2021年4月7日(水)
春本番となり、ここ2,3日続いた低温も解消されそうなので、久しぶりに所沢市と三
芳町境周辺にある多聞院(たもんいん)と多福寺(たふくじ)を訪ねることにした。
以前は往復とも歩いて行ったのだが、加齢に伴い疲労と歩く速度の低下を考えて、往路
はバス利用することにした。
西武新宿線航空公園駅まではいつものように歩いて行き、東口から9時55分発のとこ
ろバス北路線富岡循環コースに乗る。
バス待ちの間に眺めた駅前の通りのハナミズキ
ケヤキの新緑が気持ちよい彩り、1本だけのムラサキモクレンも咲く。
バスは、航空公園駅や新所沢駅周辺をかなり迂回してから東北へと進む。10時45分
頃、多聞院通り西バス停で下車した。
そばの交差点から北東に延びる多聞院通りを、交通量の多いトラックなどに注意しなが
ら進み、5分ほどで多聞院の西に接する富(とめ)の神明社前に着いた。
富の神明社は、元禄9(1696)年に川越藩主の柳沢吉保が、三富(さんとめ)新田
(上富・中富・下富村)を開村した際、開拓農家の祈願所で鎮守の宮として毘沙門社(多
聞院)を創建したとか。
明治2(1869)年の神仏分離令により西側の境内は当神社とし、東側は多聞院とし
てそれぞれ独立し、今日に至っているという。
ケヤキなどの新緑に覆われた境内右手の舞台↑前を進み、正面の拝殿に参拝し、いつも
のように新型コロナウィルスに感染しないよう祈願する。
拝殿の左手には小さい神社が祭られていた。
「いも神さま」と呼ばれる「甘藷乃神」で、前面にはサツマイモの大きな模型があり、
「なでいも」だという。
江戸時代の当地、南永井村の名主・𠮷田弥右衛門がが寛永4(1751)年にサツマイ
モを試作し、のちには江戸の焼き芋用の芋として作られるようになり、農家の貴重な収入
源になり暮らしが楽になったことから、弥右衛門の功績を称えるとともに、関東のサツマ
イモ作りの元祖・青木昆陽とあわせて祭っているよう。
「なでいも」は、いも神さまのご恩に感謝するとともに、サツマイモのたくましい生命
力にあやかり、健康・家内安全・子孫繁栄などを祈願するために撫でて、神の力をいただ
くようつくられたという。
境内にある絵馬の一部
境内中央部東側に、隣の多聞院への通路があるのでここから入る。
多聞院は、前述の通り元禄9(1696)年川越藩主・柳沢吉保が三富新田の祈願所と
して毘沙門天社を建立し、その別当寺として創建したもの。
明治維新後は、神仏分離令により毘沙門天社を毘沙門堂と改めており、毘沙門天は武田
信玄の守り本尊と伝えられているよう。12年に一度の寅年には本尊の毘沙門天が開帳さ
れており、来年、2022年が寅年なので開帳されるものと思われる。
多聞寺境内はモミジなど樹木が多く、やわらかな新緑に彩られて
いる。
境内には、奥多摩新四国八十八ヶ所霊場の第三十六番 土佐之国 青龍寺の小さなお堂が
祭られていた。
その先から東側正面に回って、境内中央部参道を進む。
参道中ほどに咲く白いトキワマンサクのような花。
そばのしだれ桜はまだ咲き残る。
その先には真っ白な花も。
大株のドーダンツツジが咲き出していた。
周辺にはモミジが多く、その新緑がみずみずしい。
新四国霊場の先の参道交差部際には。
「鬼の悟り」と呼ぶ石像で、 近年に信徒の石工が奉納した鬼の我慢している姿だという。
正面の毘沙門堂に参拝し、ここでも新型コロナウィルスに感染しないよう祈願した。
本堂前の狛犬や、拝殿の階段、濡れ縁などにおびただしい数の小さな寅が並んでいる。
「身がわり寅」で、毘沙門さまの使いである寅に「身にかかる災い」を託して納めるの
だという。
毘沙門堂周辺に咲く黄色のカタクリ。
こちらはクマガイソウ。
近くには力石が並び、その先には笠地蔵が立っていた。
こちらにも咲き残るシダレ桜が。
何か所かに咲いていたミツバツツジのひとつ。
シャクナゲやツツジはまだつぼみだった。
ホウチャクソウはほぼ咲き終えたよう。
境内に300本以上あるというボタンも、まだほとんどがつぼみ。
ボタンの多い回廊の近くには、お地蔵さんが3体立っていた。
そばのモミジにはおみくじが。
多聞院にもたくさんの絵馬が奉納されている。
あちこちにあるモミジの新緑が気持ち良い。
その下に1輪だけボタンが咲いていた。
あふれる新緑と花を楽しみながら境内を一巡後、多聞院通りに出て東隣の三芳町に入り、
近くの多福寺に向かう。 〈続く〉
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春本番となり、ここ2,3日続いた低温も解消されそうなので、久しぶりに所沢市と三
芳町境周辺にある多聞院(たもんいん)と多福寺(たふくじ)を訪ねることにした。
以前は往復とも歩いて行ったのだが、加齢に伴い疲労と歩く速度の低下を考えて、往路
はバス利用することにした。
西武新宿線航空公園駅まではいつものように歩いて行き、東口から9時55分発のとこ
ろバス北路線富岡循環コースに乗る。
バス待ちの間に眺めた駅前の通りのハナミズキ
ケヤキの新緑が気持ちよい彩り、1本だけのムラサキモクレンも咲く。
バスは、航空公園駅や新所沢駅周辺をかなり迂回してから東北へと進む。10時45分
頃、多聞院通り西バス停で下車した。
そばの交差点から北東に延びる多聞院通りを、交通量の多いトラックなどに注意しなが
ら進み、5分ほどで多聞院の西に接する富(とめ)の神明社前に着いた。
富の神明社は、元禄9(1696)年に川越藩主の柳沢吉保が、三富(さんとめ)新田
(上富・中富・下富村)を開村した際、開拓農家の祈願所で鎮守の宮として毘沙門社(多
聞院)を創建したとか。
明治2(1869)年の神仏分離令により西側の境内は当神社とし、東側は多聞院とし
てそれぞれ独立し、今日に至っているという。
ケヤキなどの新緑に覆われた境内右手の舞台↑前を進み、正面の拝殿に参拝し、いつも
のように新型コロナウィルスに感染しないよう祈願する。
拝殿の左手には小さい神社が祭られていた。
「いも神さま」と呼ばれる「甘藷乃神」で、前面にはサツマイモの大きな模型があり、
「なでいも」だという。
江戸時代の当地、南永井村の名主・𠮷田弥右衛門がが寛永4(1751)年にサツマイ
モを試作し、のちには江戸の焼き芋用の芋として作られるようになり、農家の貴重な収入
源になり暮らしが楽になったことから、弥右衛門の功績を称えるとともに、関東のサツマ
イモ作りの元祖・青木昆陽とあわせて祭っているよう。
「なでいも」は、いも神さまのご恩に感謝するとともに、サツマイモのたくましい生命
力にあやかり、健康・家内安全・子孫繁栄などを祈願するために撫でて、神の力をいただ
くようつくられたという。
境内にある絵馬の一部
境内中央部東側に、隣の多聞院への通路があるのでここから入る。
多聞院は、前述の通り元禄9(1696)年川越藩主・柳沢吉保が三富新田の祈願所と
して毘沙門天社を建立し、その別当寺として創建したもの。
明治維新後は、神仏分離令により毘沙門天社を毘沙門堂と改めており、毘沙門天は武田
信玄の守り本尊と伝えられているよう。12年に一度の寅年には本尊の毘沙門天が開帳さ
れており、来年、2022年が寅年なので開帳されるものと思われる。
多聞寺境内はモミジなど樹木が多く、やわらかな新緑に彩られて
いる。
境内には、奥多摩新四国八十八ヶ所霊場の第三十六番 土佐之国 青龍寺の小さなお堂が
祭られていた。
その先から東側正面に回って、境内中央部参道を進む。
参道中ほどに咲く白いトキワマンサクのような花。
そばのしだれ桜はまだ咲き残る。
その先には真っ白な花も。
大株のドーダンツツジが咲き出していた。
周辺にはモミジが多く、その新緑がみずみずしい。
新四国霊場の先の参道交差部際には。
「鬼の悟り」と呼ぶ石像で、 近年に信徒の石工が奉納した鬼の我慢している姿だという。
正面の毘沙門堂に参拝し、ここでも新型コロナウィルスに感染しないよう祈願した。
本堂前の狛犬や、拝殿の階段、濡れ縁などにおびただしい数の小さな寅が並んでいる。
「身がわり寅」で、毘沙門さまの使いである寅に「身にかかる災い」を託して納めるの
だという。
毘沙門堂周辺に咲く黄色のカタクリ。
こちらはクマガイソウ。
近くには力石が並び、その先には笠地蔵が立っていた。
こちらにも咲き残るシダレ桜が。
何か所かに咲いていたミツバツツジのひとつ。
シャクナゲやツツジはまだつぼみだった。
ホウチャクソウはほぼ咲き終えたよう。
境内に300本以上あるというボタンも、まだほとんどがつぼみ。
ボタンの多い回廊の近くには、お地蔵さんが3体立っていた。
そばのモミジにはおみくじが。
多聞院にもたくさんの絵馬が奉納されている。
あちこちにあるモミジの新緑が気持ち良い。
その下に1輪だけボタンが咲いていた。
あふれる新緑と花を楽しみながら境内を一巡後、多聞院通りに出て東隣の三芳町に入り、
近くの多福寺に向かう。 〈続く〉
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