あるきメデス

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高崎の観音塚考古資料館と観音塚古墳へ(群馬)

2015-12-04 11:09:15 | ウオーキング
 2015年12月2日(火)

 今日は、連れ合いの希望により、高崎市郊外にある高崎市観音塚考古資料館と近くの国
史跡 観音塚古墳を訪ねました。

 8時20分に自宅を出て、秋津、大宮、高崎など西武線とJRあわせて4回乗り換え、
11時27分にJR信越本線の群馬八幡(やわた)駅に着きました。


 最初の目的地である観音塚考古資料館までは、西北西に約2㎞のところです。
  

 線路の北側に平行する通りを西に少し進むと、観音塚考古資料館への案内板があり、そ
の先にも曲がり角などに幾つも案内板が立っていて、迷わずに行くことが出来ます。
        

 最初の三差路際にあった神社の名は、拝殿上部をのぞき込んだら「開運大天」の掲額
で判明しました。


 近くの市道に埋め込まれていた、お祭りを形どった高崎市のマンホールのデザイン。
    

 道路沿いには、古くからの敷地の広い民家と近年建築されたらしい比較的狭い新興住宅
とが混在しています。


 取り残して熟した実の残る柿の木も、あちこちで見られました。


 600m余りのT字路で広い道路に入り北に向かうと、古い道しるべ石に「向右けんさ
き道」と記されていました。北東にある現在の剣崎町への道標のようです。
        

 通りの正面には、台地の中腹にある八幡八幡宮(やわたはちまんぐう)が望まれます。


 2つの神門をくぐり、石段を上がった正面が八幡八幡宮の拝殿。


 八幡八幡宮は、元徳元年(957)、京都の石清水(いわしみず)八幡宮から勧請(か
んじょう)して創建したという古社。

 上野国一社八幡宮(こうずけのくにいっしゃはちまんぐう)ともいわれ、源氏一門から
崇敬され、さらに新田氏(にったし)、足利氏、武田氏などの崇敬も受け、徳川幕府から
は朱印地100石を寄進されたようです。

 敷地面積は約9,000坪あり、現在の社殿(随神門、拝殿、本殿)は文化11年
(1750)~宝暦7年(1757)の再建とされるとか。

 拝殿の天井には、色落ちがありますが天井絵が描かれていました。


       拝殿の両側には2枚の大きな掲額があり、こちらは左手のもの。
      

 「大々御神楽」と書かれていますが、現在も祭日に奉納されている神楽は、宝暦4年
(1754)に京都の神祇官領職に出願して復元した、能形式を取り入れた古式ゆかし
いもので、高崎市重要無形文化財第1号に指定されているようです。

 拝殿の背後の本殿には、精巧な木彫や色あせてはいますがきれいな彩色が施されていま
す。


    

         

 境内には、稲荷社や山王宮、疫斎神(えきさいじん)↓などの境内社が幾つか祭られて
いました。
        
 
 建物は神仏混合式のようで、仏殿様式の建物も残っています。最初にくぐった石段下の
の神門も、もとは仁王門だったとか。東側にポツンと立つ、もと本地堂だったというりっ
ぱな天満宮↓や鐘楼もそうらしいと分かります。


        

 高台にあるので、境内からは南側の展望が広がります。


 西側に出て、広い道路に分かれて西に延びる住宅地の中の旧道を進むと、民家の庭先に
大きく伸びた皇帝ダリアが咲き残っていました。


 近くの広い空き地の南側は八幡二子塚古墳のようですが、説明パネルはありません。


 高崎観音塚考古資料館のパンフレットに記載されていた、八幡二子塚古墳の説明。


 すぐ先、戸建て住宅団地の直線道路の向こうに、高崎市観音塚考古資料館がありました。


 考古資料館を囲む植え込みの、狂い咲きのツツジ。


 高崎市観音塚考古資料館は昭和63年(1988)に開館し、昭和36年(1961)
2月に国の重要文化財に指定された、近くの国史跡 観音塚古墳からの出土品関連の資料を
保存・公開しています(入館料 一般100円、65歳以上や身体障害者などは無料)。

 12月6日(日)まで、「石室開口70周年~観音塚古墳の世界 巨石の来た道」とい
う企画展を開催中で、国指定重要文化財300余点という観音塚古墳の副葬品のすべてが
見られるというので、連れ合いが誘ってくれたのでした。

 館内は撮影禁止なので、入館時にもらったパンフレットの中から、展示されていた副葬
品の一部を紹介します。


       

           

       

  

 これら300点を超える出土品はどのようにして発見されたのかというと、太平洋戦争
末期の昭和20年(1945)3月10日(東京大空襲があった日)、観音塚古墳の後円
部に共用の防空壕を掘っていた近隣世帯の人々の前に、突然目の前に巨大な空間と豪奢
(ごうしゃ)な副葬品が現れたので驚嘆したようです。

 これらたくさんの副葬品は、古墳時代のこの地の文化、技術の高さを示すものだと実感
し、大変興味深くじっくりと解説を読みながら観覧しました。

 1時間余り観覧していたら13時半過ぎとなり、館の前の冷たいコンクリート台に腰を
下ろして遅い昼食をしました。

 構内北東側には、「八幡遺跡20号墳」と呼ぶ、直径12mの円墳が復元されています。


 発見当時、円墳の上部は失われていたので、そのまま復元したようです。


 このあと北側200mほどにある観音塚古墳を見に行くことにして、資料館で貸し出し
している懐中電灯を借りて古墳に向かいます。

 途中の民家の庭には、数えきれぬほどのピラカンサの実が。


 観音塚古墳は、復元全長105m(現状は95m)の前方後円墳で、主軸をほぼ東西に
とり、前方部が西側、後円部が東側に位置していて、6世紀末頃の築造とされ、群馬県域
では最期の前方後円墳と考えられるとのこと。下図は、考古資料館のパンフレットから。


 この古墳で特に注目されるのは石室を構築する自然石の巨大さで、最大重量は55トン
にも及び、「群馬の石舞台」と呼ばれているようです。

 観音塚古墳の南面からの後円部。


 左にカメラを振った前方部はこちら。


 後円部の南側に、この古墳で特に注目の石室があり、奥の玄室を囲む巨石の大きさに驚
かされます。


 考古資料館で借りてきた懐中電灯を点けて、石室に入りました。

 最大重量55トンといわれる巨石があり、奈良県明日香村の石舞台古墳に匹敵するもの
として「群馬の石舞台」といわれるのもうなづけます。


 石室の奥から見た入口。


       パンフレットに記された石室測量図
      

 石室を出て、中央部から古墳に上ります。こちらは後円部


 西側の前方部


 北東側、街並みの向こうに赤城山が望まれますが、霞んでいました。


 懐中電灯を返戻して観音塚考古資料館を出て、駅に向かうことにしました。戸建て住宅
団地の西側に回り、平塚公園に入ります。

 公園には埴輪が立っていて、背後の盛り上がりが平塚古墳と分かりますが、ここにも説
明板はありません。
    

 やはり考古資料館のパンフレットが参考になります。


 住宅団地の南側は崖になっていて、崖上に遊歩道があったのでその道を東に向かいます。
崖地の斜面にナシ畑があり、葉はすでに落ちていました。


 西方をふり返ると、夕暮れが近づき霞む妙義山が望まれます。


 遊歩道が終わって団地からの車道に合し、信越線の踏切際に下ると上り電車がやってき
ました。あと20分くらい早ければ、この電車に間に合ったのに残念…。


 次の上り電車は1時間後なので、ゆっくりと駅に向かいます。

 少し進むと、堀口商会の倉庫や庭先にたくさんのダルマが並んでいました。正月のだる
ま市で知られる少林山達磨寺(しょうりんざんだるまじ)は、群馬八幡駅の南側1㎞余り
のところにあり、正月にはそこで初売りされるもののよう。




 八幡八幡宮に延びる車道に合して駅への往路へ。民家のサザンカは、もう盛りを過ぎて
いました。
    

 農家の古い納屋には、干し大根が。


 往路では気付きませんでしたが、八幡東公民館前の街灯に福だるまのデザインを発見。
        

    やはり少林前達磨寺にちなんで造られたようです。
    

 15時47分に群馬八幡駅に戻りました。駅の出入口横でも、新しいだるまさんが迎え
てくれました。 
         

 座布団の敷かれた待合室で30分余り待ち、16時22分発の上り電車で高崎駅に向か
い、途中の武蔵浦和駅構内の店で夕食を済ませ、20時過ぎに帰宅しました。

(天気 曇、距離 4.5㎞、地図(1/2.5万) 下室田、歩行地 高崎市、歩数
 8,700)


 なお、高崎市観音塚考古資料館の企画展関連の催しとして、11月28日(土)に実施
した「古墳の石を運んでみよう! こどものための修羅引き体験」の模様が、12月5日
(土)午前7時30分~8時のNHK総合TV「おはよう日本」で放映されるようです。




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