あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

飯能市郷土館と飯能市の中心街を巡る(埼玉)

2015-12-09 22:47:30 | ウオーキング
 2015年12月8日(火)

 会期が残り6日となったので、飯能市(はんのうし)郷土館で開催されている「西武池
袋線飯能池袋間開通100周年記念 武蔵野鉄道 開通」という特別展の観覧のため、西武
池袋線飯能駅北口を11時30分に出た。


 北に向かい、2つ目の信号のある東町交差点を左折して中央通りを西進する。この通り
とその先に続く大通りには、古くからの建物が幾つか残っていた。これは飯能織物協同組
合の建物。

 大正11年(1922)に建築されたもので、洋風建築ながら棟の両側にはシャチホコ
が上がっていて、内部にも床の間を持つ18畳の和室があるという。

 2つ目の広小路交差点際にあるのは中清商店。この先は大通りとなる。


 すぐ先に並ぶ銀河堂は蔵造り。


 飯能商工会議所の前辺りには吉田屋呉服店が。
 

 斜向かい、飯能市指定有形文化財の店蔵絹甚(たなぐらきぬじん)は、蔵造りの家並み
が並ぶ川越を思わせる、どっしりした蔵造り。


 仲町交差点の近く、南への通りを入ると木造3階建て、うなぎ料理店の畑屋がある。


 南側の建物が3階建てで、北に伸びる棟は木造2階建て。


 大通りの突き当たりには市立図書館があるが、すぐ手前の細い通りを北に入ると、八坂
神社が祭られていた。

 祇園祭(ぎおんまつり)で知られる京都・祇園町の八坂神社を勧請したものらしい。

 西側の広い通りへコの字状に折り返して、飯能河原交差点際から観音寺境内に入る。入
口付近に飯能鬼子母神の小さなお堂が祭られていた。
        

 背後のモミジが鮮やかな彩りを見せる。


    
 その先には、お地蔵さんや鐘楼堂に立つ白い象が目に付く。鐘楼堂の梵鐘(ぼんしょう)
は太平洋戦争で供出させられ、その代わりに白象を祭ったらしい。
    

 観音寺は、江戸時代の文化・文政期(1804~30)の頃には、高麗郡(こまぐん)
三十三か所霊場10番札所として庶民の信仰を集めたとか。如意輪観世音を本尊としてい
るが、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番観音の各本尊の写しを合わせた百観音
も本堂に安置されているとのこと。

 突き当たりに東を向いて立つ福聚殿には、文殊菩薩、不動明王、持国天、増長天、廣目
天など12神が安置されているという。


 境内の樹間からは、南側の名栗川に架かる割岩橋(われいわばし)が望まれる。


 福聚殿の横から墓地の間の小道に抜けて、諏訪沢と呼ぶ流れに向かって下って上がる。
沢の周辺は豊富なシラカシの自然林になっていて、埼玉県でも保存に力を入れている。


 上り坂の途中から左に上がったところは、諏訪八幡神社。拝殿は修復中のようで、青い
シートが掛けられていた。


 境内には幾つもの摂社があるが、そのひとつ丹生大明神。


 南側には何本かのモミジの古木があり、いずれもよい彩りを見せている。


    

        

    

 同じ境内の西端付近には、武蔵野七福神のひとつ、飯能恵比寿神社が祭られていた。


 その横を西北に抜けて西側にある飯能市郷土館に入り、今日の主目的である特別展を最
初に観覧する(特別展会場は撮影禁止)。




 「武蔵野鉄道」とは、私が何十年も利用している現在の西武池袋線の前身で、100年
前の大正4年(1915)4月15日に池袋~飯能間が開通した。

       

 この鉄道は、当時の飯能町や所沢町、保谷村、石神井村など沿線地域の協力により開業
にこぎつけ、その後、旧西武鉄道と合併して現在の西武鉄道となり、秩父まで延びている。

 会場では、武蔵野鉄道が隣接の青梅・川越鉄道に与えたインパクト関連資料、武蔵野鉄
道開通にあたっての申請書から起工式、開通式関連のもの、開通後の観光用リーフレット
類、車両台帳、割引乗車券、絵はがき、鉄道案内図、時刻表など、さらに武蔵野鉄道と飯
能との関わりの資料。

 西武鉄道となった後のリーフレット、ポスター、ヘッドマーク、行先表示板、改札鋏
(はさみ)や車掌鋏、エピローグとして近年の記念カードや記念乗車券、100周年記念
乗車券、西武鉄道車両のNゲージ模型など、実物資料が93項目、写真資料が99項目も
あり、貴重なものも多く、予想以上に充実した展示だった。

 残念だったのは、この特別展の図録が売り切れだったこと。会期は10月11日(日)
から2か月あったので、もう少し早く来ればよかった。

 このあと常設展示コーナーも巡る。入口近くにある、飯能の特産「西川材」と呼ぶ材木
をソリ(木馬)により搬出する様子。


 幕末の武州一揆や飯能戦争関連のコーナー。


 江戸まで、川を下って木材を運んだ筏(いかだ)の実物大模型。


 常設展示コーナーには、特別展関連で国重要文化財の「飯能駅停車場平面図」も展示さ
れていた。

 1時間余り観覧して、13時30分過ぎに飯能市郷土館を出た。北側には、飯能のシン
ボルともいえる天覧山(195m)が望まれる。


 郷土館の北側には市民会館があり、さらにその北側一帯は中央公園になっている。


 中央公園の北西端から市民会館入口交差点を渡り、広い境内の能仁寺へ。


 山門を入ったすぐ先左手のモミジ。


    

 能仁寺は戦国時代の創建、飯能地方の領主だった中山、黒田両家の菩提寺となり栄華を
極めた。慶応4年(1868)5月の飯能戦争の本陣になり、宝物や文書の多くを失った
という。寺には、中山家勝(いえかつ)、家範(いえのり)、照守(てるもり)3代の墓
と黒田家累代の墓がある。

 境内中心に構える大本堂。


 本堂前には、古い本堂に上がっていたらしい大きな鬼瓦が並んでいた。


 鐘楼もほかの寺より大きな構え。


 西側にあるお堂は何なのかは分からなかった。


 その横から本堂左手は意図の斜面を挙がると、少し盛りを過ぎたものもあるがモミジな
どがよい彩りを競う。
    





      

 そばの階段に沿って中山家3代の墓が縦列で並んでいた。これは中間の中山家範の墓。
         

 この辺りは高台なので、色づいた西南の山並みなどが望まれる。


 境内に戻ってふり返る開山堂の周辺。本堂はこの右手になる。


 境内を東に抜けて天覧山入口から東南へ、ニコニコ池際まで下る。この沿道のモミジも
鮮やかな色を見せていた。




 池の南側の車道を渡った中央公園の東北端付近には、手塚治虫の鉄腕アトム像がある。
         
 1983年、飯能青年会議所10周年記念事業の一環として立てられたもので、落成式
には手塚治虫さんも来られて除幕したという。

 公園の東北端から東南に延びる車道を進む。飯能一小の南側の細い路地に、出世稲荷神
社の小さ目な社殿があった。


 その通りを南下し、さらに2つ南の通りを東進する。この通りにも幾つか古い建物が残
っていた。蔵造りの店は酒田屋商店。


 昼食の出来る食堂を探しながら、午前中に通った飯能織物協同組合の建物横を南下して
銀座通りに入る。和菓子などを販売する伊勢屋の横に食事メニューも並んでいたので入り、
すっかり遅くなった昼食をする。


 注文したのは「ひもかわ雑煮」(630円)、ひもかわとは埼玉県内では昔から常食に
していた幅広いうどんのこと。私が太平洋戦争の戦中戦後に過ごした県内小川町では、母
が夕食によく作ってくれたものだった。懐かしく味わう。
    

 食事を終えたのは15時を過ぎていた。ここまで来れば駅は近い。15時22分に飯能
駅に戻り、来た時には気付かなかった出札所横の飯能駅観光案内所に入って市内のウオー
キング地図などを入手し、15時35分発上り池袋行き準急電車に乗る。


(天気 快晴、距離 4.3㎞、地図 飯能 駅からMAPシリーズ4「まちなかワクワク
 歩いてみんべえ~」、歩行地 飯能市、歩数 9,200)




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