。
観音寺の創建年代は不詳のようだが、「新編武蔵風土記稿」には記され、武蔵国三十三
ヶ所霊場第29番札所である。
境内のアメリカハナミズキなどが色づき、そばにこれも近年のものらしい双体道祖神が
立っていた。
境内の植栽はよく手入れされ、その一角に大師堂がある。
道路を隔てた南東の浄音寺に、墓地から入る。ここもクロマツなどの植栽が見事。
山門近くのお堂には、六地蔵が祭られていた。
正午に近いので、ゴールに向かって県道52号を東へと急ぐ。北行と南行とが分離され
た幅広い県道4号・東埼玉道路を横断する。
北側には豊富な屋敷林の民家が残り、南側は水田の向こうに越谷レイクタウンの建物群
が望まれ、対照的な景観である。
大成町交差点の先で細道を南に入ると、名の知れぬ小さな社殿が祭られ、古い五輪塔も
立っていた。
東町二丁目にある、ゴールの水神社には12時10分に着いた。
水神社は、明和6年(1769)に北東300mほどの元荒川と中川との合流点右岸近
くに建立され、中川の河川改修により平成18年(2006)に、この地に改築遷座した
とのこと。
境内には、安永5年(1776)、宝永4年(1707)、元文5年(1740)銘な
どの青面金剛塔、慶応4年(1868)銘の水神天尊塔などが並んでいた。
拝殿西側で昼食後、全員での記念撮影とミーティングを終え、13時頃散会となった。
(天気 晴、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 越谷、歩行地 越谷市、歩数
10,000)
散会後は中川の吉川橋を渡り、東側の吉川市内を少しだけ巡る。そのレポートは次回と
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